狂った地獄図の朝鮮の巻

(cache) 朝鮮の奴婢売買:天木の活動:捉えられた黄:李同士の友情

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閔妃のイメージ写真

当時のソウル(漢城の状況)

当時の朝鮮人


ソウル
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一八八〇年(明治13年)の春。
舞台は漢城(ソウル)李氏朝鮮の首都。李氏朝鮮末の漢城(ソウル)の人口は約25万人。
この年の12月に本政府はソウル市内に日本大使館(清水館)を建設した。公使は花房義質だった。
首都は、儒教の関係で王宮より高い建物が建てられない為、二階建ての建物が存在しなかった。
簡単に言うと李氏朝鮮国民は李氏王族等よりも高い所に住んで王族を馬鹿にするなと言う事なのだろう。
こんな馬鹿げた事が平然と法として制定されていた。
ちなみに江戸時代には大名行列を二階からのぞくことは禁止されていた。無礼だからである。
とは言え 江戸時代にも日本には二階が存在していた。
つまり日本の江戸時代よりもひどい現実がその当時の李氏朝鮮は存在したのである。

そのため 殺風景だ。
朴と日ノ本は蒸気船に乗り新しい朝鮮を築かんがために仁川からに漢城(ソウル)訪れた。
仁川はまだ開港していなかったが日章旗を掲げて仁川に入った。仁川開港は花房が尽力を尽くして朝鮮に要求していた。
仁川は江華島事件以来日本が港町として手がけて開発を進めようと手をつけつつあった。

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これは釜山と仁川と元山との貿易のグラフだ。今は明治13年だから元山の貿易が本格的に開始されたのがわかる。
釜山の明治15年からの資料が欠落しているが、釜山そして元山そして仁川へと貿易港が移動していったのがわかる。
釜山は距離的にも近いために日本人は今も利用している。
仁川はこの後に開港することになる。
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輸入超過で赤字だった開国当初。

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フランス人女性旅行家と玲子の会話。

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イザベラバード
女性旅行家であり、世界各地を旅行してそれを本などにした女性ジャーナリスト。 日本や朝鮮などに関する本がある。
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当時のソウル(漢城)

玲子は「ここが漢城(ソウル)?ずいぶんと古臭い田舎街ね。 あら 何これ?人糞じゃない?なぜ?道端に?」と驚いた。
日ノ本も「これはなんだ? 道路には糞尿があふれているし 建物もずいぶん粗末じゃないか?。
ぼろぼろの民家が建ち並ぶだけだ。これが首都なのか?」と驚いた。
朴は「、、、。」何もいえなかった。
天木は笑いながら「でも いい街じゃないですか、何か人情味があふれていそうですね。でも道に糞をしてはいけませんね。」と無邪気に言った。
朴檀君は「この街は王宮だけが人の住む所なんですよ。」と愚痴るように言った。
玲子は「なんか 日本とずいぶん違うわね、何があったのかしら?」と訝しがった。
朴示現は「未だに奴隷売買をしている、人を人とも思わない国それが朝鮮なんだ。」と首を振りながら言った。
朴檀君は「人並みの生活を送れるのは王族と両班だけ。」とつぶやくように続けていった。
玲子は「両班て何なの?朴君?」と聞いた。彼女には何がなんだか理解できなかったのだ。
朴は「文班 武班があり 日本で言う貴族の事です。
大院君は両班の内部には、四色と呼ばれる老論、少論、南人、北人の党派を廃止したりいい事をしていたけど
金氏との政権争いに必死で時代の機運が読めなくなりキリスト教徒を惨殺した。」と悔しそうに大きな声で不満を述べた。

朴檀君は天木のほうをちらりと見る。
天木は顔色一つ変えない。
朴檀君は続けた。「閔妃は日本と提携したが それは自分の身を守るためであり朝鮮のためではないです。
だから 何時までたっても朝鮮は変わらないのです。」
日ノ本は辺りを見回しながら「まあ いずれにせよ 下水設備を完備させないとまずいね、これは。
それ以前に建物を増築していかないといけない。この状態では首都とはいえまい。」とつぶやいた。

三人が歩いていると 向こうから 数人の男女が駆け寄ってきた。
彼らはうれしそうに「朴の兄貴ー探しましたぜ!! こんなところにいたんですか?
お供させてもらいます。おい お前ら 日傘を先生達にもさしてやりな」と言った。
すると見た目に麗しい若い女性が日傘を差した。
「朴の兄貴はこの度の凱旋おめでとうございます。旧両班一族もびびりまくりですね
朴兄貴は新しい両班の頭目になるべきお方ですよ。」と言うとうれしそうに笑った。
彼らのような平民がそして奴婢が頼れるのは白丁から脱出し 日本で活躍したという
彼らくらいな物であった。この地獄のような世界を変えてくれるのなら 日傘くらい安いものであった。
この頃 日本を通じて彼らが奴婢解放をやってくれるのではないか?という切実なる思いが彼らには存在した。
そしてその思いは当時の若い李氏朝鮮の官僚たちにも広がっていくのであった。

天木は金の十字架を胸に下げ 玲子は着物だが派手で美しい着物を着て
日ノ本は軍靴に長い日本刀を後ろに帯びて 小銃を腰に備えていた。
日本軍でもこのような人間は珍しい。
彼等は見た目にも美しく 威風堂々としていたのだった。

日傘をさされた朴示現は首を横に振った。そして「君等は 俺等 兄弟が両班嫌いだということを忘れたか?
ところで 君は俺が教えた日本の福沢諭吉先生の言葉を覚えているか?」と質問をした。
朴示現は日傘などをさされては自分も両版と同じ類の人間を作ってしまうと考えたのだった。
身分の低い若い男女は考えながら「ええと、、「天は人の上に人を造らず、、、。」と言う。
朴示現はそれを見ると「天は人の上に人を造らず、人は人の上に人を造らずといへりだ.
俺達兄弟は今でも身分制度や 奴隷制度を憎んでいる。これらは必ず近いうちに廃止させる。
俺たちはこの奴婢制度廃止に命を賭ける。なあ 兄貴。」と兄に同意を求めた。
朴檀君はそれを聞くと黙って頷くのであった。
そして朴次元は若い男女を見ると優しく微笑み「日傘はいいよ。その気持ちだけ貰うよ。」
と言った。
若い男女はその言葉に感謝した。
そしてそんな思慮深い朴兄弟に感銘し自らの将来を託そうと決意するのであった。
両親を両班に殺された朴兄弟。そしてその後 日本の西南戦争で片腕を切り落とされた朴檀君。
しかし それにもめげずに李氏朝鮮を奴婢や白丁と共に変えようとする朴兄弟。
今では日本の親友を通じて朝鮮の若きエリートとも通じ合っている朴兄弟は彼ら貧困層に
とっては希望の星であった。また朴兄弟は彼らの境遇も悩みも知り相談にも乗っていた。
そんな朴兄弟に貧しく商品としてしか見られていない彼らが命を賭けて朴兄弟の
李氏朝鮮における奴隷解放運動に支援するのは当然の成り行きでもあった。

みすぼらしい若い男女は「俺らがこんな堂々とここを闊歩できるのは兄貴のおかげです。
あと大使館の堀本中尉が明日大使館に来てくれとと伝言なされています。」と言付けを伝えた。

閔妃は日本に朝鮮軍の近代化するように依頼をしていた。

日ノ本はにこやかになり「伝言。ありがとう。俺が行くよ。閔妃様からの依頼だからな。」と易しく言った。
朴檀君は「それなら私もお供しましょう、通訳も要るでしょうから。」と言った。
日ノ本は朴に感謝しながら「ああ よろしく頼むよ。」と感謝した。

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当時の李氏朝鮮では鞭打ち刑などが存在していた。

さて天木は朴次元に小高い丘の家を買い与え 自分もまた家を購入した。
この地を離れた時は極貧だったが 今は少しは金に余裕がある。
朴兄弟はおの祖国で新たな人生をまた送るつもりでいた。
天木は丘の家を自宅兼教会にするつもりだった。
天木にとって、ここ朝鮮は活動にうってつけの場所だったし 新しい天地だった。

そんな天木にとって信じがたい光景がここ朝鮮がここにはあった。
人身売買 即ち 奴隷市場の存在。


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奴隷のことである、売買、贈与、相続の対象となった。つまり、財物として扱われていたのである。
たとえ、両班でも党利党略に敗れれば、奴婢に転落した。
逆に奴婢は子々孫々にわたって、奴婢であり、奴婢の身分から抜け出せる人は極めて稀である
この奴婢制度は1894年に人身売買が禁じられるまで続いた。
身分制度(両班 良人(サンノム、常民、常奴)、奴婢、白丁)
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南北戦争以前のアメリカ。南北戦争以降リンカーン大統領は奴隷解放宣言をする。
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奴隷は首に縄をかけられてオークションや奴隷市場で売買されていた。
が南北戦争以降も未だにアジア各国では奴隷を扱っていた。
そして時としてアジアの人間は奴隷として各地に売買されていたのだった。
さて時を200年ほど戻して当時の清と李氏朝鮮の関係を説明しておこう。

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大清皇帝功徳碑(三田渡碑)
清(後金)は元は同盟国であった朝鮮に対して鴨緑江を兵船で渡り、平壌(ピョンヤン)に来て
食料を要求したが、拒まれたために郭山の食料庫を襲う。
1636年清(後金)は斥和非金になった朝鮮に対して清への服従と朝貢(黄金一万両など)と兵3万と戦闘馬5千を要求してきた。
朝鮮がこの条件を拒むと清は太宗(ホンタイジ)自ら10万の兵力を率いて再度朝鮮に侵入した(丙子胡乱)。
この戦いで数多くの朝鮮人が死んだ。
朝鮮側の兵はわずか約1万三千人に過ぎず、南漢山城に籠城したものの、城内の食料は50日分ほどしかなく
江華島が攻め落とされ降伏し清軍との間で和議が行われた。
この和議で清と李氏朝鮮との関係は同盟国から主従関係に改められた。
そして清からの援軍の要請に答えるとの確約を結び、また清との国境の砦の修復は許されなかった。
また朝鮮王子および大臣の子供や家族を人質として取られることを約束された。
そして黄金100両、白金(銀)100両、水牛角弓200、環刀20把、好腰刀把、米1万包、布1万疋、各色綿布1万疋
鹿皮100張などなどが毎年貢物として献上させることが決まった。
そして清の太宗は三田渡に九層の壇を築いて壇上に座して仁祖はあの三拝九叩をしなければならなかった。(三田渡碑)。
三拝九叩(三度拝し、九度頭を地につけるという敬礼)
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その後に捕虜として連行された数多くの人間が奴隷市場に売り飛ばされていて、朝鮮の人間は身内の人間を買い戻さなければならなかった。
この戦争で清軍に捕虜として連れて行かれた市民の数はある資料によると50万人らしい。
彼らは奴隷市場などで売られていた。また返してもらうのに金が必要となっていた。
普通は一人頭25-30両で返還してもらったが、相手が金持ちだと150-250両出さないと返してもらえず
身分が高いときには1500両の金を必要とした。
またこの戦争では孤児がたくさん出てそれも社会問題となった。
弁償金や貢物でもかなりの困難を余儀なくされたのは言うまでもない。
また黄文雄著、中国・韓国の歴史歪曲(光文社)によると毎年美女三千人も清国に献上しなければならなかったようだ。
日本ではこれらの事は戦前まではこれらの事は教えられていた。

