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| ご 挨 拶 |
昭和54年(1979年)11月20日に、日本工学会創立百周年記念式典が、丸の内の日本工業倶楽部で開催された。式典には皇太子同妃両殿下が出席され、そのお言葉の中で、工部省工学校の設立は、「仮令当時為スノ工業無クモ人ヲ作レバ其人工業ヲ見出スベシ」と首唱力説した後の工学会会長山尾庸三の努力に負うところが大きかったといわれております。当時の日本では「未ダ我国ニ於テ為スベキ工業ナシ、学校ヲ立テ人ヲ作ルモ何ノ用ヲカ為サン」という反対が強かったということを思うとき、この百年の工業の目覚しい発展に、いまさらながら驚くとともに、この発展の源を作った人々の識見に対して、深く敬意を表するものであります。そしてこの工業教育のおかげで、それまで外国人の手に頼っていた日本の工業は、日本人の手による工業として歩みを始めたのであります。先の戦争は日本人の工業に対して大きな破壊をもたらしましたが、そのすみやかな回復と、その後の著しい発展は、それまでに日本で達成されていた工業や技術を持つ人材が養成されていたことによると思われます。ここに山尾庸三の「人ヲ作レバ」の言葉が思い出されるのであります。と述べられた。
皇太子殿下は天皇陛下となられてからの平成4年(1992年)10月23日発行のアメリカの「サイエンス」誌に、Early Cultivators
of Science in Japan の論文を載せられ、その中でも山尾庸三(後の工部卿、さらに(社)日本工学会会長を36年間勤めた)は、ロンドン大学で学び、グラスゴ−で実習生として造船術を習得した後(明治4年)工部大学校設置を建白した。その際、「たとえ今日本に工業がなくとも、もし人間を教育すれば、その人間が工業を生み出すであろう」と言った。この言葉は当時の旺盛なる気力・活力を物語るものである。と重ねて述べられた。
人を作ればその人が工業を作るという庸三の考えは、工業教育の重要性と、その基盤の上に立つ日本工業発展の展望を示したものとして明言されている。(山尾庸三傳 余録 P238 239より引用)
秋穂村塾は、山尾庸三の意思を引き継ぎ、後世に残る様、山尾庸三生家を保存し、文化の交流 国際社会に貢献出来る青少年育成の場といたします。
明治、大正、昭和、平成と世は流れていますが、もう一度原点にかえり、先人達の英知を学び、山尾庸三の生家を学びの館として、人材の育成に努めます。
勝手ではございますが、皆様方のご理解とご協力宜しくお願い申し上げます。
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平成15年 12月吉日 秋穂村塾 塾頭 児玉光氾
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申込先:秋穂村塾山口市秋穂二島8035 TEL083-984-5241 FAX083-984-5122
E-MAIL smi@c-able.ne.jp ホームページ http://www.wownets.net/yamasa/
申込方法 お手数ですが、電話・FAX・メールにてお願いします
価格:山尾庸三傳
| 1冊 |
2,500円(本体価格2,380円) |
送料 |
340円 |
振込先:山口銀行秋穂支店 秋穂村塾6065777 塾頭 児玉 光氾
郵便振替秋穂村塾児玉 光氾 01360-8-73155 |
「山尾庸三傳」
明治の工業立国の父
兼清正徳 価格2,500円(本体価格2,380円)
<<略歴>>
| 大正3年 |
山口県玖珂郡玖珂町に生まれる |
| 昭和14年 |
九州帝国大学国史科卒業 |
| 昭和41年 |
山口県文書館初代専任館長 |
| 昭和58年 |
徳島文理大学文学部教授 |
| 平成2年 |
帰郷 |
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著書「末川博 - 学問と人生」 雄渾社
その他多数
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明治史の中で山口県人の活躍には目覚しいものがあったことは周知の事実であり、木戸孝允・伊藤博文・井上馨・山県有朋・乃木希典らの政治家・軍人の伝記は人のよく知るところである。
ただ山尾庸三については未だに詳細なる伝記がない。それほどこの人の名は伊藤や井上の陰にかくれて、その功績を知る人はいない。
