補足(27) 戦後編=第三期(宮顕系日共党中央と解放同盟の対立抗争期)

 宮顕−不破系日共党中央の反動的本質は、部落解放運動のフィルターで透かして見るとくっきりと浮かびあがってくる。日共ないしはその下部組織の全国部落解放運動連合会(全解連)が部落解放運動に対して為したことは、部落解放運動に有益であったものは何も無い。在るのは、その戦闘的大衆団体である部落解放同盟に対する憎悪に満ちた誹謗中傷であり、形(なり)振りかまわぬ敵対である。

 部落解放同盟に対する「解同朝田一派=暴力利権集団」規定は、戦闘的学生運動に対する「極左暴力集団、トロツキスト」規定、原水禁平和運動に対する「分裂策動」規定等々と並んでご都合主義な代物(しろもの)でしかなく、その繰り返しの様は、ヒトラー著「わが闘争」式「ウソも百万回宣伝大衆操作論」と酷似している。

 且つその低俗さは、解同を芝居じみた「悪者」に仕立てあげ、「その恐ろしい集団にも堂々と立ち向かう唯一の正義の党=日共」という構図で明らかなように「子ども騙し論」で塗り固められている。この手法自体が伝統的な権力者のやり方そのものであり、弾圧の際のフレーム・アップ手法と酷似している。れんだいこには見えてくる。宮顕−不破系日共がこの手法を愛用しているということのうちに、彼らが当局側から送り込まれたスパイ分子であることが。口先は器用に回せても体質までは誤魔化せられない。

 解放同盟の運動にも若干の問題性があるだろう。要は、それをより左派的に形成していく為の批判が求められているのに、宮顕−不破系の対応は「右」からの反動的敵対であり、ここでも権力とがっぷりに組んでの戦闘的団体潰しの策動ぶりが見えてくる。にも拘わらず、これを批判する側の舌鋒はここでも、宮顕−不破系の理論を左派系理論の変種として待遇した上で論戦している。

 れんだいこはナンセンスだと思う。「宮顕−不破系の対応は『左派に擬態した実際には右』からの反動的敵対理論」であり、その正体を見破り追い詰めるところから始めねば批判にならない。宮顕−不破系を的確に「左派戦線に送り込まれた当局内通分子」とみなすところから論を立てない限り、その論は凡庸すぎる。それは実践的に役立たない。なぜだか、日共を批判する観点から形成された新左翼でさえ今日に至るまでこの確認を為そうとしない。この現象はなぜなのだろう。


 日共が国会活動で最も戦闘的に闘った稀有な例がある。うろ覚えなので要領を得ないが、確か八鹿高校事件を取り上げ国会質疑していた。政府の官僚も与党国会議員もタジタジで粛然としていた。妙にこの時の様子を覚えている。

 れんだいこが奇異に観ずるのは、日共は、本来であるならば友好団体であるこれら諸団体に限ってなぜかくも戦闘的に討伐に向かうのだろうか、ということにある。逆の例を見ればよい。政府与党に対しては口先の批判は別にしても根限り是々非々路線でじゃれ合いしているではないか。確かに「同和利権」と云われる種々の不祥事はある。しかし、何事もどういう角度から切り込むかだろう。現下日共のそれは、北方領土問題における「全千島返還論」に似て全く役に立たない反解放同盟運動でしかなかろう。

 水平社運動と日共運動とは歴史的にかなり強い絆で結ばれてきた相互に友誼結社であろう。それをかようにズタズタにして恥じない者は、日共指導部の異邦人性故にとか考えられない。このれんだいこ見解は如何だろうか。

 2002.8.2日 れんだいこ拝


「同和対策審議会」設置される

 部落問題の解決は国政の重要な課題となった。 こうした長年にわたる苦難の運動をうけて、1961(昭和36)年政府は総理府の附属機関として部落問題を総合的に調査・審議する機関として「同和対策審議会」を設置したた。「同和地区に関する社会的及び経済的諸問題を解決するための基本方策」についての諮問審議会となった。以降4年間の審議をへて、1965年に「同和対策審議会答申」が出され、ようやく1969年に「同和対策事業特別措置法」が制定されていくことになる。



日共内で宮顕派が反対派を次々と駆逐し始める
 この頃、日共内で党中央主流派になった宮顕派が大粛清運動を開始する。その手始めが、1961年の構造改革派追放であった。この余波が部落解放運動にも影響を与えることになる。


