2013/06/18

患者の自己決定権と化学物質過敏症

あとで書くのを忘れそうなので、とりあえず場所だけ作っておく。すでに先行してhokke_ookamiさんが交通整理をされている。

ことの発端

NATROM氏の主張『化学物質過敏症は臨床環境医によってつくられた「医原病」だと思う』への批判 - Togetter

ここでのやり取りについて、オレが以下のように感想を書いたところ、NATROMさんからその根拠を求められた。

なんの話をしたいのか

医療における、患者の自己決定権。

なんの話ではないか

化学物質過敏症とはなにか
そういう話はしていません。
化学物質過敏症の原因物質はなにか
そういう話はしていません。
化学物質過敏症を有意に検出する方法
そういう話はしていません。
化学物質過敏症は心因性であるか
そういう話はしていません。
化学物質過敏症は医原病であるか
そういう話はしていません。
化学物質過敏症の存在を科学的に実証できるか
そういう話はしていません。
患者の自己診断は正しいか
そういう話はしていません。
医療者は患者の自己診断を採用すべきか
そういう話はしていません。
医療者はどう診断をくだすのが正しいか
そういう話はしていません。
NATROM先生は何を語ろうとしていたのか
そういう話はしていません。
心因性とは「気のせい」という意味では…
そういう話はしていません。
ホメオパシー…
そういう話はしていません。
ニセ科g…
そういう話はしていません。
リテr…
そういう話はしていません。

たとえばの話、化学物質過敏症の大半の原因が心因性ではなく化学物質であり、ごくまれに心因性が疑われ、そのうえ患者はこの症状の原因を心因性であろうと疑っているにもかかわらず、臨床医がこれまでの統計上から化学物質が原因なのだろうと推測した場合においても(つまり現在に考えられているのとは正反対のケースであっても)、オレの議論はまったく影響をうけない。オレが問題としているのは、化学物質過敏症をどう考えるか、ということではまったくない。

祖母の話

オレの祖母は80歳を過ぎて、かなり痴呆症が進んでいる。身体障害があり、要介護と認定されている。週に何回か、介護サービス(デイ)を受けているが、家族が車いすに乗せて送りだすだけで、本人がみずからの意志でデイに行こうと決定しているのではない。

ある朝、祖母は大きな声で訴えた。「デイには行かないからね!」体が弱っていて、ふだんはそんなに大きな声を出せない。ふつうにしゃべるのも困難なくらいなのに、この日はとなりの部屋にも聞こえるような、大きな声だった。

「なに言ってんのよ!デイの人、施設で待ってるでしょ!」と、彼女の娘がどなりつけた。母親をデイにあずけている時間だけが、1週間のなかで休息をとれる貴重な時間なのだ。この日も外出の予定を入れていた。

祖母は反論した。「あんたは、わたしがどんな辱めを受けても平気なのかえ!」

なにを言っているんだろう、意味がわからない。

「わたしがデイにいるとき、どんな思いをしているのか。あんた、分かってるのか!わかい男どもが数人がかりで、わたしの服をぬがして、体中をじろじろと見て、にやにや笑ったりしてるの!自分の母親がそんな恥ずかしい、つらい思いをしてるのに、娘のあんたは平気なのかえ!平気な顔して、あんなところへ送りとばすのかえ!」

娘は呆れて、「なにをバカなこと言う…。そんなことが…」

「あんたは知らんからそんなことが言えるのよ!じゃあ、ウソだと思うなら、あんたが行って見てきたらいい!わたしは行かない!」

ありえない。

介護施設の男性スタッフが、入浴の支援をすることはあるかもしれないし、それを祖母が恥ずかしく思うことはあるかもしれない。しかし、どこの世界に90歳にもなろうとしている老人の裸体を見て、それをうれしそうに眺めたり、喜んだりする男がいるというのか。そんな物好きなスタッフが、しかも複数もいるとはとうてい考えられない。じっさいに現場を見たわけではないにしても、99.99%、そのようなバカげた事実は存在しないとオレは確信できる。

ここで、祖母の娘(オレの叔母にあたるが)は、ひじょうに正しい発言をした。

「そんなことがあるわけないでしょ!なにをバカなこと言ってるの!お母ちゃんの裸を見て、喜ぶような男の人がいるわけない!そんなことは子どもが考えても分かる!ほらっ、デイの迎えがきた!」