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清軍侵略図
この頃から清と李氏朝鮮の従属関係は築かれていたのだった。

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清の太宗(ホンタイジ)

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清軍イメージ図
実は約10年前の1627年にも清の太宗は従兄弟に三万人の後金軍を率いさせて朝鮮を攻撃させて
李氏朝鮮を兄弟国にしている。(丁卯胡乱)。これには当時の軍事状況やら経済状況などが影響していた。
簡単に言うと戦国時代(明、後金、モンゴルなどなど)のような様相が当時には存在していたのだった。

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さて話を元に戻そう。

天木は既に己の人生をキリスト教の宣教活動に費やすことを胸に決めていた。
それが亡き先祖天草四郎時貞の無念を晴らすことだと考えていた。


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だがその当時の韓国では排他主義がまかり通っていて
今の李王の父の大院君は、衛正斥邪(儒教を守り攘夷を行う)を唱えてキリスト教を邪教として
弾圧し8000人の信徒を虐殺していた。
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ここ 漢城の一角 天木がいる場所では奴婢が売買されていた。
奴婢は食事や掃除や労働に従事していた。
しかし反抗的な奴婢は木檻の中に閉じ込められたり 首に鎖を巻きつけられて座り込んでいた。
ここでは十数人の男女が売買されていた。
まだ衣服を着ているものはいいが 中には裸のまま木檻の中に入れられている人間がいた。
絶望。人間としての絶望感がここには流れていた。
現実ではひどい環境におかれた奴隷の中にはやせ細り動くことも出来ないものが多数存在して
外国人がそれを見て驚いて目を背ける場面が存在していた。
しかも未だに身分制度が存在して漢城(ソウル)には奴婢 白丁 僧侶はいることは出来なかった。
仏教は迫害されていて 僧侶の地位は低く 日本人はこれに憤慨していた。


仏像も壊されて迫害を受けていたが 日本が入る前のキリスト教はそれ以上の迫害を受けていた。
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性を売る女奴隷の待遇は他の奴隷に比べるとまだまだましであった。
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但し妓生と呼ばれる芸者は両班に使えるものが多く
妓生庁という部署が彼女達を管理していた。
一牌二牌三牌に身分が分かれており低くなると売春をしていたと言う。
但し着物から見て分かるように生活水準は高く、書を書いたり琴を演奏したりすることが出来た。

朴檀君と示現の朴兄弟は奴婢らへのそんな非人間的な取り扱いを見ると叫びたくなる衝動に駆られた。
そして李氏朝鮮にある全てを壊したくなるのだった。
彼ら兄弟の悲しい記憶が白丁としての記憶が蘇る時はいつもそうだった。
天木はそれを見て 涙を流していた。

天木の周りには人だかりができていた。
天木の格好はやや派手でしかも胸に金の十字架を下げていたからだ。

だが 天木には直接触れようとしない。
それもそのはず 天木の後ろには背の高い男 朴示現が双方の剣を肩に
背負い立っていたからだ。朴檀君の弟でもある。
しかも腰には拳銃を帯びていた。

さて ある日の事 とある奴婢を売買するという店を訪れた時に天木は示現に言った。
「ここにいる 奴隷を皆 今 買うことはできるだろうか?」

示現は「普通にやれば無理でしょうが、私が交渉すれば大丈夫でしょう。
しかしこの銅線を全部使う事になるでしょう」と微笑んだ。
彼の肩には銅銭がびっしり詰まった鉄線がまるで鉛のようにぶら下がっていた。

/////////////////シャルル・ダレ  313−314頁/////////////////////////////////////
合法的に流通している唯一の通貨は銅銭である。その小さな銅銭には亜鉛か鉛が混じっており、その価値は
およそ2或いは2.5サンチームである。それは真中に穴が明いており、一定の数を集めて紐を通す……。
相当量の支払いをするためには、一群の担ぎ人夫が必要となる。というのは百両或いは百通銭(約200フラン)は
一人分の荷物になるからである。
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現代も存在する乞食、時に芸を見せたり泣いたりして金を貰う

裸の女の子。現代でさえある悲劇
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天木「それでは 悪いが頼む。」と示現に後は任せた。
すると朴示現は「おい!店主はいるか!」大声でどなった。
意地悪そうな店主「はいはい、何か御用でございますか?」
示現「ここにいる奴婢を全て買い取りたいとここのだんな様がおっしゃっている。」
意地悪そうな店主
「ええ 構いませんよ、日本お方なら特別のお安くします。全部買うとなると
一人1000両で全員で1万両になります。」
示現は「高すぎるな。」と店主の顔を覗き込んだ。

木檻の男奴婢は「そこの旦那様 大だんな様に私を買い取るように進言してくれませんか?
こう見えても私は金一元と言って元両班出身でいろいろな知識に富んでいます。命がけで
お仕えしますから私を買ってください。」とここぞとばかり叫んだ。

首輪の若い女は「大旦那様 私を買ってください、私は盧と言います。旦那様の為なら何でもします。
本当ですよ、旦那様の為なら命だって投げ捨てます。」と涙を流しつつ哀願した。

意地悪そうな店主は五月蝿くなり 彼等奴婢を見て「お前等などを買うお人よしが居るだろうか?」と笑いながら言った。
すると奴婢らは哀しそうな顔をして黙った。

朴示現はむっとなり その店主の首根っこを力強く握り締めた。
すると店主の首は折れるかと思わんばかりの圧力を受けて 店主は悲鳴を上げて
一瞬失神した。店主は目を開けると鬼の形相の示現がいた。
店主はこの示現のばか力に恐れおののいて「うっうそです。一人 30両でした。
全員で300両になります。料金の方は後払いで結構です。」
示現は肩に掲げた山のような銅線を投げた。ものすごい音がした。
彼は通常に人夫の倍以上の銅線を担いでいた。
店主は怯えて「それで結構でございます。それ お前たちこの方がお前たちのご主人だ。」と
言うと木の箱を開けて 奴婢を解放し その他の奴婢も解放した。

天木と示現は十数人の奴婢を買うとそのまま彼らを解放した。
元気で若い奴婢はお礼を言うと彼らの家に帰っていった。
しかし身寄りのない者らは天木らから離れようとしなかった。

天木はまじめに「この朝鮮の奴隷を皆 解放する事は出来ないだろうか?」と言った。

朴示現は天木を見ていった「天木様、奴婢はこの国の人口の3割を占めます。全部買うことは
日本のお偉いさんでもできないでしょう。」
朴示現はこんな頓珍漢な事を言い出す天木が好きでもあった。
こんな純粋馬鹿は李氏朝鮮はおろか日本でもそうはいない、だから彼の純粋な心を尊敬もしていたのだった。

天木はこの李氏朝鮮で日本では見たことも無い風景を目にし悲しんでいた。
いくらここが異国の李氏朝鮮とは言えどもこれではあんまりだ。
彼はそう考えていた。

盧と言う身寄りのない若い女奴婢と金一元という初老の奴婢は天木に付き従った。
示現は「おい、お前ら。まずは風呂に入って来い」と言った。
奴隷は「ありがとうございます。この恩には必ず報います。」
風呂から入ってくると 二人は新しい着物に着替え ひざまついて
「なんなりと御用を申しくださいませ。」と土下座をしていた。
天木は「君らには両親はいるのかい?いるのなら故郷に帰ってもいい。
君らは今日から自由だ。」と言って彼らを解放しようとした。
二人は顔を見合わせ驚いた。
当時の李氏朝鮮では女性の奴隷は性道具としてしか見られていなかった。
それは李氏朝鮮の公務に携わる者でも同じ事であった。
李氏朝鮮の役所自体が性の女奴隷を所有していた時代でもあった。
だから、こんな事をする日本人は彼らには奇妙な人間に思えたし
二度と巡り会えない善人にも見えたのだった。
金一元は急いで「私の親族は皆 対立していた両班の人間に殺され 行くところも在りません。
私は天木様にこの先お仕えしていくつもりでございます。」と叩頭した。
盧もそれを見ると慌てて「私は天涯孤独、両親も奴婢で幼いころに死にました。
私にどうかご奉公させてください。」と同じように叩頭した。

両人とも風呂で心身をきれいにすると麗しい顔になっていた。
特に若い女性の方の美貌は首輪も外されたこともあり 喜びで満ち溢れ
美しさで輝いていた。

盧のイメージ画

だがこれは小説の出来事であり、その当時はひどいのになると動くことも出来ない奴隷が各地に存在していた。
中には肉が壊疽しているものが存在した。鞭打ち、拘束など劣化した環境が彼ら奴隷の肉体を蝕んでいた。

さて話を元に戻す。

示現はそれを見ると呆れて「いいんですか?旦那様 食い扶持が増えるだけですよ?」と訝しげに言った。

天木は「何か 宣教活動に役に立つことがあるかもしれない。共に連れて行こう。」と答えた。
金は「宣教活動?とは何ですか?旦那様?」と聞いた。
天木はそれに答えずに「ちょうどいい機会だ ハングル文字の聖書を渡しておこう。これを二人とも読んで勉強するんだ。」と言って彼が作りかけの聖書を渡した。
盧はそれを貰うと戸惑いながら「旦那様 私は字が読めません。」と答えた。
天木は金のほうを向いて「金、 お前が文字を盧に教えながら 聖書を勉強していくんだ。
そして 西洋の神様の教えを広めていくのだ。」と言った。
金はうれしそうに「はい わかりました。」と答えた。
そして強制労働を押し付けようともしないそんな天木を金と盧は時折、不思議そうなまなざしで見つめているのだった。

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その当時の両班と常民(平民)との関係の図。

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そんな中、元白丁出身の朴示現は彼らの護身のために剣術をも教えるのであった。
あまり身分の差は気にしない人間、それが天木であり、朴示現であった。

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本秀煌『日本基督教会史』によると、1903(明治36)年10月第17回大会において、朝鮮伝道開始の決議案を植村正久が提案可決され
常置委員貴山幸次郎をその年の10月に、視察のため朝鮮に派遣した。

 私の理解によれば、神の前の平等と隣人愛をうたうキリスト教は、他民族の足に鎖をつなぐ植民地支配とは
もっとも矛盾する存在の筈である。この日本近代の良心を代表すべきキリスト教の中でも、とくに、「自由」あるいは
「進歩」を標榜するプロテスタント各派が、日本帝国主義の朝鮮支配とこれに抵抗する独立運動という現実に
いかなる態度を選択したかということは、たんに近代日本キリスト教史の問題点であるばかりでなく
日本帝国主義とそれへの抵抗の歴史に関心をもつものにとっての重要な研究課題であらねばならぬ。(松尾[1968a],1頁)
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ハングル(大いなる文字)という文字は朝鮮王朝第4代の世宗の代、1443年に制定され、1446年に「訓民正音」として公布された。