「原水協分裂」の影響
 1963年の原水爆禁止世界大会は「いかなる国の核実験にも反対」かどうかをめぐって、共産党が「アメリカの核は強盗の武器だが、社会主義国の核はその防衛の武器だ」と反対したために、社会党・総評系の原水禁と共産党系の原水協に分裂した。共産党は、「いかなる国の核実験にも反対」という国民的な要求を軽視し、「2つの敵論」を教条的に押しつけることで、日本最大の平和運動を分裂に追いこんだのである。

 ところが、共産党の中にも「部分的核実験停止条約」に賛成する志賀義雄(大阪選出衆議院議員)らの人たちがいて、1964年の国会承認時に賛成投票をして共産党から除名された。そして志賀をはじめ鈴木市蔵(参議院議員)、中野重治(作家)、佐多稲子(作家)らは「日本のこえ」を結成した。志賀は部落解放運動とのつながりが強く、解放同盟の中からも志賀と行動を共にする人たちがあったことから、共産党は攻撃の矛先を解放同盟にも向けるようになった。日共はこの頃から、解放同盟の左傾化に対して「朝田理論」批判を始める。


狭山事件」発生
 1963年、狭山事件が発生している。この考察は、「狭山事件、裁判考」を参照のこと。


部落解放運動第3期

 第3期は、1965(昭和40)年から1975(昭和50)年までの時期で、同和対策審議会答申、同和対策事業特別措置法の制定によって同和行政が一定の前進を示し、部落の実態は著しく改善されていく「戦後同和行政の波行的前進期」過程となる。



「同和対策審議会答申」発表される

 1965(昭和40).8.11日、内閣総理大臣の諮問にたいする「同和対策審議会答申」(略称「同対審答申」、以下「答申」と記す)が提出された。答申は、「同和地区に関する社会的及び経済的諸問題を解決するための基本方策」として題されており、前文で、「いうまでもなく、同和問題は人類普遍の原理である人間の自由と平等に関する問題であり、日本国憲法で保障された基本的人権にかかわる課題である。したがって、審議会はこれを未解決に放置することは断じて許されないことであり、その早急な解決こそ国の責務であり、同時に国民的課題である」として、国の第一次責任を明らかにしていた。続いて、「政府においては、本答申の報告を尊重し、有効適切な施策を実施して、問題を根本的に解決し、恥ずべき社会悪を払拭して、あるべからざる差別の長き歴史の終止符が一日も速やかに実現されるよう万全の処置を取られることを期待する」とうたいあげられていた。

 この答申は、日本の同和対策史上画期的な意義をもっており、次のように論理化していた。

基本的人権としての認識 部落問題の解決を基本的人権にかかわる民主主義の課題としてとらえていること。
同和行政は「基本的には国の責任」 同和行政は「基本的には国の責任」であることを明らかにしていること。
生活実態で差別を把握 部落差別を意識や観念の問題としてのみとらえる考えを排し、「同和地区住民の生活実態に具現されている差別」=「実態的差別」を認めたこと。
「特別措置法」の必要性を提言 問題解決のためには総合的な対策が必要であるとし、その内容についても具体的に言及し、「特別措置法」の必要性を提言している
自主・自律・自覚精神の涵養 「住民の自覚、自律意識」を高め、「地区住民の自発的意志に基づく自主的運動と緊密な調和を保つ」。

 多くの点で評価すべき重要な積極的内容をもっており、答申が出されたことによって同和行政は、それ以前にくらべると著しく前進し、部落差別の解消に大きな役割をはたしていくことになった。

 
これらの一連の経過から云える事は、「『同対審答申』が出され、政府が「明治の解放令」から百年にして、ようやく部落差別の解消にむけて重い腰を上げることになったのは、部落解放運動が糾弾闘争を行政闘争へ、さらに行政闘争を国策樹立運動へと発展させた成果」であろう。



(私論.私見)「『答申』の画期性」について

 
この「答申」に克目せねばならない。戦後左派運動は政府・自民党系のする事為すこと全てに反対してきたが、そういう「万事難癖、万年野党稼業」の非をこそ知られねばならない。又一つ、この「答申」は、政府・自民党系をハト派が掌握していた時代に出されたことに注目する必要がある。今日は逆に、タカ派系が支配しているがこのタカ派には「答申」の如くな画期性は望むべくも無い。

