弘前建築散歩
建築の町、弘前
弘前には明治・大正期の洋風建築が数多く残っている。私が見学したある建物の管理人さんは、「東京の大学の建築科の学生さんが、『一度弘前に行って建物を見てこ
い』と先生に言われて、よく見学に来る」と自慢そうに話していた。
古い建築がたくさん残っている理由はふたつある。ひとつは、弘前が歩んだ「学
都」と「軍都」という歴史のせいである。弘前では、早くも明治6年に「東奥義塾」
が開学し、英語教育のためにアメリカ人教師を招聘している。このアメリカ人教師の
影響で、キリスト教禁教が解かれてわずか2年後にすでに受洗する義塾生が現れた。
明治8年に布教のために弘前公会が設立され、明治19年にはキリスト教に基づく教
育機関である来徳(ライト)女学校(現弘前学院)が開校している。これらの施設は、競
うように自前の洋風建築を建てた。
次は「軍都」としての弘前であるが、明治29年に第八師団本部が弘前に置かれた。
これにより、師団司令部・偕行社などの洋風建築が誕生することになる。
このように弘前に生まれた建築群は、第二次世界大戦でこの町が空襲を受けなかっ
たという理由により、今に伝えられることになった。私が乗ったタクシーの運転手さ
んは、子供のころに目撃した青森空襲がいかにすさまじかったかを語っていた。夜な
のに北の空が真っ赤だったそうだ。青森は空襲で壊滅したが、弘前には爆弾が落ちな
かった。地元でささやかれているその理由に、弘前には明治以来アメリカ人宣教師が
多く住み、そのなかで帰米した人が、時の大統領に弘前を爆撃しないように直訴し、
この訴えが容れられたからだというのがある。真偽のほどは定かではないが、何人か
の人から同じ話を聞いたから、地元では広く信じられているのだろう。
こうして、魅力溢れる洋風建築が数多く残る弘前が、私たちのもとに残されることになった。理由はともあれ、この幸運に感謝しなくてはならない。弘前市も洋風建築についてのホームページを開設しているので、覗いてみるとよいだろう。
弘前は明治・大正期の洋風建築だけでなく、現代建築にも見るぺきものが多いようだ。まず前川國男(1905-1986)の作品がいちばんまとまって見られる町らしい。前川國男といえば、あのLe
Corbusierの高弟で、上野公園内の東京文化会館の設計者である。以前駿河台にあった東京日仏会館も前川國男の設計だったと記憶する。前川國男は弘前と何か特別なつながりがあったのだろうか。
それから、市内中心部にある蓬莱橋のたもとの奇抜な外観の百貨店は、なんと毛綱
毅曠(もづなきこう
1941-2002)の設計だという。弘前に行った当時、このことを知っていれば、もっとよく見て来るのだったと悔やまれる。毛綱毅曠は出身地の釧路を中心に活躍した異色の建築家である。『芸術新潮』1994年1月号の「びっくり仰天建築の旅」は毛綱節が炸裂するおもしろい読み物だが、あらためて毛綱が「特異なコスモロジー」に惹かれ続けた建築家であることがわかる。惜しくも最近亡くなった。それにしても、毛綱毅曠に百貨店の設計を依頼するとは、太っ腹な経営者である。
日本聖公会弘前昇天教会聖堂 (1920年/大正9年)
煉瓦作り平屋建ての、小振りなゴシック様式の教会堂で、東北の大地に蹲るように根付いている感がある。設計はJ.M.ガーディナー(1857-1925/大正14)、施工は棟梁の林緑。ガーディナーと言えば、弱冠23歳の若さで来日し、立教学校(後の立教大学)の校長を務めた建築家である。こういう人を「ミッション・アーキテクチャー」と呼ぶ。


この教会は1920年の竣工だから、ガーディナー晩年の作品ということになる。彼の作品の多くは関東大震災で壊れてしまい、現存するものは少ない。そのなかに、現在明治村に移築保存されている聖ヨハネ教会堂(重要文化財、1908年/明治40年)がある。この教会は、移築される前は京都の河原町三条にあり、俗に三条教会と呼ばれていた。ちなみに司教座聖堂(カテドラル)である。私は高校・大学時代、毎週日曜の朝になると、聖歌を歌いにこの教会に通っていたので、とてもなつかしい。
