■初出馬で負けに驚き
72年のドラマ「木枯し紋次郎」で俳優として世に知られ、84年から92年まで情報番組の硬派キャスターとして鳴らした中村敦夫(64)は95年7月、新党さきがけ公認候補として、参議院東京選挙区から出馬した。
センセイになりたかったわけではない。キャスターとして世界各地を取材し、ものを調べ、考えるなかで、筋の通らない政治家たちや明治以来の「官」主導の国家のあり方に憤りを感じていた。自民党を飛び出した武村正義らが結成した新党さきがけは行革、環境、平和を唱えており、その考え方に共鳴した。彼らは本物だと思った。「この人たちとならやっていける」
一方のさきがけは連立政権で与党の中にあったものの、往時の勢いに衰えが見え始めていた。中村の知名度に賭けたいという思惑もあった。
選対本部長は菅直人だった。選挙事務の多くを党に任せて街頭に立った中村は「これだけまともなことを言っているんだから当然入るだろう」と思っていた。しかし落選。田英夫、見城美枝子らと票を奪い合い、中村は40万票を得たが、田と3万票差で次点だった。
「はあー、負けることもあるんだ」。中村は「新鮮な驚き」を感じた。小中学校では圧勝して生徒会長になってきたし、その後の人生でも負けを実感するような場面はなかった。俳優やキャスターは個人の適性や才能があればなんとかなるものだった。
それからの1年ほどがつらかった。別の選挙に出るだろうと色めがねで見られ、仕事は来なかった。主演したNHKドラマ「官僚たちの夏」の放送も延期された。なにより自分自身、「オレは一体何なんだろう」という中途半端な気持ちを抱え、どう決着をつけていいかわからなかった。
さきがけも崩壊していった。小選挙区制が導入された96年の総選挙で惨敗。中村の盟友とも言われた田中秀征も落選した。民主党に行く者もあり、党は分裂した。
98年の参院東京選挙区への再出馬を決めたのは、自分はさきがけに担がれた人寄せパンダではない、今も本気なのだ、ということを証明したかったからだ。それで落ちればケリがつく。
公示日の3週間前に会見を開いて立候補を表明。さきがけからは推薦を受けるにとどめた。ほとんど1人で始めた選挙戦は、終盤になると自然発生的なボランティア選挙になっていた。無党派ブームにも乗り、結局自民党候補を破り、71万票余で当選した。
中村は「新党をつくる」という公約を掲げた。中村を応援した田中秀征は「一般の人には役者の大ボラとしか受け取られない」と反対したが、当選後中村は1人で新党「国民会議」を立ち上げた。00年には武村正義の落選で抜け殻のようになったさきがけの代表に就任し、組織を一体化。02年、党名を「みどりの会議」に変えた。
■砂漠に水まく選挙戦
欧米の緑の党のように、環境問題を政治の理念に定着させよう。中村は意気込んだ。
03年の統一地方選では、中村の応援を得たいと、200人もの候補者がやってきたのに、国政で環境問題に取り組もうという者はなかなか現れない。候補者が10人いないと参院比例区には出られないが、10人目が決まったのは、選挙の1カ月ほど前だ。
孤独だった。だれもが環境問題に関心を寄せているのに、それが政治に結びつかない。各地に専門的な知識を持つ環境運動家はいる。だが政治家はパイプとしてだけ使おう、という傾向がみられた。
比例区のハードルも高かった。供託金は6000万円。半年で1億円以上使った。もっと金があれば広告を打つなどのキャンペーンもできたが、頼みのメディアも「その他の政党」扱い。選挙戦は、砂漠に水をまくようなものだった。
「カネと組織力で9割方決まる。もう小さな政党は登場できない。本来の参院が持つチェック機能もなくなるだろう」と中村は肩を落とす。
しかし、みどりの会議が得た90万票という「地下水脈」があることはわかった。それだけでも成果はあった。
これから、勉強をしようと思っている。欧米では、みどりの政治が理論化されている。「日本発の思想をつくらねば」という思いをずっと抱いてきた。SLOW、SMALL、SIMPLE。党のスローガンだった3Sは、日本の民俗文化の中にもともと備わっているものではないか。それを思想化し、映像か、活字か、今はわからないが、何かの形で、いずれ表現したいと思っている。
(10/16 朝日新聞【be】「逆風満帆」下)