 政府・自民党内が、ハト派系とタカ派系の熾烈な抗争且つ融和という状態にある時、我らが左派運動はこれを傍観し、内部の弁証法的力学構造を見ず十把一からげに万年批判でやり過ごして来た。時に、ハト派系が主流派を形成していた時代にこれをやったのだから、客観的にはその後のタカ派系進出を裏から支援したことになろう。こうしてタカ派系全盛時代を迎えるやご丁寧なことに不破系日共は、是々非々路線を打ち出しつつある。そして多くの党員は史的考察を放棄し、「万年反対路線からの転換」という美名の下に支持しているやに見受けられる。あまりに馬鹿げていよう。

 2003.10.1日 れんだいこ拝


「答申」評価を廻って、解放同盟と日共が対立
 この「答申」を廻って解放同盟と日共が評価で対立した。解放同盟主流派は、答申を評価し次のように述べている。概要「長年にわたる運動の成果であり、内容は十分とはいえないが、今後の運動に積極的に活用できるものであり、圧倒的に支持する」と歓迎した。次のように述べている。概要「答申は、部落問題の解決における国の責務を明確にしており、同時に国民的課題であるという認識のもと、部落と一般地域との格差是正、及び部落民に対する偏見の根絶を図るための同和行政の必要性を強調し、そのための特別措置法の制定を提言している。部落問題を根本的に解決する基本的方向として、市民的権利と自由の享受を行政的に保障する施策を講ずるべきことを確約しており、十分満足できるものではないにしても評価されるべきだ」。

 「『答申』は、部落問題の解決にとって画期的な提言であり、これを端緒として初めて政府による本格的な諸施策がとられるようになった。実に『明治の解放令』から百年にして、ようやく政府が部落差別の解消にむけて重い腰を上げたことになる。戦後の部落解放運動が行ってきた全国的な行政闘争と行政への働きかけ、部落解放へ向けての国策樹立運動が実を結んだ一つの成果と言える」。

 
これに対し、宮顕が党中央を掌握した日共は「毒まんじゅう」と批判した(「答申=毒まんじゅう論」)。つまり、解放同盟の評価観点を擬態的に「左」から批判したことになる。曰く、概要「『答申』は毒饅頭、部落大衆をダメにする」、「米日独占資本の政策のために、部落民大衆を利用しようとする欺瞞的なものである」、「米日独占資本の下でも部落解放があるとする自民党政府の欺瞞、融和政策だ」。

 
曰く、「しかし反面、明治維新後の近・現代における部落問題については、答申における認識はきわめて一面的で、近・現代における部落問題の認識にとって欠くことのできない絶対主義的天皇制、寄生地主制、あるいはまた現代日本の独占資本主義とのかかわりについてはまったく触れられておらず、その結果として、部落問題の解決が戦後日本経済の高度成長の延長線上に期待されるかのような幻想があたえられているなど、答申にはいくつかの点で基本的な誤りや欠陥がふくまれています。また今日の部落問題の現状や部落の実態は、答申が出された当時とは著しく変化してきており、したがってそうした変化を無視して、答申の文言を硬直的にとらえることも誤りです」。


 1965.12.12日付け赤旗は、「答申の本質は、米日『2つの敵』が、解放運動を反共主義、融和主義のわく内にひきいれることにあります。政府はこの範囲内で一定の経済的な利益を部落大衆に与えながら、これを軍国主義、帝国主義復活の政策をおしすすめる道具にしようとしているのです」と「2つの敵論」の適用で意義を否定した。

 結論として、「当面我々がしなければならないことは答申に幻想を抱かせることではない。答申のごまかしを部落大衆及び全人民に徹底的に暴露し、同時に深く部落大衆の中に入る。その要求を取り上げて大衆の自覚を高め、解放同盟の自主的、民主的組織拡大のために奮闘し、これによって要求実現の運動を進める」、「答申を運動の柱とする態度は一面的で正しくないと同時に答申粉砕に重点を置くやり方も又一面的である。答申を出させたことは解放運動にとって重要な出来事だが、それは運動上の一つの手柄に過ぎない。この点を正しく位置付ける必要がある」との論陣を張った。


