おじさんの設定あきた
ひとまずカネ貯めたいなら最高の環境だろう。
結婚も難なくできるだろうし、人間関係も良好だったら何も言う事ないでしょう。
逆に聞くけど、例えば都会に住んで何がしたいのか。
あるメーカ(A社)に行きたかったんだけど、求人が学校に来てなかったのでA社完全子会社に就職した。
実家から600キロ以上離れた場所での勤務もあったけど本社は新幹線の止まる政令指定都市にあり、希望した業種だし、そこまで気にしてなかった。
教育を終えて配属になるときに政令指定都市ではなく、そこから電車で2時間かかる田舎の事業所に配属になった。
山奥の盆地にある小さい田舎町で最寄のまともな市街地(といっても、イオン、ツタヤがあるレベル)まで車で1時間以上かかる。
日々の買い物でも車を持っていないと本当に生活できないレベル。
就職する前はゲーセン行ったり、映画をよく見に行っていたんだけど映画館まで車で1時間半、ゲーセンまでは2時間かかるので以前より行く回数が減った。
書店は小さいのが町に2件あるけど一昔前にベストセラーとして流行った本が未だに山積みにされて置かれているし、品揃えも悪い。専門書に至ってはほとんど置いてない。
地方から出てきて知り合いも全くいないし何より会社の人と話題が合わない。
酒・タバコ・パチンコ・車が話題のほとんどで酒も弱くタバコも吸わない、パチンコもやらない俺は車ぐらいでしか話が合わない。
唯一話題の合う車の話でも俺はそんなに外装を弄りたくないのに車高を落とせだのDQN仕様にするように煽られたりして結局趣味は合わない。
仕事も交代勤務でもともと体力のあるほうじゃなかった俺には結構辛い。
希望していた業種とはいえやっぱり子会社ってこともあってやりたかった内容とは結構かけ離れてる。
給与も親会社と比べたら年収100万以上の差があるし自分の手取りは残業月30時間で寮費やら引かれて15万ちょっと。
車の維持費(ローン、保険、ガソリン代)やらで手元に残るのは10万切るくらい。
そんな感じで、このまま田舎で鬱屈した生活を送っていくのも嫌だし転職を考えてる。
でも、スキルがあるわけじゃないし、資格も大したのを持ってるわけじゃない。
あと仕事についても今は半人前で仕事を先輩から教わりながらやってる。指導してくれる先輩からは善くして貰えてるし、辞めることで迷惑をかけるんじゃないかとか考えると
いまいち踏ん切りがつかない。
いわゆるラノベ語りやらなんやらをやりたがる人は、なんとか自己主張したいけど
小難しいことを言うだけの知識も技量もないから、売上やら批評ごっこを材料に承認欲を満たしてるだけのゴミ。
そういう自意識の固まり人間が作品の内容、いわゆる「○○ちゃんかわいい」みたいなことを言えるかっていうと言えるわけない。
だから。
元来学業において適用されていた偏差値の概念を主観の多々入り交じる顔面の美醜という対象において摘要した点で顔面偏差値という素晴らしい概念は誠に高く評価できるものである。
偏差値とは統計的概念であり母集団の分布における統計値(確率変数の値)の高低を示すものであり、50を平均値とし10を標準偏差として算出される。
つまり60なら高め、70ならかなり高い、80ならレアアイテム、90なら激レアとまあこんな調子である。
顔面偏差値はあくまで主観的なものであるがアンケートの実施(統計調査)をすれば、客観的に扱えるようにはなる。それが美醜を客観的に正しく表しているいう意味ではなく、あくまで扱いが客観的になるだけであるが。
たとえば心理統計によくある「非常にそう思う、そう思う、どちらでもない、そう思わない、全くそう思わない」のような五段階評価を「この人が美人・イケメンだと思いますか?」という質問に対して回答させれば良いのであるから実に簡単な話である。
この方法を駆使すれば顔面偏差値と同様にさまざまなパラメータを個人に与えることもできるだろう。
また、わざわざ大がかりな統計調査を実施しなくても、人々から受けた評価をその都度反映させていくことも可能である。例えば、他人からうけた扱いや評価を主観的に5段階評価して、統計処理を行うだけのことであるから何も難しいことはない。
こうしてさまざまなパラメータが客観的に扱えるようになることそのものが実は非常に有益なことなのである。これは我らがmankogaiも再三言っていることであるが数値化しなさいと。
なんでも数値化しなさい。数値化の精度(例えば美人度70と評価したことが客観的に正しいのかといったこと)は多少ファジーであれど数値化すること自体に意味があると。そういうことを言っている人は数多い。
フェルミ推定が重視されているのもそうしたバックグラウンドがある。当のグーグルの起業家がフェルミ的な思考法を常としたことで大成功を収めたのは言うまでもない。
なのだから、常識で考えて数値化は非常に有益というのが我々の最終結論である。
数値化のいま1つのメリットは数値の変化に敏感になることである。体重を毎日量っている人は例えば体重に敏感だから食事に気をつけようという意識が違ってきますもの。
また1つのメリットは数値の上下を支配する従属変数が見えてくることでもある。bという変数が従属変数とし、a1, a2, a3, a4, ... , a10といった独立変数がbに影響しているか確認したい。
統計処理にかければこんなものは一発である。どれとどれが相関が強いのか。scilabなどで線形システムを仮定して検証するのが一般的であろう。
シストレをやっている知人がよくそんなことをやっていた。彼が言うには顔面偏差値という偉大な発明をなぜ他の人物パラメータにも摘要しないのかと。まったく同感である。
仮に同年代の女性と既婚だったとしても性欲の対象は常に若い女性で
四十路になったら夫婦間はSEXレスで、内心では他所の若い女性を虎視眈々と狙っているでおk?
