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【憲法と、】

第4部 9条の21世紀<5> イラク派遣違憲判決

「憲法は制約ではなく、よすがだった」と話す元内閣官房副長官補の柳沢協二=首相官邸前で(河口貞史撮影)

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 二〇一一年末、米国がイラク戦争の終結を宣言した。戦争の「大義」とされた大量破壊兵器は存在しなかった。米兵の死者数は四千人を超えていた。一方、自衛隊は五年余りの活動で一人の犠牲も出さずにすんだ。

 この事実の受け止め方はさまざまだ。

 「九条の下でも仕事はできたが、制約はあった」。陸上自衛隊のイラク復興支援群長として〇五年一月、サマワに入った太田清彦(57)は振り返る。

 最初の任務は、盛大な送別会の開催だった。現地の治安維持を担当するオランダ軍が撤退し、英国、オーストラリアの両軍と入れ替わる。準備に一カ月半かけた。治安情勢を知るため、他国軍と良好な関係を築く必要があった。

 イラク特措法のもとでは、自衛隊が活動をするには、サマワは「非戦闘地域」でなければならない。だが、他国の軍隊による治安維持が必要なのが実態だった。三月の記者会見で、オーストラリア人記者にその矛盾を突かれる。「自衛隊は自分の身を守れないのか。なぜオーストラリア軍がガードするんだ」。答えに詰まった。

 元防衛官僚で内閣官房副長官補として自衛隊派遣を統括した柳沢協二(66)の受け止めは異なる。

 〇四年十一月、サマワの陸自宿営地に、ロケット砲が着弾した際の、政府関係者の言葉に体の力が抜けた。「一人でもけがをしたら、部隊は帰国させないと」

 怒りより割り切りが先に立った。以来、イラクに派遣される隊長らには「何もしなくていい、全員無事に帰国することが最大の任務」と言い含めた。

 退職後、自ら深くかかわったイラク戦争への対応を検証し、「憲法は制約ではなく、よすがだった」と思い至った。在職中、「(自衛隊が)何でもできる法律」を欲しがる防衛族の政治家と議論しても、その先に何がしたいかは見えてこなかった。「もし九条を取り払った時に、何をすべきか決めるだけの力を日本は持っているのだろうか」

    ◇

 国として是非をきちんと検証しないイラク派遣に、司法は一つの判断を下している。

 「航空自衛隊のイラクでの活動は違憲」−。〇八年四月、関西の法科大学院生だった橋本祐樹(32)は、憲法学の教授から自衛隊イラク派遣差し止め訴訟の名古屋高裁判決の内容を告げられ、耳を疑った。自らも原告に名を連ねていたが、「どうせダメ」とあきらめていた。

 十五歳で軍隊に取られ、中国で人を殺したという祖父の体験を、何度も聞かされて育った。「加害者の立場を強いられたくない」という弁護団の言葉に共感し、原告団に加わっていた。

 北海道の法科大学院生だった池田賢太(29)も「基本的人権は平和の基盤なしに存在し得ない」と断じる判決文に、興奮していた。原告団への参加をきっかけに法曹を志した。「戦後、日本が自由と平等を獲得したように、この憲法の下でなら平和も実現できる」

 橋本と池田は司法試験に同期で合格。偶然同じ北海道の弁護士事務所に勤務する。「違憲判決は裁判所から託されたバトン。日本がまた大義なき戦争に加わろうとした時、歯止めに使わなければいけない」。訴訟は五年前に終結したが、弁護団は連絡会として残り人数はなお増え続けている。 =敬称略、おわり

 (この企画は、樋口薫、大平樹が担当しました)

 <自衛隊イラク派遣差し止め訴訟> 2004年1月以降、名古屋、札幌など全国11カ所で集団提訴。市民の「平和的生存権」が侵害されたとして、自衛隊の派遣差し止めなどを求めた。3000人以上が原告となった名古屋訴訟は、名古屋高裁が08年4月、空自の行っていた多国籍軍の空輸を、「他国の武力行使と一体化した行動」で違憲と判断。差し止め請求自体は棄却され、判決は確定した。

 

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