1884年に到着した長老会の医療教師アレンをその嚆矢と見る。市川正明編の『朝鮮半島金現代史年表』の1884年の項目には
「米国宣教師マックレイ、布教および育英事業の許可を受ける」とありそれに次いでアレンが入国したと記している。
1885年は公式の「宣教開始」年だが、教会の働きの‘始点’を定めることは実は容易ではない。
たとえば李在禎の「韓国聖公会史概説」は1885年に聖公会のウルフ神父(J.R.Wolf)が
中国から釜山に入り二年間活動したと記録しているし、1883年8月には「大韓聖書公会」が設立されている。
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 柳東植は朝鮮のおけるプロテスタント受容について三つの経路をあげている。
第一は海外で入信した朝鮮人信徒が聖書を朝鮮語訳しそれが持ち込まれたことによる伝播である。
中国にいた商人徐サンユンはスコットランドからの宣教師ロスから洗礼を受け聖書翻訳に着手する。
1882年に彼による朝鮮語訳「ルカ福音書」「ヨハネ福音書」を出版、87年には新約全書が出版された。
徐サンユン自身は1884年に朝鮮に帰国し黄海道の松川に教会を建てている。
また、日本留学中の李樹延(イ・スジョン)は教育者、農学者、そしてキリスト者であった津田仙と出会って入信し
日本で朝鮮語訳の「マルコ福音書」を出版、後に日本経由で朝鮮に向かった宣教師たちは李樹延訳の福音書を携えて朝鮮に上陸した。
第二は海外でキリスト者となった人々の帰国である。1884年のクーデター(「甲申政変」)に参加した徐ジェピルは
政変失敗後日本に向かい、そこで李樹延と出会ってキリスト教を知り、最後はアメリカに亡命してキリスト教に入信する。
彼は1896年に帰国して「独立協会」を設立し「独立新聞」を発刊するなど民族運動、民権運動の基盤をつくったが
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(大院君)一八六六年には二○○○人の朝鮮人カトリック教徒を虐殺している。
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数日後 天木の宿の前には人だかりができていた。

青い目の商人が彼らを訪ねて来ていたのだった。
彼等は長崎で商売を営む商人だった。

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また天木は長崎から日本人の商人を連れてきていた。
彼等はこの朝鮮で日本と朝鮮が国交を結んだのを機に新しい商売(貿易)を始めるつもりでいた。
日本側から輸出するものの中には石鹸などがあった。
現在の資生堂(化粧品などを取り扱う会社)の創始者は海軍病院医局長の福原有信だが
彼は榎本武揚の親戚で其の関係で局長に推薦されていたし、また石鹸製法も元々は榎本が手紙で知らせたらしい。
榎本武揚は薩摩の黒田により許されて、その後は黒田の下で明治政府の要職に就く。
だが戦犯の割にはあまりに待遇がよかったので薩摩の若手からは少し嫉妬を受けていた。
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黒田清隆
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榎本武揚は黒田の元で北海道を開発した後に外交をまかされたりして明治政府の重鎮になる。大鳥と同様に頻繁に出てくる。
薩長の若手がそのうちに不満を抱くようになる。

数年後には宣教師が漢城を闊歩することになるのだが この時はまだ西洋人というものを
朝鮮人は見たことがなかったのだ。
日本人は釜山港を開港させてすでに南部のほうでは交易を開始していた。
日本政府と日本商人はソウルでの商売を促進させるために当時仁川を開港させるように
李氏朝鮮に圧力をかけていた。

/////////参考///////////////////////////////////////////////////////////////////////////
1871/05/30,明治4/04/12 アメリカ艦隊が朝鮮半島の江華島に侵入し、戦闘が始まる。 
1871/06/10,明治4/04/23 アメリカの軍艦が朝鮮の大同江に進み、広城鎮を占領する。 
1871/06/11,明治4/04/24 朝鮮で、アメリカ軍が江華島を攻撃する。 
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さて 日本大使館のほうでは堀本礼造中尉らが日ノ本の到着を待っていた。
その他 当時の李氏朝鮮には 陸軍工兵少中尉 美代清濯 陸軍歩兵中尉 菊地節蔵などが任務を受けて在住していた。
堀本は工兵である。工兵の役目は近代戦、特にこの時代においては様々な工作を行う。
架橋や爆破や塹壕構築術や電線の設置などさまざまな任務があり
近代戦意は欠かせない技術だ。これらは日清戦争で遺憾なく発揮される。
堀本はそれらの技術を朝鮮に伝えに来ていたのだった。

日ノ本が着くと 堀本が出迎えてくれた。
堀本は「長旅 お疲れさん。日本では大変なことがあったようだな。」と日ノ本を歓迎した。
日ノ本は「ああ しかし戦場に比べたら なんてことはないさ。」と久しぶり会う仲間に言った。
そして朴と玲子を見て「紹介するよ 俺の仲間だ。」と彼らを紹介した。
朴は「始めまして 堀本中尉、美代中尉、菊地中尉。私は在日韓国人の朴と申します。」と挨拶をした。
玲子も「私は玲子。よろしくお願いします。薩摩の人間です。」と言った。
軍のお偉いさんには薩摩の人間が多かったのですんなりと玲子は受け入れられた。
堀本は「こちらこそ よろしく 私は日本公使館附武官堀本礼造少尉だ。」と自己紹介をした。
陸軍工兵少中尉 美代清濯 陸軍歩兵中尉 菊地節蔵らもそれぞれ自己紹介をした。
堀本は「ところで日ノ本 いい話がある。なんと明成皇后(閔妃)が朝鮮に日本式の新しい軍隊を
作ることにしたらしいんだ。別技軍というんだが そこの初代教官に俺も選ばれることになったんだ!」と嬉しそうに言った。
日ノ本は笑いながら「そいつはすごい。責任重大だな」と言った。
堀本は嬉しそうに「ああ 俺は高杉先生のような奇兵隊を作ろうと考えているんだ。
そこにはさ あまり上下関係はないのさ、ただ諸国から国を守るという考えがあるのさ。」と言った。
朴檀君は「面白い考えですね。福沢諭吉先生やリンカーン大統領の考えに通じる物がありますね。」と相槌を打った。
堀本も喜んで「ああ、そうさ。所で朴君。君もこの教練に通訳兼教官助手として参加してみないか?
教養もあるようだし 君さえ よければ 参加して欲しいんだが?」と誘いをかけた。
朴は日ノ本を見た。
日ノ本は「やりたくないのか?朴?日本語が出来て日本のことを知っている君が参加してくれるとありがたいよ。」と同意するように促した。
朴檀君は「是非やらせて欲しいです。僕が役に立つのであれば、、、。ただ、、。」と言いながら檀君は自分の腕を見た。
それを見ていた弟の示現が横から「俺が引き受けます、この国のために尽力を尽くします。俺も日本語ぺらぺらですから
兄者は天木さんを手伝ってくれよ。」と言った。
そして堀本らはそれを受諾した。
檀君はそれを見ると一人悲しそうに自分の義手を見るのだった。



李太王(高宗)

明成皇后(閔妃)

すると朴示現の言葉を聞いた何者かが「すばらしい心構えです。」と澄み渡った声で言った。
堀本らが振り向くと後ろから一人の女性を囲んで数多くの人間が出てきた。
中央に位置する女性は何か気品さを漂わせていた。
それは閔妃であった。
閔妃は「私は明成皇后(閔妃)と言います。この朝鮮第26代の高宗(李大王)の王妃です。」と自己紹介をした。
閔妃はまだこの時は二九歳で若くて美しかった。それに聡明でもあった。
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「王妃はそのとき四○歳をすぎていたが、ほっそりしたとてもきれいな女性で、つややかな漆黒の髪にとても白い肌をしており
真珠の粉を使っているので肌の白さがいっそう際立っていた。そのまなざしは冷たくて鋭く、概して表情は聡明な人のそれであった。
王妃は濃い藍色の紋織り地の、ひだをたっぷりとって丈の長い、とてもゆったりしたハイウエストのスカートと
たっぷりした袖のついた深紅と青の紋織りの胴着という衣装だった。
(中略)話をはじめると、興味のある会話の場合はとくに、王妃の顔は輝き、かぎりなく美しさに近いものを帯びた。
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朴、堀本、日ノ本らは慌ててひざまついた。
日ノ本が「初めまして。 私は日本陸軍の中尉 日ノ本 眞一です、お目にかかれて光栄でございます。」と言うと
朴も「私は 朴 檀君と申します。」とそれぞれが自己紹介をし挨拶をした。
閔妃は満足げに「日本の各々方 どうぞ 朝鮮の軍を日本の手により強化してください。
ご存知のとおりに私達の国は西洋の列強に脅され 心休まる暇がありません。
どうか 我が国の軍を近代化してくだされ。。」と言った。

日ノ本中尉 堀本中尉「承知致しました。謹んでご命令に従います。」

するとこれまた横から「ちょっと待ってくれ!」朝鮮語で会話に入ってくるものがいた。
閔妃が振る向くとそこには鋭い眼光をした体つきのいい中年の男が
閔妃に臆することなく堂々と立っていた。
それは清の使者の張三世であった。
その後ろには金大虎が申し訳なさそうに立っていた。
張はそれまでの話を聞いていたらしく不機嫌そうに「待ってくだされ、閔妃殿 我々 清と朝鮮の従属関係はどうなるのです?
我々は朝鮮の宗主国なのですぞ。」と半ば怒りながら閔妃に問い詰めた。

閔妃「清の使者よ、私はこの高宗様をお守りしてくだされば どの国の人であろうが
よいのです。今更 清だけの手助けを請おうとは思いませぬ。
もし あなたの方が強くて 私たちを保護してくださるおならこれまで通りに清に忠誠を誓います。」
と丁寧に返答した。

張はそれを聞くと安心した様子で笑い、今度は閔妃と日ノ本らを見ながら
「はっはっ 閔妃よ お前はこの日本の島猿に私が勝利すれば
我らの主導の元に軍を再生すると言うのだな。
よかろう。そこの日本人よ、俺と勝負する勇気があるか?
何人でもいいかかって来い。
もし俺が負ければ 別技軍の設立を清は認めよう。
但し俺に負ければ お前ら日本人に別技軍の設立など認めん。
さあ どうだ?さっさと来るがよい、島国のへなちょこども。」と叫んだ。
美代中尉はそれを聞くと少しむっとして「いいのか?そこの張とやら あまり日本人を舐めない方がいいぞ。」と言った。
張は笑いながら「目に物を見せてくれるわ。さあ 来い。島国の猿。」と手招きをした。
日ノ本は美代中尉を制しながら「待って欲しい、この勝負で死者が出て問題が発生して 日本と清との間にトラブルが生じても困る。」と言った。
張は「臆病なやつめ!」と言うと朴がそれを通訳した。
堀本も菊池も日ノ本もこれにはむっと来た。
日ノ本は「この勝負 死者が出ても互いに訴訟を起こさぬ、恨みを抱かぬと言う誓いがなければやっかいだ。」と我慢していった。
堀本は「確かにそうだ。訴訟は起こさない。国は巻きこまない。死んでも構わないという宣誓書に互いにサインをするとしよう。」と
怒りを抑えつつ言ってそれを朴示現に通訳させた。
彼等はすぐに宣誓書を作り 互いに死んでも訴訟を起こさないと言う意味の契約書にサインをした。
そしてその中で最も武功に長けている日ノ本が戦いに挑む事にした。