スペックだけ見て?
ふーん。
どうして欲しいしか言わないで変わる努力、合わせる努力をしない嫁に対して旦那も相当なストレス貯めてるよ。
別れてあげなよ。
世間とか引き合いに出して、人にわがまま聞いてもらいたいだけじゃん。
なんで旦那というだけで人のわがままを聞く努力しないといけなんだよ。
そんなもん人に求めんなよ。お前は王女様か?お姫様か?客か?金払ってんのか?
あれだろ、お前自身は旦那に何かしてやってるつもりなんだろ?
見返り求めんなよ。見返りを前提とした善意ほど薄汚いもんはないぞ。
梅佳代展行って
スッゲェいい絵ばっかだったの。
なんやかんや言っても一番重要なんはセンスと気を逃さない目敏さ、
それに被写体とのコミュニケーション能力よ。
知り合って間もない男同士で集まり、飲んだりすると、通過儀礼のように「初体験はいつで、体験人数は何人」というような話題になる。
なんねーよw
他の人も書いてたが、動機がなければそうなるわな。
あなた、何だかんだ言って一応単位は取って就活にまで漕ぎ付けたんでしょう?
仕事もそういうものだよ。常に理想が実現できるとは限らないけど、せざるをえない環境に身を置いてたら、後から気付けば曲りなりにもできるようになっているものだ。
あとWeb系でも数学や計算は要るし、組込みなどの低レイヤでも基本を押さえればやってけるよ。
母「ずっと昔から『遺産の類いは一切残さないようにしたい』と常日頃から言ってたし」
私「でも、1000万だよ?1000万。10万100万だったら兎も角」
母「(本来なら半分貰える立場だが)遺産放棄の手続きは嫁いだときに済ませてるし別に」
私「某所だったら『父には「お前らには金はやらん」と言われているようでつらいです。私たちの事が嫌いだったのでしょうか?皆様の意見を伺いたいと思います』みたいなパターンになる案件だと思うけど」
母「昔から自分の好きなようにしたいように生きている人だから、最後までお父さんの好きなようにさせてあげればいい」
母「それに『1年前にあの世に旅立った、60余年連れ添ってくれた妻への感謝と供養の気持ちを込めて』なんて言われたら親類縁者一同誰も反対できるわけがない」
私「…」
そういう考えの母が、だったら何故ジャンボ宝くじを毎回購入しているのか、私はその場で尋ねればよかったのか。単に「それはそれ。これはこれ」で済む話だったのかもしれない。
20代の童貞には童貞的でない童貞も紛れてるけど、40代ともなると残ってる童貞にはあまりにも童貞的な童貞、童貞臭さが濃縮されたような童貞ばかりで本当に気持ち悪い。
バスに乗った。一律で 200 円、先払いの路線。
乗るとき、ピッてしたら、『ご利用ありがとうございます、すみませんお客様、もっと軽くタッチしていただけますか、触れるか触れないか程度でだいじょうぶですので』って言われた。
後続のお客さんにも『ご利用ありがとうございます』って全員に声かけていた。
空席があったけど立っていたら、『お立ちのお客様、席空いておりますのでお座りいただいてもけっこうですよ』と言われた。
信号で停車するたびに運転手さんは『停車いたします、ご注意ください』と言う。青信号になって動き出すたびに『発車いたします、ご注意ください』と言う。右折や左折をする場合は『右に(左に)曲がります、ご注意ください』と言う。
自動音声で『次は○○、○○』と流した後に、自分の声でマイクを通じて『次は○○、○○です』と言い直す。
停留所が近づいて誰もボタンを押さないと、『○○お降りのお客様いらっしゃいませんか、○○通過いたします』と言う。
停留所が近づいて誰かがボタンを押すと、自動音声の『次、止まります』のあとに自分で『かしこまりました、○○停車いたします』と言う。
停留所で停車するまでに、おなじみの『停車いたします、ご注意ください』から始まり、『○○到着です、ドア開きます、ご注意ください』と続き、『ご利用ありがとうございました、おつかれさまでした、お気をつけてお帰りくださいませ』と決め、最後に『ドア閉まります、ご注意ください』『発車いたします、ご注意ください』を言ってから動き出す。
正直、うるさい。
しかも若干『やさしい声』を意識したふわっとした喋り方なのが余計うるさい。
これはサービスなのか。親切心なのか。運転手さんの『顧客満足度向上への取り組み』のひとつなのか。何のための自動音声なのか。
ほかの運転手さんはこんなにしゃべらなくて "快適" だった。この運転手さんならではの工夫なんだろうけど
こっちは 200 円しか払っていない。200 円は単に『A 地点から B 地点に楽に移動する料金』としか思っていない。運転手さんも 200 円分のサービスをしてくれさえすればいい。サービスの対価としての 200 円なんだから、その金額を上回る価値は提供してくれなくていい。
対価以上の適度な "付加価値" は競争力の源泉としてときには必要だけど、それは例えば車内の空調とか椅子の座り心地とか、そういうところで着けてくれればいい。過剰な "付加価値" は、提供者側の首を絞める。
増田同様、私も理屈と技法で写真を撮りたいと思う人間だけど、他人が何していようと関係ないね。
自分でも書いているじゃん。
放っておけよ。笑っておけばいい。
失敗写真について、感性で撮るその人がカメラのせいにしていたら、良い気分はしないけれど。
写真というか芸術全般に感性やセンスが必要という風潮は、学校教育が由来のひとつになっている気がする。
「好きに描いていい」「自由に作文しなさい」
この手のわからない指導。彼ら教員は仕事をしていないのだ、と卒業してから気が付いた。
なにごとも知識と理解と技法とで成り立つ。写真も例外ではない。
それを教えないのは、教育になっていないということだ。