けっきょく母娘は折りあうことのないまま、迎えの時間が来てしまった。

介護施設のわかわかしい男性スタッフ(たしか氷川きよしさんに似ていた)が、さわやかな笑顔で車から下りてきて「おはようございまーす!」と祖母に声をかけた。祖母はだまってふるえていた。

祖母は立つことはおろか、自力で寝返りをうつこともできない。男性スタッフはやや困惑の表情を浮かべていたように思うが、叔母が申しわけなさそうに合図を送ると、祖母をかかえて専用の車いすに移し、迎えの車まで押していった。

祖母は最後の気力をふりしぼるように、「いやだー!たすけてー!」と叫び声(ただし聞こえないほどの小さくかすれた声で)をあげながら、迎えの車に乗せられ、施設へ連れられていった。

オレは思った。これはレイプだ。

なにをすべきだったのか

オレや叔母、介護スタッフはなにをすべきだったのか。その答えは分からない。おそらく、これぞといった唯一の正解はないのだろう。

しかし、祖母がなにを訴えようとしていたのか、これについては必要充分な推測が可能だ。

彼女は、その原因がなんであるかは分からないが、デイサービスを受けることに対し、不安や恐怖を抱いているということだ。そして、それを無理強いする家族に対する失望と怒りを感じている。これは疑いようのない明らかな真実である。

介護施設の男性スタッフが数人がかりで彼女の服を脱がし、裸体を好奇の目で見る、という事実は99.99%存在しないだろう。しかし、そうされるのとほぼ同等の恥辱を受けるのではないかと恐れているのは、きわめて確かだ。

他のなんぴとが否定しようとも、彼女がそのように予感し、不安と恐怖、失望と怒りを抱いていることは動かしようのない真実であって、たとい家族であっても、いかなる事実があろうとも、それを否定することは不可能である。

にもかかわらず、叔母がやったことはどうだろうか。「そんなことがあるわけがない」と、冷たい事実を突きつけただけである。たしかに、それは事実なのだろう。しかし、それが恐怖におののく祖母にとって、どれほどの意味があっただろうか。どれほどの救いになったと言えるだろうか。

なぜオレたち家族は、祖母のかかえる真実をなかったことにして、介護サービスを強行したのだろうか。いやがって泣きさけぶ祖母を無理やり車に乗せ、施設に送りだした行為の正当性は、どこにあるのか。

少なくとも言えることは、祖母が自分の意志に反して施設へ移動させられたこと、それを正当化する口実に家族が「事実」を持ちだしたことだ。そのことは、介護スタッフを女性に替えて「事実」を強化したところで、まったく解決にはならない。

よくあるコピペ

彼女『車のエンジンがかからないの…』

俺『バッテリーかな?ライトは点く?』

彼女『昨日はちゃんと動いたんだけど…』

俺『バッテリーかどうか知りたいんだけどライトは点く?』

彼女『今日は○○まで行かなきゃならないから車を使えないと…』

俺『んでライトは点く?』

彼女『あたしはエンジンがかからないって言ってるのになんで急にバッテリーの話をするの?』

俺『エンジンがかからないのはバッテリーが…』

彼女『人の話聞いてる?バッテリーじゃなくてエンジンがかからないって言ってるの!馬鹿じゃないの?』

俺『…エンジンがかからなくて困ってるんだよねえ?』

彼女『わかってんならちゃんと人の話聞け!』

俺『…(´・ω・`)ヒドス』

フェミホイホイ -男女関係コピペ保管所-:彼女『車のエンジンがかからないの…』 - livedoor Blog(ブログ)

この笑い話はよく知られている。ここで転載したものは比較的に古いものだが、より新しいバリエーションではさらに会話の内容が詳細になっている。

この笑い話は、なにを笑っているのだろうか。

女性の思考能力の欠如、である。

一般的にはそのように考えられている。実際、この引用元のブログは副題に「狂ったフェミニズムは死ね」などとあるように、フェミニズムを呪い、女性を笑う、というスタンスで作られている。