幸いに、平成9年(1997年)春に国立科学博物館で「ハイテクにっぽん展」が開かれて、「日本の工業の父」として庸三の胸像が飾られ、グラスゴーで使用した鋸・鉋も出品され、明治の工業立国に向けて努力した庸三の功績は次第に注目されてきた。
これを受けて、同年冬にテレビ山口(TYS)は「生きた器械になりたい-時代の先駆者山尾庸三」を自主作品として放映することがあった。
庸三の出身地である山口市の住民の1人として、庸三の伝記はどうしても出しておかなければならないと筆を執り、東京の山尾家、山口の山尾家、庸三が心血を注いで創設した工部大学校を前身とする東京大学工学部の資料を保存する東京大学史編纂室や、各地の色んな人たちから得た資料に基づいて、小冊であるが庸三伝を書くことができた。
数多くの資料を収縮して庸三の業績の概要を記したが、庸三のことをよく知らない山口市民をはじめとして、県内、あるいは全国の方々がこの明治工業の先覚者に注目していただけたら幸いである。 |
| 推薦の言葉 |
東京大学名誉教授
元社団法人日本鉱業会会長
元社団法人日本工学会会長
伊木 正二 |
昭和五十四年(1879)、日本工学会創立百周年記念式典に出席された皇太子殿下(現天皇陛下)は、そのお言葉の中で、山尾庸三が提唱した「假令、當時為スノ工業無クモ人ヲ作レバ其人工業ヲ見出スベシ」をとりあげられて、「日本の工業百年の目覚しい発展は、その源をつくった人々の識見にあることに深く敬意を表する」と述べておられる。更に天皇になられた平成四年(1992)サイエンス誌に Early
Cultivation of Science in Japan なる論文を発表され、山尾庸三の功績を称えておられる。
この山尾庸三は、天保八年(1837)周防吉敷群二島村(現山口市)に山尾忠治郎の三男として出生、二十歳にして江戸に出て、斎藤弥九郎道場に入門、塾頭桂小五郎(木戸孝允)を知る。文久三年(1863)五月、長州密出国の五人、伊藤博文、井上 馨、井上 勝、遠藤謹助と共に出国、ロンドン大学で学び、グラスゴーで見習工として技術を磨き、夜は技術の学校に通った。明治元年(1868)帰国、新政府に出仕、政府内に工部省を造ることに努力した。工部省は明治四年(1871)、工部士官養成のための工学寮を作り、明治十年(1877)には工部大学校となり、翌々年に第一回生二十三名を世に送り出した。卒業生の専門は、土木・電気・機械・造家・化学・鉱山・治金と多岐であったが、日本の工学の発展のため「工学会(現日本工学会)」発足させることになる。
明治政府は、まず近代的統一国家を目指して「殖産興業」というスローガンを掲げた。産業を起こすための今で言うインフラストラクチャの整備である。そのための重点を、鉄道、電信設備の建設と鉱山の開発に置いた。山尾庸三は明治三年(1870)から工部省の工部権大丞になり、この政策に深く係わった。
筆者の専門が鉱山学であることから山尾庸三と鉱業について触れる。鉱山政策については、
一、鉱業行政機構の設置
二、鉱業法の整備
三、鉱山の官営
四、西洋技術の吸収
などから着手し、英国の鉱業法を参考として「日本坑法」を発布した。幕府の所有していた鉱山を政府の直営とし、生野、佐渡、小坂、三池、高島、釜石などの鉱山、炭坑を官営とした。そして更に、西洋先進国(英・仏・独・米)から七十八名の鉱山・土木などの技術者を招き、日本人に技術を習得させた。また工業器械を導入し、能率向上に資した。官営鉱山は、非能率もあり、民間の力が付いて来たことから、鉱山・造船所などは次々と民営に移した。また新潟・秋田における油田開発も行った。
さらに驚くべき事は、英国留学中に、図工・大工・鍛冶などに盲唖者の多いことを教えられ、日本における盲唖教育を始めたことである。工業発展の鬼のような山尾庸三が盲唖者に対する優しい心根を持った人であることが心を打つ。
このように、明治の先達は、日本工業の発展に力を尽し、とくに鉱業の発展には絶大な努力を払われた。
この「山尾庸三傳」の出版に際し、多くの先覚者の弛まない努力により、現在の日本があることを思い、深く感謝する。 |
| 序 |
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| 推薦の言葉 |
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| 第一章 |
青春の風雲 |
(大いなる青春の夢) |
| 第二章 |
イギリス留学 |
(イギリスに学ぶ) |
| 第三章 |
日本工学の創始 |
(工業の人を創る) |
