「垣間見る(かいまみる)」という表現があります。

ふだんの会話で出てくることは稀ですが、新聞やWEBなどの記事で見かけることは珍しくありません。文字を書く職業をしている人であれば、一度は使ったことがある言葉かもしれませんね。

この「垣間見る」、ただ漫然と読んだり使ったりするにはちょっともったいない、ユニークな言葉なんですよ。



垣間見たいのは、誰もが知るあの美女

そもそも「垣間見」とは何でしょう。

これを知る格好の出典は、日本最古のSF小説ともいえる『竹取物語』です。竹取物語には「垣間見」とは何なのかがありありと描かれています。

竹取物語のストーリーはいわずもがな、翁が山で竹を刈った際に三寸(約9cm)ほどの少女を見つけて連れ帰り、翁のもとでやがて美しく成長し「(なよたけの)かぐや姫」と名づけられたその少女が、並みいる貴族たちからの求婚には無理難題をふっかけて、時の帝から求愛され袖をつかまれては「私はこの世のものではありません」とばかりに影となって消えてしまうなどし、ある8月の晩に月の世界へと帰っていくというもの。

そのストーリーの序盤、かぐや姫がたいそうな美女として評判になっていくくだりに「垣間見」が登場します。

「世界の男、貴なるも賤しきも、このかぐや姫を、得てしがな、見てしがなと、音に聞きめでて惑ふ。そのあたりの垣にも、家の門にも、をる人だにたはやすく見るまじきものを、夜は安く寝も寝ず、闇の夜に出でても穴をくじり、垣間見、惑ひあへり」(Wikisource)


簡単に訳すと(意訳あり)、「世間の男たちは、身分が貴い者も卑しい者も、かぐや姫を妻にしたい、一目見てみたいと、絶世の美女だとの噂を聞いて想い惑わされた。たとえ家に仕える者であっても、たやすくかぐや姫を見ることなどできないのに、翁の家の垣根にも門にも人があふれ、男たちは寝ることもなく、闇夜に出ては垣にのぞき穴を開け、垣間見て恋焦がれていた」

そう「垣間見」とは、文字通り「垣の間から見る」行為。つまり「のぞき見」です。竹取物語では、男たちがなんとか一目かぐや姫を見ようと、垣(柴垣か?)にのぞき穴を開け、夜な夜な家の中をのぞきます。もちろん、かぐや姫の姿は見えません。それでも寝ずに通うわけです。

現代の「垣間見る」の意味も「物のすきまから、こっそりとのぞき見る。また、ちらっと見る。物事のようすなどの一端をうかがう」(デジタル大辞泉)というもので、「のぞき見」であることは変わりません。しかしその使い方は意図的にのぞくというよりも、かなり偶然性が高いものになっている印象があります。たまたまある行為を目にした結果、その背後にある事象・心象をなんとなく「垣間見る」というかんじです。

しかし竹取物語の「垣間見」は違います。見たいのです。見たくて見たくて、恋焦がれた末の「垣間見」で、そこに偶然はありません。



這ってでも見たい

そして、垣間見のくだりには続きがあります。

「さる時よりなむ、よばひとはいひける」

訳すると「この時から、(このような行為を) “夜這い”というようになった」。

夜、人目をはばかりながら這うように女の家に通い、そっと中を垣間見る。垣間見は、まさにリビドーそのものです。

現代の「垣間見る」は冒頭で述べたように、なかなか日常会話には出てきにくい表現です。しかし古代の「垣間見」は(エロ要素多めながら)もじつに生き生きとした日常があり、「垣間見」という言葉にはとても温かい手触りがある気がしてなりません。

もちろん現代の「垣間見る」を古代の用法にならえとは言いませんが、偶然ではなくもっと意識的に、積極的に垣間見ようとする、そんな使い方があってもいいんじゃないでしょうか。