認識の消滅
最近、ある人から、小生が支援活動を続けている動機他について、質問を受けました。小生の印象・記憶なので正確ではないかも知れませんが、以下のように受け止めました。
①「ちょっと前まで団体の幹部をやっていた人が、こんなことをやる動機がよく分からない」
②「傍目から見ても、やっている当人としても『どうしようもない、普通なら関わりたくないような人達』と、なぜ関わり続けるのか?普通だったら金持ちとか有名人と関わりたいと思う筈。」
上記①の質問は、喩えるなら
「ソニーの部長だった人が、普通のアルバイトをしだしたような感じ」
ということです。つい先頃まで偉い幹部だったのに、なぜホームレスのようなどうしようもない人達の相手ばかりするようになったのか、なぜそれが継続できるだけの動機が保てるのか、という質問です。
この動機という点については、小生の中ではほぼ完結しているので、特に疑問を抱きながらやっているわけではありません。勿論満足しているわけではなく、「どうやったらこの人達が立ち直れるか」という、ケースによっては答えが無いようにも思える難問に、日々苛まれ続けているのですが。
確かに小生にとっては当たり前で疑問をはさまなかったことも、傍目には不思議に思えたのかも知れません。それで今回の記事を書いてみることにしました。上記②の質問に小生は、話の流れの中で次のように答えました。
「そりゃ、釈迦牟尼みたいに、凄い能力を持った人がいきなり500人くらい協力者を引き連れてきてくれたら、凄いよね。」
500人を引き連れてきた凄い能力の人とは、サーリプッタとモッガラーナ。いわゆる釈迦の二大弟子のことです。対する小生は、「死にたいけど死ねない」「自称ダメ人間」が2名(プラスα)。これが現在地点です。
この質問の回答を理解頂くには、小生が現在行っている修行について理解頂く必要があります。その修行とは、
「認識そのものを変える」
ということです。仏教修行は最終的に、「認識そのものを超え」た上で、経験そのものを滅することを目指すものです。分かりやすく言うと、「目に入った対象の認識」として、その相手が「自分はダメ人間で、生きている価値が無くて…」と苦しんでいるとします。それを小生が認識した瞬間から、その認識された苦しみが無くなるような関わりをする、ということになるのです。
小生がやっているこれらの一連の行為は、客観的に見れば「相手が困っている、苦しんでいるのを何とかしてあげる」という慈善的行為に映るかも知れません。これは自分と他人を別の存在として区別した場合、そうなります。
他方、「認識の消滅」「認識の変容」という風に考えれば、それは小生自身の問題とも言えます。しかし小生自身の問題として処理する上で、超えなければいけないハードルがあります。客観的には他人の問題を自分の問題として消滅・変容させるには、その認識の対象を十分に引き寄せる必要があるということです。それを可能にしてくれるのは、「破壊再生」で述べたような、以下の条件を満たす場合くらいしかありません。
①本人が「今のままではダメだ」と考えていて、「何とかしたい」と思っていること
②「何とかする」為の具体的関わりが、小生との間に生じていること
③他に逃げ場がないこと
しかしこれに該当するケースは極めて少ないです。例えば「家と金がなくて困っている」人がいたとしても、生活保護で住居とお金が手に入った途端、そこで満足してしまう人が大半です。すると、小生に対しては、家賃さえ払ってしまえば、後は何の関わりも生じないことになるのです。
ただ、その人の問題は、本質的なレベルでは解消していないにしても、その人が「家と金が無く困った状態」という認識は消滅するので、小生とその人の関係も一旦そこで終わるに等しいです。
(つづく)
稼ぎだいだけ。
生活保護費なしで面倒みれってんだよ。
「認識の消滅」「認識の変容」
グル批判して実践出来るのかね?