台湾のアマ――鄭陳桃

「私は1942年6月4日の朝に起きたこと、私の一生の運命を変えた出来事を決して忘れることはできません。もう60年もたちましたが、はっきりと覚えています。当時、私は中学生でした。学校へ行く途中、ジープを運転する渡辺という日本の警察官が通りかかり、車に乗るように言われました。私を学校まで送っていくというのです。車は前へ前へと進んでいきますが、それは学校へ行く道ではありません。私が泣きながら「学校へ行きたい」と言うと、その人は私を罵り、静かにしろと言います。そうして着いたのは高雄港で、そのまま船に乗せられ、インドのアダマン島へ連れていかれました。家族に別れを告げることさえできませんでした。

初めて客を取らされた時のことは忘れられません。日本兵が服を脱いで真っ裸になったので、私は怖くなって逃げ出し、便所に隠れて泣いていたのですが、そこから引っ張り出されて客を取らされました。私たちを管理する日本人の女の人から『ここへ来たのだから、言うことをききなさい』と言われました。慰安所での日々は辛く苦しく、私は3回にわたって消毒液を飲んで自殺しようとしましたが、死ぬことはできず、そのまま凌辱され続けました。生きて帰って祖母に会いたい一心で耐え続けました。

そうして活きて台湾に帰ると、叔父に『我が家には、こんな恥知らずな女はいらない』と罵られました。私は荷物を持って再び家を出るしかなく、飯炊きや洗濯、裁縫などに雇われて生活しました。その後、ようやく一度結婚しましたが、子供が出来ず、跡取りができないというので姑から離婚を求められ、また一人になりました。今、私は台湾南部の屏東の市場でココナッツを売って暮らしています。売り場の横にトタン板で建てた家が唯一の住みかです。昼間はにぎやかな卸売市場ですが、夜になると真っ暗で人っ子一人なく、私一人だけなので、ついつい昔を思い出し、誰にも私の悲しみを理解してもらえず、一杯また一杯と酒を飲みながら泣き、こうして苦痛を紛らすしかありません」