そのほかに京都にあるガーディナーの建築としては、平安女学院の礼拝堂である日本聖公会聖アグネス教会(1898年/明治31年)、丸山公園のなかにあるタバコ王村井吉兵衛の別荘長楽館(1909年/明治42年)などがある。ガーディナーについてもっと知りたい人はこちらのページへどうぞ。
さて、弘前昇天教会である。外見はゴシックといっても、大陸のそれではなくイギリスを経由したアメリカ式とでも言うのだろうか、どことなく田舎の教会という風情があり、親しみやすい。正面右に鐘楼があり左右の均衡を欠いている。雪国らしく、教会の中へは靴を脱いであがるようになっている。板張りの床に襖と欄間があり、内部の衣装は和洋折衷である。壁のなかほどまでは鏡板、なかほどから上は白壁になっており、内陣の天井のむき出しの木造トラス構造が美しい。私が訪れたのは夕方だったが、地元の女子高校生が当番なのか数人掃除に来ていた。
夕方の淡い光が射し込む人気のない教会のなかにひとりで座っていると、何とも言えず幸福な気分になってくる。地元に根付いて、地域の信者にていねいに手入れされ使われている建築もまた幸せである。
一戸時計店時計台 (1889年/明治30年)
市内の目抜き通りの土手町通りにある。
2階建ての古い日本家屋の時計屋さんなのだが、その屋根に
日本家屋にそぐわないとんがり屋根の時計塔が乗っている。
そのいかにもメルヘンチックな雰囲気が、東北の文化都市の
当時のハイカラな雰囲気を感じさせる。
青森銀行記念館
(旧第五十九銀行) (1904年/明治39年 重要文化財)
設計施工は堀江佐吉。ここで、弘前のみならず、明治時代の東北の建築に大きな足跡を残した堀江佐吉(1845-1908)について、一言触れておかないわけにはいかない。堀江は東北に洋風建築を根付かせた第一人者で、のちに大工組合の初代会頭も務め、息子たちも棟梁として活躍し、堀江組800人と呼ばれた一大勢力を誇った大工の棟梁である。太宰治の生家の津島家住宅(現斜陽館)を建てたことでも知られており、市内の最勝寺に高さ7mもある記念碑が建立されている。堀江佐吉の経歴については、東奥日報に連載された「青森20世紀の群像」が詳しい。
初田亨『職人たちの西洋建築』(講談社選書メチエ)にも詳しく論じられているように、明治時代に見よう見まねで西洋建築を立て始めたのは、それまで和風建築しか建てたことのない大工たちであった。日本人建築家が本格的洋風建築を建て始めるのは、東京帝国大学の造家学科教授として来日した「お雇い外人」ジョサイア・コンドルの教え子一期生の世代からである。そのナンバーワンであった辰野金吾がイギリス留学から帰朝して、師コンドルの後を襲い造家学科教授に就任した1884年(明治25年)あたりからと考えてよい。それまでの洋風建築は、お雇い外人建築家の作品か、それらの建築の施工を請け負い、見よう見まねで技術を身につけた大工の棟梁の手になるものである。堀江佐吉もその例に漏れない。祖父の代からの藩主お抱え城大工の家に生まれ、函館の開拓使の工事に参加して、洋風建築の技術を習得したと言われている。
さて青森銀行記念館である。堀江佐吉がそれまでに習得した技術を集大成した傑作とされている。外観はルネッサンス風の二階建てで、堂々とした造りである。銀行なので、防火のための配慮が随所に施してある。外壁は木造ながら、その表面に瓦を敷き詰めた「張り瓦」工法で、そのまた上に漆喰を4.5cmの厚さに塗り固めてあるという。これではまるで「洋風土蔵造り」である。内部の造作も銀行らしく重厚で、とくに何度も折れ曲がりながら二階に続く木の階段は必見。記念館でもらったパンフレットによれば、天井を飾る「金唐革紙」という金襴緞子のような豪華な壁紙は、現在ではここと日本郵船小樽支店の建物にしか残っていないという。