では、この笑い話からえられる、真の教訓とはなんだろうか。

知識を自負するものは真実を見落とす、である。

この女性は、(病院なのかショッピングモールなのかは分からないが)外出しようとして車のエンジンがかからないことに気づき、男性に電話をする。そして「エンジンがかからない」と告げた。

男性は「女性はエンジントラブルの原因を知る方法も、それを直す方法も知らないのだろう」と思い、電話越しにさまざまなアドバイスをして、エンジンを直させようとしている。

バカな男だ。

この女性が、真に訴えていることはおそらく、「迎えに来てくれ」だ。

男性がなにをすべきだったかは明らかだ。女性は急いでいる。いますぐ車に飛びのって彼女の家へ行き、彼女を乗せて目的地に送ることだ。

なのに、おろかで滑稽なこの男性には、女性の言外の訴えが理解できず、なんとエンジン修理を自慢げにレクチャーするなどという恥ずべき暴挙に出たのだ!

そして、うんざりした風を装いながら、「やれやれ、これだから女は…。あいつらには論理的思考ができないんだ」と、したり顔で笑ってみせるのである。

この男性は、なぜ、この間違いを犯すはめになったのだろうか。

おそらく、自分のほうが車のことに詳しく、エンジントラブルを適切に処理できると自負していたため、自分の得意分野でこのトラブルを解決しようとした。そのために、このとんでもない失態をしでかしたのだ。エンジン修理に自信を持たない者なら、おなじ過ちは犯さなかっただろうことは疑いない。

真の化学物質過敏症

冒頭のToggeterを振りかえってみよう。

といっても、6月26日時点で運営者によって非表示にされているので、仕方ない。かれの発言をTwilog.orgでさかのぼることにする。今回の論争もどきは、6月8日に葵東さんへの説明として始まっているようだ。

かれは、化学物質過敏症とされる症状の「大半」は心因性であり、それ以外でも、化学物質でない要因で引きおこされている、と主張している。そうだよね?

そして、かれは化学物質を原因とする「真の」化学物質過敏症がありえないとは言えない、とも表明している。これも、間違いないよね?

ここで、かれの発言を引いてみよう。

なるほど。超微量のホルムアルデヒドに反応するなら、(まったく同じ条件下で)自然の木材を燃やしたときにも反応するはずだ、なぜなら木材には微量のホルムアルデヒドが含まれるのだから、という主張は分かりやすい。

ここでNATROMさんは、「真の」化学物質過敏症の反証をしているわけではない。そんな病態、そんな患者はありえないのだとは言っていない。

ところが、翌日のツイートではいきなりおかしな話になってくる。

なんだろう、これは?

NATROM先生は、「真の」過敏症を否定していなかったはずだ。にもかかわらず、ここでは「わからない」として理解を拒絶している。そのうえ「一緒にされたくないでしょ?」と、ほかの患者を抱きこんで過敏症患者から距離を取らせようとしている。

「3m先の野菜の残留農薬に反応する」患者がいたって、いいんじゃない?

「真の」化学物質過敏症の存在を否定していないのならば。

かれの本性が、次第にあらわにされていくようだ。

微量の化学物質が原因となり過敏症が引きおこされると考える医師を臨床環境医というようだが(オレは医学的なことは分からないので内容には立ちいらない。ここでは、そういうことにしておく)、かれは「臨床環境医の連中」を均しなみに「根拠なく諸症状を微量の化学物質のせいにする」との認識をしめしている。

ここで振りかえってほしいが、かれは「真の」化学物質過敏症の存在を否定していない。

オレは考えた。では、だれが化学物質過敏症と診断するのか、と。

あとで、ここに書きたしていきます。

結論めいたこと

※ ただし結論ではない。この記事が主題としているのは、患者の自己決定権についてであり、すなわち以下は余談である。

ニセ科学は、その名のとおり科学の装いをまとう。

ときには、ニセ科学を批判するつもりで、つまり当人は科学に立脚しているつもりで、じつはニセ科学に足をからめとられていることがあるかもしれない。

ニセ科学であるかいなかは、個別の論点に対する賛否によって決まるのではない。科学とは「考えかた」の問題であるから、考えかたが間違っていれば、たとい結論が合っていても、それは科学とは言えない。

たとえば――。

「太陽は東から昇る」という説明は正しい。「太陽が地球の周りを回るのではなく、地球が太陽の周りを回る」という説明も正しい。しかしその2つを同時に主張することはできない。なぜなら、「太陽は東から昇る」とするのは、天動説とおなじ視点に立った説明であり、地動説の立場では、太陽は東から「昇らない」はずだからだ。矛盾している。

にもかかわらず、多くのひとがこの説明を科学的だと感じるのは、なぜか?

