社会大衆党の 糸数氏が参院選に出馬する
彼女は 平和バスガイドで有名になり 政治家となった
平和を愛する心が出発点なのだろうか?
以前から 平和バスガイドとして活躍を始めた頃 彼女は独身であったのか?
疑問でしたが その疑問が解けた
左の漫画は
糸数けいこ公式サイト 内の
平和の風ーバスガイド 糸数慶子の挑戦でDLできる pdfファイル(平和の風 -バスガイド 糸数慶子の挑戦- 前編 のP18から一部引用したものです。
糸数氏がまだ平和ガイドとして活躍する前のシーンです
この漫画が正しければ、糸数氏は平和ガイドとして活動する前 に結婚していた事になります。
漫画中のせりふ
「新聞記者の隆(たかし)さんは夜勤が多く」
「~こうやって美希(みき)の面倒を見てくれる」
「本来の姿は 泣く子も黙る 熱血記者」
糸数慶子氏の夫で新聞記者の 糸数隆氏について調べてみます(一部以前の記事と内容が被ります)
「 昨日、糸数慶子さんの招待で、沖縄県男女共同参画センターで「戦後史の正体」の講演会をした。
(中略)昨日那覇空港に糸数慶子さんに会った後、自動車に向かうと、運転手の人が夫だという。糸数慶子さんのブログか何かに「今から23年前です。わたくしの夫であります糸数隆が、あの喜瀬武原の山には、砲弾を一発たりとも撃ち込ませないと、体をはって、阻止闘争をいたしました。復帰して2年目のことですから、刑事特別法違反ということで、逮捕されまして、6年間の長い裁判闘争を続けました」
喜瀬武原について・・・
1974年10月。沖縄原水協らの阻止団は、県道を車で占拠し、はじめて組織的に「決死隊」を着弾地に送りこんだ。山頂でタイヤを燃やして煙をたき、米軍演習を全面的に阻止することに成功。1975年2月には、阻止団200人が3日間にわたって金武岳の山頂を完全に占拠、一発の実弾発射も許さなかったという。山頂には茅葺きの「闘争小屋」が作られ、泊まり込み部隊を配置。ふもとでは数百人の阻止団が陣取り、米軍、機動隊を一歩も寄せ付けなかった。
さらに、同年3月には、厳しくなった警備網をぬってジャングル内でゲリラ闘争を展開、金武岳・恩納岳・ブート岳一帯の着弾地に潜入して3たび演習を完全に阻止する。こうして、喜瀬武原闘争と言われた実弾砲撃演習阻止の闘いは沖縄中を揺るがしたという。
ところが、同年7月、(中略)、阻止団の一人が砲弾の破片のため、重傷を負う。さらに、同年9月、阻止線を突破して金武岳と女岳山頂で”潜入成功”ののろしをあげることに成功。演習を実力で阻止したが、その直後、4名が山中で逮捕されてしまったのである。
こうして「正当な理由がないのに米軍施設、区域内に侵入した」として、沖縄で初めての刑特法裁判が始まった。(中略)200名の大弁護団が組織されたが、地裁、高裁とも、執行猶予付きの有罪判決が下される。しかし、原告らは最高裁への上告を「拒否」。1983年、裁判闘争は終結した。
沖縄原水協かぁ、、、思いっきりの左翼団体だ
闘争って言葉すきだな~ 自称平和主義者でしょ??
沖国大教授のあの句を思いだす
「平和とか 言ってるくせに 火炎瓶」
結局 200名もの大弁護団がつきながら有罪判決!普通なら執行猶予はつかないのだろう
漫画でもあるように 糸数隆氏は記者であるが その新聞社は
琉球新報以上に左翼偏向報道がお得意の沖縄タイムスの記者(現在退職)だったのだ
左翼活動家で沖縄タイムス記者の糸数隆氏が妻の糸数慶子氏に影響を与えない訳は無い っと考えるのが普通ですよね?
平和ガイド 糸数慶子の出発点が見えた気がする
政治的思想が先にあり
「反戦・反日」で平和ガイド活動を活発かしていったように私は感じる
当時は勿論 今でも沖縄県民はそれを知らない!
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