ゴッホとゴーギャン〜ゴッホの立場から


ゴッホとゴーギャンは、1886年知り合いました。
人間への関心が人並みはずれて強く、孤独感にいつもとらわれていた ゴッホにとって、ゴーギャンは師であるとともに、大切な友人の一人 だったのでしょう。

ゴッホのそんな思いをくみ取ってか、弟のテオはゴーギャンの絵を 何度か購入しています。(もちろん、ゴーギャンの才能の素晴らしさを 認めた上で。)
ゴッホが1888年、アルルでの共同生活にゴーギャンを誘った際にも、 テオは、「アルルに行けば、一ヶ月につき作品一点を150フランで買う」 と言う条件をゴーギャンに提案しています。

一方、その時期のゴーギャンは、ちょうど「総合主義」を完成させて自分の スタイルを確立した血気盛んなときで、アルルでの共同生活にはあまり 乗り気ではなかったのです。
ゴッホやテオからの催促で、渋々という感じでアルルに行ったゴーギャンは、 ゴッホが絵を描く姿勢を、「想像力を使っていない」と批判します。

その言葉をうけて、ゴッホは芸術家の象徴としての「詩人の肖像」を描くなど、 「想像力」で描く試みを始めます。
この頃、ゴッホはゴーギャンに対して、尊敬とあこがれの気持ちを抱くと同時に、 畏れを感じ始めていたようです。 「耳きり事件」の少し前に描かれた「ゴーギャンの椅子」からゴッホのそんな 思いが読みとれます。
この絵は、色のばらつきがはげしく、不安な雰囲気を感じさせます。 そして、椅子の上に乗ったろうそくは、男根の象徴であり、ゴッホの ゴーギャンに対するコンプレックスの現れであると言われています。

1888年12月、有名な「耳きり事件」でゴーギャンと決別した ゴッホは、その後、精神病院の入退院を繰り返しながらも描き続けていきます。 その間も、ゴーギャンの動向は常に気になっていたようで、ゴーギャンのスケッチを 「現実味がなさ過ぎる」と批判したりしています。
その一方で、ゴーギャンへの、愛情とも呼べる感情は決して途絶えることは なかったようで、ピストル自殺を図ったあとで見つかった未投函の手紙の中では、 「毎日あなたのことを考えている・すぐにでも会いに行きたい」という言葉も 見られます。

また、その手紙の中で、自身の絵・「アルルの女」について、「これはアルルの女 の総合である」と言っています。
しかし、ここで使われた「総合」は、「アルルの女のイメージ」の総合であって、 ゴーギャンの言う「総合」とは意味が違っています。
このことから、ゴッホは、ゴーギャンの「総合主義」を正確に把握できていなかった のではないかと想像されます。

そして、「クロワゾニズム」を取り入れてゴッホ独特のタッチを消して平塗りをしたり、 ゴッホは技術面でも積極的にゴーギャンの教えを取り入れようとしますが、 あまり成功したとは考えられません。
ただ、「想像力で描く」という教えは、ゴッホの中で昇華され、「星月夜」に 代表される夜空をテーマにした一連の作品の中で花開くことになります。

ここで、注意なくてはいけないのは、ゴッホの絵は、ゴーギャンが言うような 「事物を写した」だけの絵ではないということです。

アルル以前の絵でも、ゴッホの絵には全て「事物によって表現されたゴッホ自身 の影」があります。命(生き・死に)・孤独感・一対への固執・自分より 偉大な人へのコンプレックス等々。
ゴッホの描く画面は、一見するとただのきれいな 写実的な絵で終わってしまいますが、そこには深いメッセージが込められている のです。
ゴーギャンは、想像力で、画面を再構築して自分の思想を表現しましたが、 ゴッホは、目の前にある物に自分を投影して表現したのです。 まさに、自身の命を削って作品を仕上げていったという感じです。
絵の中に画家の姿が見えるからこそ、ゴッホの絵はこんなにも魅力的なのだ といえるでしょう。