日ノ本は「ところで勝負は剣を利用した物か?素手なのか?」と聞いた。
張は笑いながら「素手でよかろう。剣で一瞬で勝負がついても面白く在るまい。」と言った。
張は中国に伝わる武術の奥深さを鼻にかけているところがあり自分が勝利すると思っていた。
日ノ本は「よかろう。、、、。お前も覚悟しておけ。」と言うと日ノ本はこの勝負を受けた。
堀本は「だいじょうぶか?」と尋ねた。
日ノ本は「示現流と同じだ。一撃必殺でいく。」と鬼の形相になっていた。
朴檀君は「私らは 暗器に注意しておきます。」と日ノ本を案じた。
日ノ本は「頼む。勝負は一瞬で決める。決まらない時は後を頼む。」
とはいうものの日ノ本の体は気で満ち 体制は万全だった。
勝負が始まった。
閔妃とその一族の者 朝鮮軍関係者と見られる一団が正面から 清国の使者の仲間は
側面から弁髪を後ろに回し 恐ろしい形相で試合を見ていた。
閔妃はその皇太子である息子と手を取り合い試合を見ていた。彼らのとっては面白い見世物に過ぎなかった。
立会人の示現が「始め」の言葉を合図に両者は間合いを詰めていく。
張が「さあ 来い!小島の猿」と言葉を発すると同時に
一瞬の間、日ノ本の影がなくなった。と思うと彼は張の目の前に立っており、繰り出した一撃は張のガードを
叩き割り 彼を後方に飛ばしていた。
一同は始め何が起こったのか 理解できなかった。
が、いつの間にかはるか十メートル後方には張が血を流して倒れていた。
張は彼のさまざまな技を見せることなく 吹き飛ばされていたのだった。
張は気絶していた。
「勝負あった!」と堀本中尉と清の張の仲間が叫んだ。
しかし日ノ本はすぐに張の元へと飛んでいって 張の腕を捻じ曲げて折ろうとした。
張は目覚めて「ギャーッ」と叫び声を上げた。
それを聞きつけた張の仲間と堀本が日ノ本を後ろから羽交い絞めにして数人で
押さえつけた。日ノ本は彼等を投げ飛ばした。
清国の人間は腹を立てて暗器(凶器、手裏剣)を日ノ本めがけて飛ばした。
菊池節蔵が「危ない!暗器(凶器)だ!」と言うと日ノ本は横に大きく跳んでそれを避けた。
菊池もまた帯剣を引き抜き暗器を弾いた。
日ノ本と菊池は清の人間らを凝視した。
そこで堀本が出来る限りの声で「勝負あった!」と言うと
両者は剣と暗器をしまった。 閔妃はそれを見て満足して言った
「もう 勝負あったでしょう。この賭けは日ノ本中尉の勝ちです。
それとも清国の使者には二枚舌があるのでしょうか?それに暗器を利用するとは卑怯です。」
と言うと清の使者達もさすがに恥じ入って「確かに 今回の賭けは我々の負けです。
いささか 日本を島国と思い 侮り過ぎていたようです。
この張も意識を取り戻せば反省することでしょう。
本日はこれにて 失礼する。」

と うーんと唸っている張を抱きかかえながら 清一同は
その場を後にした。
一般人の拳法の修行さえ百十数年禁止していた清の拳法の力は落ちに落ちていたのが
実情であった。反面 日本は西洋科学だけでなく彼等の少林寺拳法まで
訓練に取り入れていたのであったから 清の人間が負けるのは仕方のないことであった。
それほどまでに少林寺の72絶技を初めこれらの技には力があった。
清の皇帝も女任侠の呂四娘を初め、天理教などの襲撃などがあったために
武術家の力を押さえ込むためには仕方の無い処置でもあった。
また反面日本人の日ノ本などの示現流や戦場で鍛えた体の動きの素早さは常人の3−4倍であったので、張にその動きは見切れなかった。
  その上、薩摩や琉球を拠点に明や清と密輸をして荒稼ぎしていた忍者等は薩摩隼人に少林寺の奥義書などを
手渡していた。薩摩隼人の一部の人間は暇な時などにはその奥義を訓練ていた。そして少林寺の技などを
熟知していた上に訓練しそれを戦場でも遺憾なく発揮して自分の物としていたのだった。


また清にも武術の達人がいないわけではなかった。
其の中には楊式太極拳の楊露禅と八卦掌の董海川などがいた。

楊露禅.jpg
楊露禅1799年 - 1872年
手の上から鳥が飛ぶことができなかったなどいろいろなエピソードがある。
「楊無敵」とは北京でのかれのあだ名である。
清の皇族などにその技を教えた。
しかし清の皇族には柔の部分(今のゆっくりとした太極拳)だけを
教えて剛の早い太極拳はあまり教えなかったらしい。
これが今の健康術としての太極拳を形成している。

八卦掌創始人——董海川.jpg
董海川 ? - 1882年

八卦掌の生みの親。
粛親王の元で働いていたが、或る時盆を持って軽がると人を超えるのを
見られてしまい達人と言うことがばれてしまう。
太平天国の乱などにも関与した人物である。

上記の二人なども近代を代表する武術の達人だが
さまざまな時代背景の中で積極的に清人のためには動こうとはしなかった。

さて閔妃は日ノ本らに拍手をしながら
「本日より 別技軍を設立し 朝鮮軍を新たにし強化したいと思います。
後日 高宗殿下より追認される事でしょう。
近代兵器を用いた砲術などを我が国に伝授して欲しい。」と述べた。

日ノ本と堀本中尉と美代中尉と菊池中尉は
「畏まりました。」と頭を下げるのであった。

そして閔妃はかなり肥満である皇太子の手を取りながら席を後にした。
これは閔妃が皇太子として自分の息子を溺愛していた事を示している。

日ノ本らは閔妃を見送った。すると影から人影が出てきて拍手をしながら
日ノ本を称える声がした。「さすが日ノ本。やるねー。相変わらずだ。」
その声は長谷であった。上海から軍に頼まれた物資を日本陸軍に運んだ後にここに立ち寄っていた。
日ノ本は長谷を見ると「おお 長谷か、ひさしぶりだな。」と嬉しそうに呼びかけた。
長谷も「西南戦争以来だな、朝鮮でも何かあっても日ノ本中尉殿がいれば安心だな。」と冗談を言った。
堀本中尉と美代中尉と菊池中尉も日ノ本も頬を緩めて旧友との再会を喜んだ。

其の日 旧友との再会に喜ぶ一方 大使館では決闘のことで話が盛り上がっていた。

朝鮮軍の方でも興奮さめやらず 別技軍に配属される将校が
既に高宗の発令を待たずに 日本大使館で別技軍の今後の在り方について
議論を飛ばしていた。
朝鮮人の李斗(王黄)と禹範善は日本人の堀本や日ノ本らと打ち解けて
これからの朝鮮軍と近代兵器のあり方について厚く議論するのであった。
彼等はこの後、別義軍に入るがその後のトラブルに巻き込まれて日本と朝鮮を行ったり来たりする。
この小説では崔と言う朝鮮兵と立場が似て、行動をよく供にするので 適当に想像しながら読んで欲しい。

しかし 朴はあまり 話に加わろうとはしなかった。
朴は王族を憎んでいた。憎んでも憎みきれなかった。
それに別技軍を統括するのは閔妃一族のものであったからだ。

夜もふけ 朝鮮軍の将校も次々と帰路に着いた。

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日本軍に養成された訓練隊長の李斗[王黄]、禹範善等
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ちなみに禹範善はこの後 閔妃暗殺に加わる。
その経緯については本文の中で。
彼は日本に亡命後、酒井ナカと結婚して子供を産む。
その子供の禹長春はその後 東京帝国大学を出て 農学博士となる。
その後の大韓国帝國の農業を引っ張っていく活躍をする。

禹範善と家族(酒井ナカと長春)

禹長春 博士

朴はさびしそうに月を眺めていた。
そんな朴に日ノ本は「元気ないな。自慢の腕前が見せられなくて 悔しいのかい?」と悲しそうに言った。
朴檀君は「そんなもんじゃないですよ、日ノ本さん。もう昔のことは良いです。」と言った。
檀君は続けて「この左腕が無くなったのは何かの運命でしょう。」と悲しそうに言った。
この無くした左腕を見ると人は彼を避ける。そんな状況が彼には少々つらかった。
日ノ本は話題を変えて「しかし 意外と閔妃様はきれいだし 頭の回転も速そうだな。」と今日会った美しい閔妃について話した。
するとそれを聞いた朴檀君は顔色を変えて「違う!外見に騙されるのは良くない!!! 閔妃も数多くの無実の人を殺している。
私たちは変えなければならないんです。この腐った奴婢制度や馬鹿みたいな祈祷 愚かな朝鮮半島を。
閔妃自身はあの息子のためにこの国を駄目にしているんです。」と叫んだ。
日ノ本は少々段君の血相に驚いて「だけど 別技軍も認められたし 君にとっても朝鮮にとっても
いい方向に向かっているのではないのか?」と言った。
朴檀君は少し大人しくなると「そうだといいけど、、、、。そう願いたいですね。」と呟いた。

檀君は何かをつぶやきながら 朴は3月の夜空を眺めていた。
さて 別技隊編成 そしてその準備に日ノ本らは追われていた。
別技軍の編成の際には旧朝鮮軍に祝い酒とご馳走もし
互いの健闘を祝うことも忘れなかった。

事大派鎖国派と開化派。
今で言う 北朝鮮派と韓国派。
開化党は 最近力を持ち始めた。
日本との自由貿易はそれまで鎖国政策を取っていた朝鮮を確実に変貌させようとしていた。
事大派や鎖国派は遅れていた。

さて其の頃天本は朴示現 金一元 盧 その他の新しい奴婢などに馬車を
引かせて港と漢城を行き来していた。
彼らの生業は貿易であり 北朝鮮の高麗人参や米などを日本に輸出し
日本からは衣類を輸入していた。
その他の大勢の日本人商人も日本大使館の近くに店を構えて商売に励んでいた。
彼らの多くは近いうちに仁川が開港して本格的に漢城(ソウル)で商売ができると信じて
その準備に取り掛かっていたのであった。
日本は既に西洋諸国との貿易を始めていて李氏朝鮮の消費者の嗜好を理解し予想していたのだった。
だが、初めから日朝関係はねじれていた。
そもそも日本の国旗を掲げていた軍艦を襲ったように李氏朝鮮では日本のすべてを受け入れてはいなかった。
故に初めから李氏朝鮮人は郎党を組んで日本人商人を襲ったり、殺傷させるなどさせて事件を起していた。
元山港などでは日本人が殺害される事件が発生して問題にもなっていたのだった。
例えば明治15年だけでも壬午の軍乱発生する前には
3/31 元山津で日本人が殺害される。
4/17 暴動が起こる
4/25 暴動が起きて貨物が奪われて日本人が負傷する。
などの事件が発生していた。
またそれ以前から日本人を侮辱する事件が数多く発生していたのは前述の通りである。
これには大院君を初めとする鎖国派の強硬な姿勢の影響があった。
当時の日本人は既に開国していたので彼らの一派を日本本国では斥和頑固党と揶揄していた。