たんなる思いこみである。教科書にそう書いてあったから、それが科学的に正しいのだろう、と信じているだけで、みずからの理性をもって証明を立てたものではない。科学的な権威者の言うことだから、と鵜呑みにする態度こそ「非科学的」とは言えないだろうか。

5 件のコメント:

  1. NATROMさんの考えは、化学物質過敏症のほとんどは心因性で、ストレスその他の別の原因で発症しており、化学物質過敏症は医師がお金になるので放置してる、患者が悪質な医師の食い物にされていて苦しんでおり、本当に治療するための邪魔になっていると考えている。

    対して、化学物質過敏症の患者は、私の病気も嘘だと言うのかと反発し、化学物質過敏症のほとんどは心因性というと、私のように本当に化学物質過敏症の患者は適切な治療が受けられず、苦しむ人が増えることになると考えている。

    どちらも、相手の考えが世に広まれば適切な治療が受けられない患者が増えて、苦労したり苦しむ人が増える、故に相手の主張に反対して、支持を減らさなければならないと考えている。

    ところで、"その話はしていない"を何度も書いていますが、そもそも話題を選ぶ権利はyunishioさんにあるのか、NATROMさんにあるのかが問題です。

    対話の構造はNATROMさんがyunishioさんに質問する形で始まっています。

    「患者の訴えに耳を貸さず「トンデモ」呼ばわりするのは、臨床医としての誠実さを疑われる」というのは、私もその通りだと思います。患者の訴えに耳を貸さないというのは、具体的にどの部分でそうお感じになりましかた?

    ですから、yunishioさんは話題を決める立場にない。周囲が認定する話題は「NATROMさんが具体的にどの部分で患者の訴えに耳を貸さず「トンデモ」呼ばわりしたか?」です。NATROMさんは相手が自分の発言のどこを指摘しているのか知るために例を挙げただけです。だからyunishioさんが「それは自分のしたい話題ではない」と言っても、読んでいた人はyunishioさんは逃げているとしか認定しないのです。

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    1. いまは論点のすり合わせすらできていない段階ですので、複数の話題を持ちこんで論点を分散させることは避けたいと思います。

      このエントリは、NATROM先生の問い「患者の訴えに耳を貸さないというのは、具体的にどの部分でそうお感じになりましかた?」に答えるために書いています。かれがここで問うているのは、オレがそのように考える根拠です。ですから、「yunishioは化学物質過敏症のミカタなのか」などと言われても、「それはオレの論点ではない」としか答えようがありません。

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    2. 「具体的にどの部分」と問われたら、具体的にNATROMさんのtwitterから発言を引用する必要があると思います。

      「yunishioは化学物質過敏症のミカタなのか」

      これは私も全く興味がありません。

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    3. そのために地ならし、論点整理をする必要があるんですよ。

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  2. もちろん私は第三者に過ぎないのですから、あくまでも論点整理に協力するつもりでコメントしています。ですら論点整理に必要と思うことのみを書きました。ですからわかりきったことも反復してるかもしれませんがご了承願います。

    確認したいのですが、nishioさんは、NATROMさんや地下猫さんが共有しているであろう以下の考えについては認識していますでしょうか?

    医師と患者が診療室で対話するときは、観客なしの一対一ですが、ネット上で議論するときは無数のギャラリーに公開された場ですから、同じような応対は、やりたくてもできません。なぜなら公開されたネット上で相手によって発言を変えると、嘘つきあるいは不公平として信頼を失ってしまうからです。ネットでは誰に対しても同じように発言することが要求されます。NATROMさんは医師が患者に対するように相手に合わせて発言することはできないわけです。

    すなわち、ネット上では対等で無徴な人間として会話すべき、という考え方ですね。これをどうみるか。

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