最近ずっと考えていることがありまして、ちょっと芸風が変わっています。
ネット右翼はテロリストになるかもしれない
というのも、たとえばネット右翼みたいな攻撃性の高い人たちって、このまま「スルー」していくと、冗談抜きにテロリストになってしまうような気がするんです。
「韓国人死ね!」などと叫ぶ彼らは、彼らなりの「正義」を背負っています。彼らは「世直し」のつもりで、日本社会を今よりもよくするために、在日韓国人・朝鮮人を排撃しているわけです。
しかし、「まともな人」はネット右翼の主義主張を、本気で論じることはしません。取り合ったとしても、上から目線で「お前らの言うことは間違ってる」「被害者妄想だ」と伝えるものが大半でしょう。
また、マスメディアで彼らの活動が紹介される場合も、彼らが何か暴力沙汰を起こしたときに限られます。事実上、彼らの主張は日本社会から「黙殺」されていると言っても過言ではないでしょう。発言を読む限り、少なくともネット右翼の人たちは、そう思っているようです。
このまま彼らの存在や主張をスルーしていけば、彼らは「このままでは社会は変わらない」という無力感、ないし危機感に囚われる可能性があります。
そうした無力感・危機感の先にあるのは、さらなる「暴力」です。口で言ってもわからなければ、力でわからせるしかない、と。
事実、ヘイトスピーチや暴力事件などを見るに、彼らの暴力性は日増しに高まっているように見えます。「世直しのため」に、法的な罪を進んで犯すようになるのはそう遠くない未来ではないかと、懸念しています。暴力性が高まれば、当然その他大勢の市民も影響を受けることになります。彼らの暴力を放っておくのは、無責任とすらいえるでしょう。
弱い敵とどう向き合うか
彼らの暴力性をどう抑えこむか。これを考えなければならないでしょう。孫引きですが、内田樹氏はオルテガの「弱い敵」というコンセプトを紹介しています。
オルテガ・イ・ガセーは「弱い敵とも共存できること」を「市民」の条件としていますが、これはとてもたいせつなことばだと思います。
「弱い敵」ですよ。「強い敵」とは誰だって、しかたなしに共存します。共存するしか打つ手がないんだから。でも「弱い敵」はその気になれば迫害することだって、排除することだって、絶滅させることだってできる。
それをあえてしないで、共存し、その「弱い敵」の立場をも代表して、市民社会の利益について考えることのできる人間、それを「市民」と呼ぶ、とオルテガは言っているのです。
これはまさに理想の世界ゆえ、実際に行動するのは困難でしょう。「敵」である以上、彼らは攻撃的に振る舞います。向き合おうとした時点で、罵詈雑言が飛んでくることは必至でしょう。しかも「弱い」ので、対等に議論をしようとすると「晒された!」と逃げ出す可能性もあります。彼らとの対話は、かくも難しい。
しかし、難しくとも、無理ではないというのも、また真実でしょう。ぼくはしばらく、この「弱い敵」との対話方法について模索したいと考えています。だから、少し芸風が変わっているのです。
攻撃的な人々と対話をするのは困難です。悪意にはそこそこ慣れているつもりですが、やはり「死ね」だの「バカ」だの言われると、冷静さを失いそうになります。「自分」を超えて議論をするというのは、まさに超人的なあり方です。
ぼくにはまだ荷が重すぎる課題だと感じますが、何事もやってみないとわからないので、しばし挑戦しております。もっともっと「我」を捨てないとダメですね…本気で坐禅でもしようかと考えています。
ぜひとも、想像してみてください。
あなたに対して「死ねクソ野郎w」「バカじゃねwww」などという罵詈雑言を投げかけてくる人々がいる。
あなたは傷つき、怒り、彼らを攻撃しようとする。しかし、彼らの正体はつかむことができない。掴んだ瞬間、消えていく。
あなたは彼らを問いただすことを諦め、無視を決め込むことになるでしょう。多くの論客は、こういう態度にとどまっています。ぼくもそうでした。
が、これでは攻撃的な彼らは、救われないままです。脅すわけではないですが、彼らの暴力は、いずれ多くの市民にまで届くようになるでしょう。いや、すでにもう、届いているのかもしれません。
「救う」というのは何とも傲慢に響きますが、救われるのは彼らだけではありません、ぼくらもまた救われるのです。
超人的な存在として、「弱い敵」たちと向き合うことが必要です。しばらくは、ぼくは「対話」という方法を模索します。「対話」以外にも、色々なやり方があると思いますので、ぜひ挑戦できるみなさまは、自分のアプローチを模索してみてください。