そんな中でも天木の店は繁盛していた。
と言うのも鎖国に固執していた李氏朝鮮にとっては海外の品は魅力的であったからだ。
それら店自体は日本語と朝鮮語ができる朴檀君や朴示現が仕切っていた。

彼らは安い店を買い取り、そこで行く当てのない元奴婢らを取り入れて働かせていた。
盧らも天木ら日本人の商人が共同で資本金を出した洋服店に勤めていた。
特に盧はファッションに興味があるらしく またそれまでの奴婢生活から
脱出できたこともあり 生き生きしていた。
彼女等 女性の行き場の無い奴隷達はここで働いていた。
布地を切り、当時では最新式のミシンと言う機械で洋服をつくっていた。
玲子がミシンの使い方を教えた。
玲子はよく日本で皆にいろいろな洋服を作ってあげていた。
玲子はセンスが良くどんどんいろいろな美しい洋服をつくった。
それを見て盧等の李氏朝鮮の女は皆あこがれた。
美しい容貌に器用な手先。
ミシンを使うから服は早くできて いい値段で売れた。
ミシンは西南戦争当時に軍服を作るために西洋から大量輸入した物のお下がりであった。
しかしそれでも最新式で人々はそのミシンのすごさに目を見張った。

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1853年の西洋の様子。現時点から約27年ほど昔のことだ。
ISSAC3.jpg
これが当時の有名なアイザックのミシン。
これで洋裁も手工芸から機械を使ったものへと移行していった。

月曜日は聖書の勉強会。 金曜日は お休み。
それ以外の日は商売。

盧などは休みの日は何をして良いのかわからず つまり結局は店を開いていた。
金一元はこの頃 朴や天木の態度にたいそう感心していた。
天木や朴は常に目上の者には気を使うし、奴婢を買い取り解放するなど
常識では考えられないことをする。
つまり東洋と西洋の心に通じていたのだった。

そんな ある日
金一元「天木若旦那様。 これを受け取ってもらえないでしょうか?」
彼は天木に金塊の入った箱を持ってきた。
天木は驚いた
「これはなんです?これはとてもではありませんが 受け取れません。」
金一元
「実は私は 元々この国を仕切っていた文班の者で これらの金塊は
我が金一族の宝の一部でございます。」
天木
「これらの金塊は金さんとそのご先祖様の物であり 私の物では在りません。
それよりもこの金塊を使って ご両親 先祖様のお墓でも整えてあげてください
1月ほどの休暇を取ってみてはどうです?」
金一元は涙を目に浮かべながら
「ありがとうございます。奴婢になってからは 両親の墓も作ることも先祖を祭ることもできずにいました。
今後 天木様に若しもの事があれば、必ずやこの金一元が命に代えてもお救いします。」
そして金一元は暇を取り 墓の作り 祖先を祭った。

さて 金曜日ともなると 郊外にある一軒家を教会と称して
数多くの人が聖餐の儀式を受けていた。パンとぶどう酒の儀式だ。
朴檀君も次元もこの日ばかりは命の恩人とも言える天木を訪ねることが多かった。

一方 日ノ本は神仏を信仰しており あまり教会に足を運ぶ事はなかった。

朴兄弟のキリストへの信仰は揺らぎなかった。
それは一重に彼らが奴婢や白丁にまで身分を落としたことにあった。

彼ら兄弟は故にこのキリスト教の考えのすばらしさを理解していた。
元奴婢 元白丁だからこそ悟ることも多かったのだ。
ちょうど乾ききった大地や草木が思う存分に水を吸い取る行為に似ていた。

彼等は祖国を追い出されて 日本を彷徨った。
そこで出会ったのが数百年間迫害され 逃亡生活を余儀なくされた
天草四郎時貞の子孫だったことも彼らの信仰に深く関与した。

朴兄弟は 祖先代代の道教なども信仰はしていたものの、それについてはつらい思い出しかなかった。
ちょうど キリストや十二使徒の苦難に似た生活だった。

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アリラン アリラン アラリヨ
アリラン峠(とうげ)を 越えてゆく
わたしを捨てて 去(い)く人は
十里(じゅうり)も行(ゆ)かずに 足が痛む

アリラン アリラン アラリヨ
アリラン峠を 越えてゆく
空には星が 多過ぎる
わたしの暮らしにゃ 苦労が多い

アリラン アリラン アラリヨ
アリラン峠を 越えてゆく
実りの秋が 近づいて
豊年万作 嬉しいね

アリラン アリラン アラリヨ
アリラン峠を 越えてゆく
この世はすべて 泡沫(うたかた)よ
流れる水の様(よ)に 戻らない

話を景福宮の再建工事に戻すと、大院君はそのために経費や労働力といったものをすべて度外視した。
再建工事のために、民衆が願い出て納める「願納税」や「門税」(ソウルの四大門の通行税)を徴収し
田税も引き上げたが、それでも不足すると、所有者の許可なしで、全国から巨石と巨木を徴発して民衆の怨声を買うこともあった。
当百銭なる新貨も乱発された。各地から「庶民自来」ののぼりを掲げて、各地から膨大な数の”賦役”の農民が集められた。
この時、農民たちが苦痛を忘れようと歌ったのがかの名曲「アリラン」であるという。

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アリラン。子供の頃に隠れて一緒に歌った歌。
思えば 其のときが一番幸せな思い出だったのかもしれない。
彼ら兄弟にとって天本がピアノを弾きながら歌う聖歌は
アリランを思い出させる歌だった。

ある時は首輪を付けられ木材を運んだ。
あの苦しい日々。
父親が人に隠れて教えてくれた武術。
白丁と罵られながら 生きてきた過去。

貧乏な奴婢にとって 天木や朴兄弟はあこがれの星だった。

天木等は先祖がキリスト教として迫害され あるものは踏絵で殺され
人を避けて 山伏のような生活をしてみたりして来て
ついには幕府を転覆させて お金持ちになる。

奴婢の彼らにとって天木は誰よりも愛に満ち溢れたイエスキリストに近かったのだった。

故に彼の周りには社会的に弱い女性や奴隷や僧侶などが群がった。

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当時は川で洗濯をしていた。冬などは手がアカギレになることがあった。
このような雑用も奴隷の仕事であった。

天本には時には清の暴政から逃げてきた人々もいた。
その中にはあの洪秀全の親類と称する者もいた。
だがその洪と言う者の姿はみすぼらしく、かつての面影はどこにも存在しなかった。

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そのような中で、キリスト教系秘密結社の上帝会が失地移民たちの間に流行し始めた。
その代表の洪秀全は、村塾の教師をしながら繰返し科挙に挑戦するも合格できず、かえって煩瑣形式主義の科挙や
官僚になれば裕福になれる社会制度を憎悪して、イエスの弟との天啓を受け、上帝会を結成して世直しを志すにいたったのである。
彼らは、唯一神エホバを信仰して他の神仏偶像を破壊し、孔子や儒教もまた邪神・邪教として排撃した。
そして、彼らは共産組織を形成して、五一年には、洪秀全を天王とする「太平天国」を建国した。
この太平軍が滅満興漢を呼びかけつつ進軍するにつれて勢力は増し、各地でもこれに応じた反乱が生じた。
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天木はそのような他国の人間を見ても「太平天国の乱ですか、いいでしょう、私のところで働いてください。
遠い清国の事など関係ありませんから、それに私は宗教にはこだわりません。
儒教 仏教とも仲良くやっていくつもりです。
李氏朝鮮がかつてしたように 仏像を叩き壊したり キリスト教徒を惨殺するのは
好むところではありませんから。」と言って気にせず受け入れた。そしてみすぼらしかった洪をも雇い入れた。

洪らは「ありがとうございます。一生懸命働きますのでよろしくお願いします」と礼を述べた。

こうして彼の周りには人が集まり始めてきた。
天木は数多くの奴婢を買い さまざまな所に日本人の居住区を建設させ始めた。
また体の弱った奴婢にはさまざまな商店を貸し与え彼等にも商売をさせ始めた
そして力を取り戻し始めた洪等は彼等とともに働きレストランや食堂や洋服店や雑貨を売る店などをレンガで作り始めた。
また卸売り問屋などを作り そこから日本から輸入した物品を漢城の店に卸していた。



イメージ図


当時の一般的な糸巻きの様子

盧らの女性奴隷なども一生懸命に働いた。
さて数ヶ月もすると盧は洋服店を任された。
盧は洋服が大好きで誰よりも熱心に働いて輝くようになってきた。
それはいつも半分裸の格好 若しくはぼろぼろの洋服で労働に従事させられたことも要因だった。
そして美しい洋服はご主人様の象徴といつも憧れていただけに洋服に執着が在ったのだった。


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店のイメージ写真

小さいながらも洋服店を任されていたので小躍りしたくなるほどうれしかった。
新しいミシンを渡され それを用いてどんどん裁縫をこなして行った。
玲子から学んだミシンの腕前は見る見る上達していった。
またデザインセンスも抜群に上がり 庶民の心を盧つかんでいった。
王宮の人間が洋服を買いに来ていた。
いや常民にも大人気だった。

ミシンの存在を知らないお客は盧の仕事の速さと正確さに驚嘆していた。
また盧には抜群のファッションのセンスがあるらしく 盧の洋服は飛ぶように売れた。
ミシンですばやく作る服は速さと安さが売りであった。

盧自身も奴隷生活から開放され また若いこともあり 研究熱心な上に
当時としては最新機械のミシンを手渡された事もあり有頂天になり仕事をしていた。
そして 自然に彼女の店には人だかりが出来るようになっていったのだった。

教会の洋服はもちろんの事 きらびやかな服を誉められれば誉められるほど
ミシンを使い信じられないスピードで裁縫していく盧に天木は感心した。
利益を上げた金でまた彼女の店に奴隷を買い与えた。
店はどんどん繁盛していった。

若い女性が盧の店にはたくさん訪れるようになり
天木も盧の店をどんどん綺麗にし 従業員も増やしていったので
繁盛し 町の評判となるまでにいたった。

だが 一方で事情を知らない人達やそれまで伝統のちょまごりを販売していた
他の店の店主などや機械を知らない手作業の人達は戸惑いを隠せなかったのだった。
中には盧の店を見て嫉妬する人間も増え始めていたのだった。
ミシンと言う便利な機械を知らず また西洋から購入するルートも持たない彼等は
どうすることも出来なかった。