旧東奥義塾外人教師館 (1901年/明治34年
県重宝)

藩校の稽古館が維新により東奥義塾と改称し、招聘したアメリカ人宣教師のために建てられた住宅である。もとの場所から市の中心部の地区に移築。煉瓦積みの基礎、木造下見板張りの二階建て住宅。いかにもアメリカ開拓時代を思わせる住宅建築である。内部は当時の調度食器などを並べて、公開されている。
旧弘前市立図書館
(1909年/明治39年、県重宝)
旧東奥義塾外人教師館のすぐ横に、旧弘前市立図書館
がある。たまたま私が訪れたときは、修復工事のため工事用の幕がすっぽりと張り巡らされ、写真をとることができなかった。先にあげた弘前市のホームページか、こちらを見ていただきたい。設計施工は堀江佐吉。木造三階建てルネッサンス様式で、何といっても八角形の左右ふたつの塔が印象的である。昭和6年まで図書館として利用され、そのあと払い下げられて下宿屋や喫茶店になり、転々としたようだが、平成2年に現在の場所に移築された。現在では市立郷土文学館として使われている。展示されている同人誌を見ていると、津軽が昔から文芸の盛んな土地柄であったことがわかる。太宰や寺山修司を生む風土はここにあったわけだ。
旧青森銀行津軽支店
(1875年/明治16年)
もともと呉服屋として建てられ、大正5年に津軽銀行に譲渡されたもの。青森銀行と合併して、青森銀行津軽支店となる。二階建て土蔵作りは、やはり防火を考えてのことだろう。弘前で宿泊していたホテルのすぐ近くにあり、よさそうな菓子屋でリンゴのお菓子を買って、店を出た目の前にあったので、思わず写真を撮り、あとからその素性を知った。ただし、すでに鎖がめぐらしてあり、現在は使用されていない模様。建物はこのあとどうなるのだろうと考えずにはいられない。
民家の屋根
私は知らない町に行くと、とにかく歩く。今回も弘前に4日間いてずいぶん歩いた。歩き回るといろいろなことが見えてくる。電話ボックスが高さ30cmくらいのコンクリートの基礎の上に置いてあるのを見たときは驚いた。雪が積もってもドアがあくようにとの工夫である。
民家の屋根にも工夫がある。瓦屋根が少なく、ほとんどがトタン屋根なのは、瓦だと雪が積もったときに重くなりすぎて、屋根が落ちるからである。しかし、よくわからなかったのは、写真のように屋根の先端に尖塔のような飾りが左右にふたつ付けてあることである。伝統的な日本家屋の意匠とはちがうようだ。どこに起源があるのだろう。

もう一枚の写真はある民家の玄関であるが、雪よけの深い玄関庇はわかるとして、それを支える二本の柱のご大層なのにも驚いた。まさかこれくらいの柱でないと、雪の重みを支えられないというわけでもなかろう。
こういうささやかな謎を見つけるのは楽しい。
藤田記念館庭園の洋館


当市出身の実業家で、日本商工会議所初代会頭の藤田謙一氏の邸宅跡。起伏のある地形を利用した雄大な日本式庭園があり、その一角に洋館が建っている。赤いとんがり屋根の塔、瓦を敷き詰めた折り返しのある屋根は、どことなくドイツ風で表現主義建築の匂いがするのだが、もらった資料には設計者が誰なのかも竣工年も記載がない。別の資料では1920年(大正9年)竣工とある。
京都の鴨川にかかる丸太町橋のほとりに、旧京都中央電話局上京分局(吉田鉄郎設計、1923年/大正12年)があるが、あの屋根の折り返しとよく似ているのである。年代的にはほぼ同時期であり、よく似た香りがするのは偶然ではないのかもしれない。
内部には美しいステンドグラスや照明器具がそのまま残されており、一部は喫茶店になっている。
弘前女子厚生学院記念館 (旧偕行社
1907年/明治40年)

堀江佐吉の最後の作品である。この地は藩政時代「九十九森」(つくももりと読むのだろう)と呼ばれた殿様のお狩り場だったという。1897年(明治29年)に弘前に第八師団が設置され、陸軍の将校クラブである偕行社として建設された。ちなみに海軍の将校クラブは水行社という。
