2000年3月5日(日) 東奥日報 連載




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  −検証・むつ小川原−


第3部・引き返した構想 

■ 幻の構想(鹿児島) −再処理工場「離島に」(2000.3.5)

写真 再処理工場の候補地だった鹿児島県・馬毛島。昨年1月には使用済み核燃料の中間貯蔵施設立地の話が持ち上がり波紋を広げている(南日本新聞社提供)
 貧乏県からの脱出を目指した「志布志湾開発」を構想した金丸三郎・元鹿児島県知事(87)が、同開発とは別に、「所得も増えるし財政も豊かになる。私が知事だったら、県議会を説得してでもやったと思う」と話す“幻の開発構想”があった。

 「九州電力副社長だった後藤清君(平成元年死去)が日本原燃サービスという会社の社長になって間もなく、参院議員会館の僕の部屋を訪れ、『僕はこういう役を引き受けたんです。鹿児島県の馬毛島(まげしま)か、奄美諸島の加計呂麻島(かけろまじま)に造りたい。どっちでもいいんだ』と。そして『一兆円の投資をする』という。そのころの一兆円ですよ」

 日本初の民間再処理工場立地の打診だった。日本原燃(本社青森市)の前身である日本原燃サービス(本社東京)は、電力業界が昭和五十五年三月に設立した。初代社長には九州電力の後藤副社長、会長には東京電力出身の正親(おおぎ)見一・電事連副会長が就任していた。

 馬毛島は、鹿児島市から百十五キロ南下した種子島の沖合十二キロに浮かぶ無人島。かつては種子島の漁師の漁労小屋が設けられ、牧場もあったという。昨年一月には使用済み核燃料中間貯蔵施設立地の話が持ち上がり、反対派組織ができるなど種子島住民に波紋を広げている。

 一方、加計呂麻島は、鹿児島市から四百五十キロ南下した奄美大島の南に位置しており、約千八百人が住む。奄美大島と加計呂麻島の間の大島海峡は水深が深い上に波が穏やかで、戦時中は連合艦隊が停泊する要港だったという。

写真 乗り気だった知事

 金丸元知事にとって後藤社長は旧制七高(現鹿児島大学)の後輩ということもあり、非常に親しい仲だった。
 代替エネルギーができるまでは原発もやむなし−というのが金丸元知事の基本的な考え方。九州電力の依頼を受けて川内原発を受け入れた金丸元知事は、再処理工場の立地にも乗り気だった。

 「馬毛島は無人島だから一番の適地。こちらでいいということになれば、後藤君は馬毛島に決めたかったように思う。無人で平坦地だから、飛行場も四千メートルの滑走路が取れる。奄美大島だって、一兆円の投資ということになれば助かりますよ。相当な高学歴の人が集まるし、『病院も造ります。会社の船に住民も乗せてあげます』ということだったから」

 しかし、当時の金丸元知事は参院議員に転身し、鎌田要人知事(現自民党参院議員)に交代していた。鎌田知事は金丸元知事の後継者だったとはいえ、「原子力についての考えが私と一八〇度違っていた」(金丸元知事)という。

ますます北へ比重

 「鎌田知事も七高出身で、後藤君より後輩だ。それなのに後藤君が面会を申し込んでも会わないんですよ。それであの温厚な後藤君も怒って、『同じ七高の先輩後輩じゃないか。会いもしないで、話をひと言も聞きもしないで失礼千万だ』と言って怒ったが、鎌田君は頑として態度を変えない。それで青森の方へ決めたんだと私は思っている」と金丸元知事。

 電力業界は日本原燃サービスという再処理工場の事業主体は立ち上げたものの、早々から立地場所の確保という難局に直面することになる。
 当時、電事連会長を務めていた平岩外四・東京電力相談役(85)は当時の状況をこう回想する。

 「再処理工場(の候補地)というものが非常に北側に偏っていた。だから、電事連全体の計画ですよ、ということを実感してもらうために後藤さんを(日本原燃サービスの社長に)持ってきた。あの人は九州電力の非常に有力な社長候補だったし、われわれは非常に優秀な人材だと思っていたが、再処理工場の社長としては、なかなかやりづらかったような感じを端から見ていても思った」

 再処理工場立地の水面下の打診を鹿児島県に拒否された電力業界は、ますます北に比重を移していく。

=第3部終わり=



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