また洪の方は文字も読め 計算も出来たうえに 西洋風の建物の作り方に通じていた。
夜は財務を担当し 昼は天木の用意した奴婢を利用して建築にいそしんだ。
当時 朝鮮にいた日本人らがレンガを焼いて 生産していた。
元奴隷の金一元も元両班らしく 朝鮮のいいレンガの材料となる土地を日本人に手配した。
そして日本人がレンガ工場を作るのに協力もした。
洪らはそれらのレンガを安価で購入し レンガつくりの美しいレストランを立てた。
教会も立てた。それにはふんだんにステンドガラスが使われており
それは長崎や上海の西洋人の建物を思わせる美しい建物だった。
天木の店は評判になった。
天木はピアノをひいたり 西洋人の料理人を雇ったりした。
その店にはガス灯が夜には灯されソウルの夜景を美しく照らし評判を呼んだ。

心の方は本国でない遂げられなかった太平天国の再建の事のほうに向いていた。
がちょうど 今がその再建時期であるかのように積極的に働いた。
事実 彼は今まで夢描いていた構想を現実の物とし 満足していたのだった。

おまけに天木がキリスト教徒なので彼に其の夢(太平天国の夢)を託し始めるのだった。

ここ(天木の元)では身分制度もなく自由で奔放な世界が展開していた。
ちょうど この店がその理想郷ににあたるのではなか?と彼は思っていた。
そして無念で死んでいった仲間を思うと時々涙が出てくるのであった。

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こうして 洪や金一元や盧は天木の元で懸命に其の人生を生き抜こうとするのだった。
朴次元も軍の設立に向け日ノ本に協力して働いていた。

だが そんな中 朴檀君だけがいつも着の影で彼等の働く姿をうらやましそうに眺めていた。
左の鉄の義手が彼等と働くことを拒んだ。
店でこの義手を見せれば人は逃げるし 建築現場でもこの義手では物を運べなかった。
だから この木の陰で子供等と遊ぶことしか出来なかった。
おまけに子供は残酷で片輪とか片腕とか平気でからかう事もある。
故に洪や金一元が働いて 汗をかいて働く姿がまぶしかった。
日本に戻り また営業でもしようか?と考えていた矢先に
そんな檀君を見ていた天木が声をかけた。
天木は「檀君、頼みたいことがあるんだけど?」と言うと
檀君は顔色を輝かせて「なんですか?」と聞いた。
天木は「君に聖書の朝鮮語版を作って欲しいんだ。ハングル語の物をね、報酬は弾むよ。」と言った。
天木は宣教師として李氏朝鮮でキリスト教を布教させたかったのだ。
それを聞いて「これなら右手だけでも出来る。」と檀君は思った。
そして檀君はそんな天木の優しさにいつも心を打たれていたのだった。

/////////太平天国の乱/////////////////////////////////////////////////////////////////////////
そのような中で、キリスト教系秘密結社の上帝会が失地移民たちの間に流行し始めた。
その代表の洪秀全は、村塾の教師をしながら繰返し科挙に挑戦するも合格できず、かえって煩瑣形式主義の科挙や
官僚になれば裕福になれる社会制度を憎悪して、イエスの弟との天啓を受け、上帝会を結成して世直しを志すにいたったのである。
彼らは、唯一神エホバを信仰して他の神仏偶像を破壊し、孔子や儒教もまた邪神・邪教として排撃した。
そして、彼らは共産組織を形成して、五一年には、洪秀全を天王とする「太平天国」を建国した。
この太平軍が滅満興漢を呼びかけつつ進軍するにつれて勢力は増し、各地でもこれに応じた反乱が生じた。
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アイザック・シンガー
Isaac Merrit Singer。1851年に家庭用ミシンを開発し、会社を創立。直売・月賦方式をはじめて採用しました。
エリアス・ハウ」は、「シンガー」を相手取り、特許侵害で、訴訟をいくつも行う。
ここで、シンガーは、和解案を15,000.ドルに減額し、製造販売権を取得する。
この、製造販売権を取得できたことが、後の「シンガー」を躍進させた。
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1854年(安政元年) 
黒船2度目の来航時、幕府への献上品の中にミシンがありました。 
1860年(万延元年) 
遣米使節の通訳中浜万次郎(ジョン万次郎)がみやげとして、持ち帰りました。 
1881年(明治14年) 
東京で開かれた第2回内国勧業博覧会に国産ミシン第1号が展示されました。 
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黄と馬のイメージ図

さて上海ではあの外国人奴隷運搬船の奴隷解放の時に一緒に行動した一人の若い中国人が
足を鉄砲で打たれ 運悪く清の役人に取り押さえられていた。

名前は 黄 空悟と言った。
黄の祖父は白連教の乱に参加して 四川省の峨嵋山に
逃亡して そこで農業をしながら生活していた。
黄は祖父の元で道術や武術の修行に励んでいた。
ある日 白朴に会い、其の話に感銘して 祖父を残して下山していた。

この奴隷解放には義侠心から参加していた。
黄は足を撃たれて逃げられないと思った時に頭巾と上着を忍者に手渡しその場に残った。
下は黒い色のズボンだったが 上着は平服だった。
だが容疑をかけられて清の役人は彼を牢にぶち込んだ。


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当時は手錠ではなくこのような足枷や首枷が利用された。

ちなみに上海ではその当時にはいろいろな秘密結社が存在した。
例えば一八五三年九月上海の小刀会は蜂起して県城を占領した。
水夫や商人や職人など約5000人が「滅清復明」「貧官剿滅」をスローガンとして反乱をおこした。
清朝の官吏の腐敗が原因でそれに対する反乱だった。
彼等もまた太平天国と協力して清と戦おうとしたが、1年後に鎮圧される。
首謀者には広東省・福建省の出身者が多かったが、それが原因で外国人は清が彼等を取り押さえた後も
損害賠償を請求したために上海での外国人の勢力はますます巨大なものと化した。
だがこの小刀会のような秘密結社の力は衰える事はなく、姿かたちを変えて大小様々な秘密結社が存在した。

そしてその当時の白蓮教は乾隆帝に滅ぼされた南少林寺の人間らと「滅清復明」の名の元に協力して同化していた。
その流れに自由と平等の精神を掲げる日本の諜報機関が興味を示して
お互いに上海では協力し合っていたのだった。


さて奴隷解放では少々のいざこざがあり運悪く黄空悟が牢につながれていた。

影丸は黄を心配しながら「あの事件以来、黄が捉えられたままなんだ。なんとかしなきゃあいけないですね。」と言った。
白朴こと白道士は「彼には事件には関係なく道に迷っただけだと主張させています。」と答えた。
影丸は少し心配しながらも「私の部下に役人に金子を渡すように命じているから そのうちに釈放されるでしょう。
見舞いだけにでも行きましょう」と言った。

さて監獄の中では黄は独房に入っていた。

そして牢獄の中で黄は自分の将来を 国のことを考えていた。
俺は国のために働くと言って山を降りたが 結局
捕まったのは彼だけだった。あれだけ険しい山地に生まれ
あれだけ軽功に自信はあったのに、しかしそれが慢心を生み出して裏目に出たのかもしれない。
やはり祖父の言うとおりに下山するにしてももう少し学問や道術を訓練し
武功などをもう少し積むべきだったのかもしれない。そう思っていた。

租界の外人に打たれた足の傷は癒えつつあるが 心に負った傷は癒えそうになかった。
奴隷を盗んだ泥棒として この獄に閉じ込められて既に数週間が過ぎていた。
元々中国人奴隷ブローカーの奴隷の集め方にも問題があったためにだまされて海外に売り飛ばされようとした人々が騒いだために
南米の奴隷商人も告訴を取り下げようとしていた。

だが 運が悪ければ彼は何年もここに閉じ込められたことだろう。
独房で寝転びながら 黄は天井を眺めていた。
そこへ看守が現れて「おい 黄、面会だ。」と言った。
そこには彼の師父が居た。
白朴と影丸は心配そうに「元気か? 黄?」と聞いた。
黄は彼ら二人を見ると「これは師父と影丸殿。」と急いで礼を取った
白朴佛は白蓮教同士で黄の祖父や父とは知り合いでもあり、道教を通じての盟友であった。
白朴佛は黄の師父の一人でも合った。
白は心配そうに「どうだ?足のほうはもう大丈夫か?」と聞いた。
黄はニコニコしながら「ええ 骨に銃弾が当たらなかったことは幸いでした。」と答えた。
白朴佛道士は「もうすぐお前は出れる。ここでの生活は神が与えた試練だと思い耐えるんだぞ。」と黄を励ました。
すると白の後ろから 一人の麗しい女性道士が出てきた。
それは若くてきれいな女性だった。彼女は「黄君 大丈夫?」と問いかけてきた。
黄は「馬 麗麗(美紀)!どうしてここへ。」と驚いた。
幼馴染の女道士だ。正直言うと黄は自分が牢の中に居る姿を見せたくは無かった。
影丸は「どうしてもお前が見たいとうるさくて つれてきたんだよ。」と言った。
馬は黄が元気そうなのを見るとキョロキョロ周りを見回しながら
「ふーん だいじょうぶそうね。早く黄兄、ここを出てきなよ、待っているから。」と嬉しそうに言った。
黄は少し照れて「ああ」と言った。
影丸は「酒と肉を持ってきてやった。これを喰いながら力でも蓄えるんだ。」と酒と肉を手渡した。
黄は「かたじけない、影丸殿。」というと酒と肉をもらった。
そして牢の中に見舞いに来てくれる愛情にあふれる仲間を見つめつつ、自分は幸せなのかもしれないと黄は思った。
白道士はそんな彼を見て安心して「それでは私達はこれで出る くれぐれも 元気でな。」と別れの挨拶をした。
黄は「わかりました。師父もお元気で」と牢の中から彼らを見送るのだった。

黄色はまた一人になった。
狭い独房に入れるのは黄にとっては苦痛ではなかった。
座禅を何時間もさせられるほうがよほど苦痛だ。

黄は酒を飲み始めた。
酒の匂いがあたりを立ちこめた。

彼は足を打たれたことが気になっていた。
やはり油断が原因なのか?たまたまなのか?
これからは注意していかないと命取りになる。
と心に刻み込んでいた。

すると隣の牢から声がした。「いい匂いだな。俺にも分けてくれ。」
黄は「?? 誰だ?」と尋ねた
隣の牢の男は「俺の名前は趙 白狼と言う。すまぬが少し酒を分けてくれぬか?」と言ってきた。
そして酒盃を隣の牢から手を出して投げてよこしてきた。

黄は「少しだけだよ」と言い 白狼の酒盃に酒を満たし渡した。
趙 白狼はその酒を飲んで「うまいぜ、恩に着るよ」と叫んだ!
黄は「趙 白狼さんか」とつぶやいて師父が昔話で語ってくれた白狼会のことを思い出し 何かの縁かもしれないなと考えた。
趙 白狼は酒を飲みながら黄に「なぜ?この牢に入ったのか?」と聞いてきた。
黄はいろいろと説明した。すると白狼は急に興味を持ったらしく「待っていろ。」と
言うと自分の牢のカギを開け そして今度は黄の牢のカギをあけて彼の牢の中に
入ってきた。黄は驚いた。
カギが開いたのであわてて逃げようとすると白狼は駄目だと言い黄をねじ伏せて牢にカギをかけた。
「さあ 話を続けろ。」
黄「あなたはなぜ?牢のカギを持っているのですか?」
趙 白狼は「俺は特別なんだよ。こんな牢で出ようと思えばカギ無しでも出れる。
だが牢を壊すと見張りが後で叱られるので俺は特別にカギを持っているのだ。」と言った。
黄は彼の武功とその図々しさに驚いた。そして趙白狼にこれまでのことを話した。
趙白狼は彼の義勇心を褒め称えた。そして趙白狼は「お前はいい奴だよ。」と彼を褒めた。
こんな時代に海外に売り飛ばされていく奴隷を助ける奴なんてそんなにいないと思ったからだ。
その時代は皆自分のことだけを考える奴が多かったのだった。