実はこの建物の写真を撮るのは非常に難しい。建物は木造平屋建て、一部二階建てのルネッサンス様式である。ルネッサンス様式というと、ふつう建物正面から左右に鳥の翼のように翼廊が拡がっているのが特徴である。ところがここは建設前には料亭として使われていた日本庭園と深い森があり、堀江佐吉はこの建物を森に隠れるようにして建てた。だから写真に写っているのは建物正面のみで、その左右に拡がっている長い翼廊は、木に隠れて見えないのである。そのかわり、裏に回ると翼廊部分の美しい木組みを一望することができる。
この建物は敷地ともに、戦後になって弘前女子厚生学院に払い下げられた。ここは保母さんの養成学校である。だからしばらくは校舎と幼稚園として使われていた。今では記念館となっているが、私が見学したときにも、往時には陸軍将校と貴婦人がしとやかに踊っていたであろう大広間を、元気のいい幼稚園児が走り回っていた。
見学を申し込むと、いかにも津軽人という感じの朴訥な管理人さんが案内してくれる。その話ではこの建物は映画やTVロケにずいぶん登場したようだ。NHKの朝の連続ドラマの「おはなはん」(樫山文枝主演)や、映画「八甲田山」(高倉健主演)で使われたと聞いた。
旧官立弘前高等学校外人教師館
(現弘前大学職員宿舎, 1923年/大正12年)
旧偕行社の建物を探している途中で見つけたもの。いかに
も古そうな木造建築で、三角形のペディメントのある
玄関がただものではないと思って写真に撮った。よく
似た建物がもう一軒となりにあり、同時期に二軒ペア
で建てられたものではないかと思う。のちに弘前教育
委員会編の『ひろさきの洋風建築』で素性が判明した
が、設計が誰かまではわからない。
町の建築
弘前の町を歩いていると、随所に古い建築が見つかる。写真の一枚目はおそらく商店であろう、土蔵作りの立派な建物。二枚目は看板から保育園として使われていることがわかるが、竣工当時はたぶん別の用途に使われていて、ずいぶんモダンな建物だったろう。中折れのある屋根が特徴的である。

弘前学院外人宣教師館
(1906年/明治39年、重要文化財)
明治19年に弘前公会内に設立された来徳(ライト)女学校が前身である。同校の設立に深く関わったメソジスト派女子宣教師のために建てられたもの。もとは市内中心部にあったが、学校の移転とともに現在地に移築されている。設計は桜庭駒五郎。桜庭駒五郎はこの他にも、日本基督教教団弘前教会(1907年/明治40年、県重宝)を設計した棟梁である。この教会も見たのだが、すでに日暮れで写真が撮れなかった。市のホームページを見ていただきたい。東北地方で最初に建てられた本格的な教会だという。パリのノートルダム寺院のような、双塔の堂々たるゴシック様式の教会である。
外人宣教師館は、木造下見板張り二階建で、一角に六角形の張り出しとトンガリ屋根を持つ。上げ下げ窓の周囲の木枠の濃い色がアクセントになっている。外見は洋風だが、中に入ると二階に縁側がある和洋折衷である。現在でも弘前学院の事務部として使用されている。メルヘンチックな外観は、弘前学院のシンボル的存在として、大学のホームページでも使われている。
弘前の煉瓦建築
明治・大正期の建築には、煉瓦を使ったものが多い。大工の棟梁たちの擬洋風建築は、慣れ親しんだ素材の木造であり、煉瓦造りのものはない。煉瓦を愛用したのは、来日した外国人建築家たちである。
その後、洋風建築が日本に根付くと、煉瓦は広く用いられるようになった。写真は弘前大学の近くにあった煉瓦造りの巨大な倉庫である。昔は弘前の町にもこのような建物がたくさんあったと推測される。
土淵川にかかる黄昏橋を渡ったあたりの低地に、巨大な煉瓦建築群があった。もう今では使われていないらしく、看板もなにもなく、素性を確認することはできなかった。日暮れで写真も撮れなかったのが残念である。