| 第四章 |
日本鉄道の開設 |
(汽笛一声) |
| 第五章 |
日本工業の揺藍 |
(工業の近代化) |
| 第六章 |
日本鉱業の揺籃 |
(鉱業の近代化) |
| 第七章 |
盲唖教育の嚆矢 |
(盲唖教育の草分け) |
| 第八章 |
明治と共に |
(明治に生きる) |
| 第九章 |
家族と知己 |
(我人とともに) |
| 第一〇章 |
余禄 |
(没後の余映) |
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年譜 |
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牽引 |
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編集後記 |
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【編集後記】
田村 幸志郎
予てから山尾家(山口市秋穂二島)と親しくさせて頂いた機縁で、私は兼清正徳氏の「山尾庸三傳」の編纂・校閲の仕事に携わる栄誉に浴することが出来た。
近代国家建設に参画した、長州藩の逸材に就いての書は既に多く世に出ている。特にいわゆる政治・軍事方面で活躍した明治の顕官達の業績は、事実以上に脚色され、喧伝されてきたきらいがある。
平成の今日に成ってようやく、近代日本の基礎である工学・実業の道に精魂を傾けた人材の発掘が、世の人々に関心が持たれるようになった。
折も折、兼清正徳氏は徳島の大学を退官後、郷里山口に帰えられ、山尾庸三に関する永年の研究成果を世に問われることに成ったのである。誠に時宜を得た快挙というべきであろう。
最初に氏の原文に接した時は、いささかたじろいだ。部厚い便箋に所狭しと、達筆な行書で文献や資料の解説が書き綴られていた。これをどのようにしたら現在の読者に判るように、読み易く書き替える方法があるのだろうかとかなり苦慮した。だが結果的には著者の意向を尊重し、原文をあまり訂正することなく、必要な資料の解説も挿入して「伝記」としての評価に耐える内容の構成にすることにした。従って当用漢字以外の文字も使い、年号の記述も本文と資料で多少不揃いの所もある。
本書を繙く多くの読者は、そこに山尾庸三の一貫した明治人の律義と、不抜の精神を読み取る事が出来ると思う。「生きた器械」と成って国家・国民に奉仕しようとする、庸三の直向きな姿を見出すことであろう。それは将に地位も名誉も求めず、己が使命に殉じようとする聖職者のような、崇高な一人の人間の生きざまを偲ぶことが出来る。
そして本書の中でしばしば取り揚げられているように「たとえ今、日本に工業がなくとも、もし人間を教育すれば、その人間が工業を生み出すであろう。」との考えを貫き、四囲の反対を押し切って、工部大学の設置を実現させた慧眼と、実行力は素晴らしいことであり、特筆に価する。
これこそ教育の原点であり、為政者の採るべき道ではなかろうか。現在の教育の荒廃を思う時、その感を一層強くするものである。
過日、私は秋穂二島の山尾敏郎氏を尋ね、山尾庸三の業績を取材した折、「山尾庸三という人は話題の少ない人であり、人間的に面白味の無い人ですよ。それに資料も少なく従って伝記類もありません。」と謙遜されて居られたが、事実はさにあらず、日本工学生みの親としての多大な業績もさることながら、誠実で端正、よく後輩の育成に腐心したその人柄は、限りなく人々を魅了する。(山尾家には先祖代々このような淳風が培われていたのであろう)
更に読者は、日本人の心の琴線に触れ、誰からも愛される歌「蛍の光」が、山尾庸三と深い関係のあることを知り、驚かれたことであろう。そしてこの歌を唄う時には、若き日の山尾庸三が、遠くイギリスのグラスゴーで日本の明日を夢みて、刻苦勉励していた頃のことを偲んで頂きたいものである。
ともあれ、この度の「山尾庸三傳」の上梓に当って、著者の兼清正徳氏の永年に亘るご苦労に対しては、当然のことであるが、故山尾敏郎氏の遺志を受け継ぎ、本書の発行にご配慮をされた山尾眞理子氏、児玉光氾氏に読者の一人として、敬意と感謝の念を捧げるものである。
更に推薦の辞を賜わりました元日本工学会々長伊木正二氏、及び山尾庸三の写真・資料の提供を頂いた山尾信一氏に対しても深甚なる謝意を表する。
題字は長野市在住の書家 佐藤大洲氏の親筆によるものである。
(筆者 山口県文化連盟会長) |
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