そして黄の義侠心に感心しながら「俺と義兄弟の血をかわそう。」と言うとナイフを取り出し指に当てたがどういうわけか血が出ない。
趙 白狼は黄にナイフを渡して「俺の指から血を出してくれ。」と言った。
黄は訝しく思いながら 彼の指にナイフを当てて血を出そうとしたが
なんと彼の指からは血が出ない。と言うよりも刃物で指を切ることが出来ないのだ。
ナイフが悪いのかと思い自分の指に当てるとどくどくと血が指から溢れ出す。
すごい切れ味だ。
趙 白狼「気をつけろよ 其の小刀は切れ味抜群で 下手をすると指を切り落とすぞ」と言った
黄はそれを聞いてぞっとした。
そして白狼は黄の血を自分の酒に入れて 自分は少し口を噛むと口の中から出た少しの血を
黄の酒杯に入れて腕を交差して 義兄弟の契りを結び相手の血の入った酒を飲んだ。
白狼はにやけながら「これで晴れて俺達は兄弟だ。」と言った。
黄は驚いた。こんな牢獄の中で しかも法律では確か禁止されている血を
飲み交わす義兄弟の契りをする事になろうとは。
しかも相手は白狼と言う名前でおまけに刃物を受け付けない体をしている。
其の上に懐には牢のカギを持ち歩き やる事が滅茶苦茶だ。

白狼は黄の足を見て 傷に彼の秘伝の薬草をつけた。
そして彼を裸にして体中にこれまた別の薬を塗り始めた。
そして一つの本を渡すと白狼は言った。
「黄弟よ、この本を見て 気功を研鑚しろ。これは気功術秘伝の書だ。」
上級まで学び終えれば刀や弾は跳ね返せる。初めは刀は完璧に跳ね返せないだろうから過信は行かんぞ。注意しろ。」と言った。
黄は自分の軽功に自信を持ちすぎて牢に入っていたので素直に「わかりました。」と言って膝をついた。
趙白狼は「そしてこれは秘伝なので口外は無用だ。」と言った。

黄は「はい わかりました。白狼師父」と片膝をついて返事をした。
武功があまりにも違いすぎて兄貴とは呼べずに師父と呼んでしまった。
白狼は「師父か、悪くは無いね。」と言って笑った。
そしてそういうと牢を出て、また黄の牢にカギをかけ出て行ってしまった。

この技は少林72技の一つである槍刀不入法であった。白狼はこの技に通じていた。
黄は素直にこの技が学べてうれしかった。
槍刀不入法は極めて有名な術で この後発生する義和団の事件でもこの術を符術などと組み合わせ
民衆は動く。この風潮は日清戦争後の日中戦争の秘密結社でも見受けることが出来る。

  • 槍刀不入法1
  • 槍刀不入法2
    以上のページに槍刀不入法の主な修行方法を記す。

    そして黄は独房の中で一人 瞑想をしながら気を練りつつ 道教の
    内観の修行に没頭していたのだった。
    すると体が壮健になり 足の傷がよくなっていくように思われるのだった。

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    趙白狼のイメージ図。

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    福建省の福州から、南の方に50キロくらい行くと、福清という街があります。そこは福建少林寺(南少林寺)があったと
    言われる場所で、最近になってが遺跡が見つかったそうです。
    福清から、ミニバスで10分くらいのところで、東張という村があり、そこにその遺跡があります
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    一方 李燕は上海にはいなかった。

    長谷は日本政府の諜報員であり 朝鮮 長崎 漢城(ソウル) 上海などをまたにかけていた。
    但し 長谷の場合には政府の命令を無視して 度々 人助けをしていた。
    彼ら一族は倒幕の仲間であると言うことも幸いして結構融通が利いていた。
    そのために上海の改革派の連中には受けがよかった。
    また 彼等にも大きな影響を与えていた。

    さて長谷は朝鮮半島での要件を済ませた 長谷はここ上海に帰ってきていた。
    日ノ本と堀本がいれば支障はないだろうとの判断であった。
    長谷は義兄弟である李を上海で探したが そこに李の姿はなかった。
    少林寺の仲間によると上海で目を付けられた李は全ての財産を
    福建少林寺(九蓮山)に在籍していた邵明法師和尚に
    委託して、悪の元 清の西太后を倒すべく 紫禁城に向かったのことだった。

    李燕は考えていた。このような小さな悪を退治しても 黄のような若者が犠牲なるだけだと。
    この際 この命を投げ出して 悪の大元 西太后を暗殺しようと考え 彼は北京へと向かったのだった

    長谷は少林寺へと向かい 和尚に彼の事を聞いた。
    長谷「だいじょうぶでしょうか?邵明法師和尚 李は」
    邵明法師和尚は
    「うむ 命の保証はあるまい。ためにきゃつは身分を捨てた元少林寺僧や白連教や秘密結社の者
    十人にも満たない少数精鋭で出発したぞ。
    あやつの目的はずばり政府転覆を狙った西太后暗殺じゃ。
    もし おぬしも動く気なのなら ある程度上海で準備してからのほうが良かろう。
    わしは殺人は殺人 殺生の罪じゃと反対したのじゃが 奴等は聞かずに出て行きおった。
    だが李の方もまずは情報収集をして西太后や光緒帝の人となりを見て暗殺を決行すると申しておった。」と伝えた。

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    光緒帝1871〜1908(在位1874〜1908)中国清朝第11代皇帝。徳宗。名はサイテン※注1※。
    道光帝の第7子ジュンシンノウエキケン※注2※の第2子。母は西太后の妹。4歳で即位し17歳のときに親政を開始したが
    実権は西太后が握っていた。
    /////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////


    長谷は「李燕は呂四娘のように簡単に皇帝を暗殺できると考えているのでしょうか?」と言った。
    邵明法師和尚は「そうかもしれんの、あいつの軽功は大した物だからな。うぬぼれるのも仕方あるまい。」と言うと
    長谷を見て「あいつを見たら思いとどまるように伝えてくれ。」と言った。
    長谷もそれに同意して「わかりました、師父」と言った。


    呂四娘

    雍正帝

    //////////////////伝説の刺客:呂四娘///////////////////////////////
    西暦紀元の1735年8月20日、雍正帝はまだ政務を処理して、晩に病気になって、翌日夜明け方に死亡する。
    伝説によれば伝説の刺客:呂四娘に雍正帝は暗殺されたと言う。
    雍正帝の在命中に浙江の文士の呂留良の文字の獄事件で呂一族は死ぬ。
    これに憤慨したのが運よく生き延びた当時13歳の孫娘の呂四娘であった。
    彼女の家族の全家族の祖父母から孫までの3代が殺害されたことを知って
    憤り嘆いて、すぐさま指を刺して「雍正を殺さないでは死んでも死に切れない」
    と8つの大きな字の血の書を書き記して決意を固めた。
    「不殺雍正,死不瞑目」
    そして独りで北上して全家族のために復讐することを決心する。
    その途中で高僧の甘鳳池に少林寺72絶技のうちの飛檐走壁法と刀剣の武芸を学んだ。
    少林寺72絶技の解説
    http://nihonjustice.hp.infoseek.co.jp/72.html
    そして紫禁城で身分を隠して働くこと数年経過、その後に雍正帝を暗殺したと言う伝説である。
    真偽のほどはよくわからない。
    がしかし呂四娘は女侠客として今も中国では伝説の人間であり映画やドラマにもされている人気の侠客である。


    内容はこちらのページのほうが詳しい。(日本語)
    http://homepage3.nifty.com/hkaction/sub123.htm



    甘鳳池


    さて 長谷は北京に赴いたが、李の足取りはつかめぬまま 数日が過ぎていた。
    北京では帯刀が禁止されていたために 長谷は拳銃と折込式の剣を所持していた。
    田舎であれば適当にごまかせる物の ここではそれも不可能だった。

    武術を使うこと 学ぶことさえ 禁止されていた。
    それほど清が拳法や剣士を恐れていたのだが 禁止することは
    逆に国全体の武術の退化を招いていた。

    少林寺でさえ隠れて 武術を練磨する有様で 時々 清とは揉め事を起こしていた。
    福建省少林寺は残念ながら 清とのいざこざに巻き込まれ滅亡していた。
    邵明和尚はその生き残りであり 至善禅師の数少ない後継者だった。

    また 少林寺などや一般人は武術を禁止されたため 基本的な武功を収めている人間も
    少なくなっていた。
    だが それは清の歴代の勇士の子孫とて同じ事だった。

    そして 李の飛燕拳の出来を考えると時代遅れの剣 槍 弓 矢火縄銃や 飛び道具では
    そう簡単に命を奪われるまでには至らないと長谷は考えていた。

    李は白連教の秘密の隠れ家で 西太后について 秘密結社の者と今後の進退について
    話していた。

    ・城内の面積:72万平米 ・約9000間の部屋・高さ32mの城壁・52mの幅の掘
    ・収蔵品90万点以上 東西750m,南北960m
    ・高さ32mの城壁・52mの幅の掘
    、中国全土への統治を行なったのである。 

    紫禁城は南北961メートル、東西753メートル、敷地は72万平方メートルの規模を誇る。
    高さ1Oメートルの城壁に囲まれ、その外に幅52メートルの濠がめぐらされている。

    これらの城壁は燕の李と言えどもさすがに忍び込むのを困難にしていた。
    始めは宮廷内の財宝をいただき ながら敵の内情をつかむつもりだったのだが
    当てが外れてしまった。

    儲秀宮に西太后が住んでいるとの情報もあった。

    だが 彼はそんな折に洋務派と言う新しいタイプの官僚と出会うことになる。

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     イ:洋務派代表: 李 鴻章(1823〜1901)の思想
     洋務派というのは1860年代の一部分の封建官僚たちが資本主義国家の先進技術を取り入れ、封建統治を固めようとした人たちを指す。洋務派の前期の代表者である李 鴻章は西方を学ぶことを主張した。彼の洋務をやっている目的は国家の”自強”と”富強”である。洋務をやるに当たって、西洋の学問を学び、洋器を作ることである。彼は中国で初めての北洋艦隊という海軍を作り出した。だから彼の経済思想は軍事産業中心に基づいた工業中心である。
     この時期の中国は西洋の機器工業を発展させようとしたが、西洋の経済学についてはふれてない時期でもあってまだ、伝統的な封建社会の経済思想を保ちつづ、社会を発展させようとした。
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    1840-42 道光20-22 阿片戦争
    林則徐 阿片収入の十分の一で制造艦の必要を主張
      楊芳 敵の弾がが当たるのは邪教による 婦人汚物犬の血などを海に流す
    1846 魏源 海国図誌 船廠・火薬局 (洋布輸入急増)
     馮桂芬 西洋は兵器が発達 船堅砲利のみ 繙訳館の設立も必要

    1850-64 太平天国乱 清軍釐金を徴収
    洪仁梏 資政新編 議会・新聞・汽車・汽船・銀行・技芸・振興・専売・鉱山・市場 (容代の示唆による)

    1856-60 アロー号事件(第2次阿片戦争)これ以降洋砲・洋艦・小火器の威力を知る
    1861 総理各国事務衙門設立 王子改訴が長官
    1862-74 同治中興 馮桂芬に軍人官僚は同意見
       兵器製造政策が展開する 主に砲船銃が中心
     前期{洋務運動}始まる
    1862 容代曾国藩に母廠理論を説明(工作機械工場が先に必要)
       同意見 Giquel 左宋棠など 但し国内での必要性はなし
    1862- 各地に同文館設立
    1867 倭仁反対(外国人に教わったものは外国人に従うだろう)  (牟安世)
    1872 農本主義の反対有り 李鴻章輪船の効用を主張
    1875 薛福成海防密議10条治平6策(丁寶杤経由)外交・儲才・製器精・造船・商情・茶政・開鑛・水師・鉄甲船・条約徹底

    1862 曾国藩安慶軍械所李鴻章上海蘇州製炮局設立
    1862 曾国藩容代をアメリカに派遣(機械購入のため)

    1865 上海江南機器局(曾国藩)
    1866 福州船政局 (左宋棠)
    1867 天津機器局 金陵機器局(李鴻章)
    1879 四川機器局(設立 77)停弁事件 (銃などの武器がまだ出来ない) 塩行政反対の道連れ
       大規模工廠は拡大の傾向

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    さて李燕は李鴻章とある酒場で話し合いをすることになるが
    この対談を仕掛けたのがあのアルセーニルパンであり、金に物を言わせて
    当時の在清フランス公使などを動かしてこの対話を実現化させたのであった。

    アルセーニ ルパンはフランス公使や李鴻章の前ではイギリスの貿易商人を名乗っていた。
    彼自身は英語と中国語などが巧みでフランス語も母国語と言うことでぺらぺらであった。
    彼は度々紫禁城や清の皇族から宝物をくすねていたし、中国人にも配下がいて
    共にネットワークを構築していた。
    そして密かに李燕の卓越した体術を自分の盗みに生かそうと企てていた事も事実であった。

    さて李燕は李鴻章と其の部下の考え(洋務派の考え)を聞いたときは非常に驚いたようだった。

    同じ姓と言うこともあり親近感を互いに持ちながら李鴻章と戦争に着いて議論をしていた。
    李燕は「と言うとあなたは 近代化された銃の前には私の燕拳が役に立たないとおっしゃるのですね。」と悔しそうに言った。
    李燕は拳法の達人と言うこともあり、同じ漢民族が西洋文明に肩入れ過ぎる点については賛同できないでいた。
    李鴻章は悔しそうな李燕をせせら笑いながら「それでは君は拳銃の弾が受け取れるとでも言うのか?」と言った。
    李燕は「ええ 私ならそれを見切ることができるはずです。」と自信たっぷりに言った。
    李鴻章は首を横に振りながら呆れて「よろしい 試してみよう。」と言った。

    二人は表に出た。
    李鴻章は「本当に良いのか?」と聞いた。李燕は「もちろん、どうぞ」と言った。
    李鴻章は「行くぞ。」と言うと李燕を殺さないように李燕の顔の横をめがけて撃った。
    さて李燕は既に其の当時の防弾服を着込んでいた。
    洋服の背中や腹には鋼鉄が埋められていた。
    また特殊な手袋をしており その手のひらの部分にはこれまた鋼鉄が埋め込まれていた。

    「バン!!!」と言う銃声が響くと銃弾は目の止まらぬ速さで李燕の横を突き抜けていった。
    李燕は目を見開いたが 弾道を確認するだけに終った。
    手を出して玉を取ろうとしたが無理だった。
    それを見ると思わず李鴻章は苦笑した。彼の取り巻きの淮軍の軍人も笑った。
    それを見て「もう一度 !」と李燕は興奮気味に李は叫んだ。
    鴻章は「おぬしも馬鹿者のよの、、、。」と言うと李鴻章は銃をまた撃った。
    また銃声が天津の夜空に響いた。
    すると「っつ!」と言う声と共に李燕はなんと弾丸を取っていた。
    が少し手に傷を負っていた。
    李鴻章は驚いて「大丈夫か?」と叫んだ。
    李鴻章の配下の淮軍の軍人はそれを見て少々驚いてざわめいた。
    李燕は「心配は要りません、大丈夫です」と李鴻章の答えに答えた。
    李鴻章はそれでも心配して「見せてみろ」と言った。
    幸い深い傷ではないので 李鴻章は傷を布で覆った。
    そして素直に自分の負けを心の中で認めた。
    李燕は残念な結果に終わり悔しそうに「すみません。しかし これでは西太后は打てぬ。」とつぶやいた。
    李鴻章は「おいおい」と燕を笑いながら見る。
    彼の配下の軍人も苦笑いをして聞こえていない振りをしていた。
    彼らはみな漢人であった。
    李鴻章は「ワシもとんだ痴れ者と知り合った者だ」と高らかに笑い始めた。
    李燕は「ここでは正直に言いましょう 私は西太皇后を打つつもりです。」と言った。
    鴻章は怪訝な顔をして
    「俺は清の大臣だぞ?それに西太后を打つ前に何かやらねばならないことがあるのではないのか?」と聞いた。
    李燕は「何か やらなくてはならないこと?」と首をかしげながら言った。
    李鴻章は「そうだ、君の腕ならいつでも彼女を打てるだろう。しかし其の前にやらねばならないことがある。
     君はアヘン戦争を知っているか?」と言った。
    李燕は「ええ 我が国が大敗を喫したあの戦争の事でしょう?」と言った。
    李鴻章は「軍は私が抑えている 西太后はいつでもやれるが イギリスは今の私にでもどうする事もできない。」と言った。
    彼は無用な争いを好んではいなかったのだった。
    李燕はそれを聞くと少し考えて「確かに今は内紛をしているときではないのかもしれない。」と言った。
    李鴻章は「そうだ、暗殺などと言う馬鹿な考えは今は捨てた方がいいだろう。まずは力を蓄えるべきだ。」と言うと
    李燕も「全くその通りです。」と言った。
    李鴻章はその答えを聞くと大きく頷いた。
    李鴻章の淮軍の軍人らも微笑んだ。
    ところで李燕はさっきの屈辱を晴らそうと
    李鴻章に「あなたは私を其の拳銃でもう一度撃つことができますか?」と問いかけた。
    李鴻章は「できるとも。」と言い銃を燕に向けた。
    と同時に燕は消えた。
    驚く李鴻章。
    と同時に肩を誰かがたたいている。
    李燕は「今度は私の勝ちのようですね。」と自分の軽功を見せ付けた。
    李鴻章は「ああそうだな。君の腕前はすごいな。気に入った。同じ漢民族として今日は飲み明かそう!」と言うと
    李燕は「そうしますか!」と李鴻章に礼をとった。
    そして周りの淮軍の軍人も李燕の軽功を褒めながらわいわい言いながら近寄ってきていろいろと話しかけた。
    其の日 二人と淮軍の軍人らは政治に軍事について 夜更けまで大いに議論しあった。

    次の朝
    李燕は爽快な気分になっていた。
    あんな人がまだ清にいたとは、希望が持てる。そう彼は考えていた。
    但し 鴻章は 西太后暗殺はうかつに口を出すべきではないと念を押していた。
    彼自身もあまりにも迂闊だったと反省していた。

    だが 軍人の中にも既に宮中内のドロドロした政権争いに嫌気を
    さしている進歩的な人間がいる事に喜びを感じていた。

    しかし 当の鴻章は浮かない顔をしていた。
    それは未だに中国の銃が火縄銃などの時代遅れのものだったからだ。
    否 銃はあるにはあるが それは輸入物であり 独自で大量生産するに至っていなかった。
    反面 火薬と弾頭が1つの弾薬に収められたカートリッジのある銃には火は求められない。
    雨の日だろううが 持ち運び便利な銃で弾を発射できる。 
    S&W社のリボルバーは未だオートマチックでないにしても 火縄銃とは全然違う。
    手動だが 連発で6発も打てる。
    これまで銃は雨のある場所は駄目で しかも交代で筒に弾を詰めなければならなかった。

    燕も昨日は子供のようにこの銃の性能について質問をしていたが
    この銃を作らないと戦争することさえままならぬ。
    そう鴻章は考えていたのだった。

    もはや 剣の時代は終った。

    昨日の燕との議論や一悶着もこの一言がきっかけだった。
    燕は賢いので すぐに理解してくれたが、西太后はどうだろうか?
    理解どころか興味も示すことはないだろう。と彼は思っていた。
    しかし近代化の波に遅れてはこの国を守る事さえおぼつかないのだ。

    さて 長谷は ようやく燕の居場所を突き止めた。
    しかし 燕は長谷が到着するとなるとすぐさま
    燕「長谷 そのリボルバーの拳銃を見せてくれ。」と
    いきなり長谷の銃を引き抜いた。

    これまで銃には興味がなかったが 李鴻章の説明で拳銃に興味を持ち始めた。
    燕は「これって 火種なしでも打てるんだよな?」と聞いた。
    長谷は「ああ そうだ。」と答えた。
    燕は「どのくらいの距離が狙えるんだ?」尋ねた。
    長谷は「俺のは少し改造しているから 50メートルくらいは正確に狙える。」と言った。
    燕は「長い距離を狙えるのは在るのか?」と聞いた。
    長谷は笑いながら「ああ 日本軍には200メートルほど先まで狙える小銃を軍は利用している。」と答えた。
    さて日本では実は一八八〇年(明治十三年)三月三十日に村田経芳陸軍少佐(薩摩)により一三年式村田銃が開発されて日本陸軍の小銃として正式採用されていた。
    丁度 一年前のことであった。
    それまでスペンサー銃など海外の銃に依存していた日本が独自の銃を開発した意味合いは大きかった。
    大久保などの乳製品の促進により少しづつ体が健康になり大きくなっていたものの、西洋人と比べるとまだまだ小さかった。
    村田銃は日本人の体系に合わせた銃であった。
    村田は同じ薩摩の西郷従道や大山厳に直談判してどうにか陸軍に彼の作った日本初の銃の採用を認めさせた。
    その銃は非常に優れた銃であり日清戦争の勝利の要因の一つになった。
    その後その開発の流れは有坂と南部が継ぐ事になるのであった。

    村田経芳 フランス、ドイツ、スウェーデンに留学する。
    フランスのグラー銃を基に日本人向けの銃を開発した。
    murata12.jpg

    当時は有名だった薩摩の立ち撃ち。
    ninjyaryuudan2.gif
    擲弾銃を撃つ桐野(影丸こと第十三代目霧隠才蔵)


    4へと続く。




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