(私論.私見)日共の「『答申』毒饅頭論」の欺瞞性について

 この日共の「『答申』毒饅頭論」こそ曲者である。連中は、本来評価すべきものに出くわすと「左」からこれを批判する。相手が右と見れば「左」にシフトして叩く。左と見れば右から叩く。当然ながら、その論に一貫性は無い。常に、自身が党中央を占拠し続け、対立党派や大衆団体に戦闘性があればその牙を抜こうとし、穏和系とあれば屈服させようとする。総じて日本左派運動の消火鎮圧に狂奔することに使命を見出しているとんだ異邦人である。「答申」に対して「『答申』毒饅頭論」で応答した当時の論理を炙り出せばそのことがより判明するであろう。

 補足すれば、そのように否定した「答申」に対し、それが元となって諸法律が実施されていく段になるや、過去の言説に一片の自己批判も無く、「解放同盟の窓口一本化反対」なる論でまたぞろ運動そのものに難癖をつけ邪魔をしていく。れんだいこは、あきれてものがいえない。


部落解放同盟第20回大会での対立
 1965(昭和40)年の部落解放同盟第20回大会は、その直前に出された「同和対策審議会答申」の評価をめぐって激しい対立が起こった。日共系中央委員は、党の内部通達に沿って発言し、答申を口を揃えて「誤魔かしと欺瞞」、「巧みな融和政策」だとこきおろした。しかし、少数意見にとどまり、解放同盟の多数派は執行部議案を採択した。こうして、解放同盟は、概要「長年にわたる運動の成果であり、内容は十分とはいえないが、これを推進していく」との方針を打ち出した。結局、日共系が退けられたことになる。

 この大会で、もう一つ重要な決議が為されている。それは、日共系の京都府連の三木一平、塚本景之が除名されている。この背景には「政党支持」を廻る対立があった。1965.7月の参院選で、解放同盟は松本冶一郎委員長(社会党)を支援決議したが、両名らの日共系グループは「政党支持の自由」を主張して日共の須藤五郎を応援しつつ同盟推薦を取り付けようと画策した。解放同盟中央はこれを認めず、除名処分に打って出たということになる。

 ところが、除名された日共系グループは、除名後も解放同盟京都府連を名乗り、赤旗がこれを支援するなど混乱に拍車をかけている。


日共系が解放同盟批判を強める
 この時、日共系の批判的見解が封ぜられ、後々しこりを残していくことになった。「解放同盟は、部落差別からの解放という目的にむかって様々な思想・信条を持った人々も含めて組織された大衆団体であって、そこに一党派の政治方針を機械的・教条的に押しつけることは、運動に混乱と分裂を持ちこむ結果にしかならない。それが理解できないところに日本共産党の偏狭な独善主義がある」、「本来、大衆団体とすれば、様々な意見をもつ人々が議論していく中で全体の方向性を決定し、納得の上で運動を進めていくことが重要であり、必要なことであった。しかしこれとは逆に、先の政党支持自由についての問題、またこの答申における否定派の排除など、部落解放同盟中央による強制、締め付けが行われ、組織内における意見の対立を激化させることとなってしまったのである。部落解放同盟中央にすれば、思想統一こそが団体を団結させ、運動の高揚へと導くものと考えたわけであるが、これは部落解放全国委員会が第7回大会で自己批判したカンパニア的傾向であり、部落解放同盟を大衆組織としてではなく、『指導者の組織』ととらえたものに他ならない。大衆組織としての大前提ともいうべき議論の場を排した部落解放同盟はその思想的対立を契機に分裂していくことになる」、と批評されている。こういう見方が適正かどうか、れんだいこには疑問がある。

 以降、日共は、「解放同盟指導部の反党分子、日本の声派の策謀」との妄想を深めていき、共産党が握る支部を使って解放同盟多数に抵抗させ、部落に「生活と健康を守る会」を組織して解放同盟に対抗させるなど、解放運動との敵対を深めていくことになった。

 これに対し、「解放同盟は、部落差別からの解放という目的にむかって様々な思想・信条を持った人々も含めて組織された大衆団体であって、そこに一党派の政治方針を機械的・教条的に押しつけることは、運動に混乱と分裂を持ちこむ結果にしかならない。それが理解できないところに日本共産党の偏狭な独善主義がある。以後、共産党は部落解放同盟に対する非難を次第にエスカレートさせ、『解同=暴力利権集団』と誹謗中傷するようになり、1970年に『部落解放同盟正常化全国連絡協議会』を結成し、1976年にはこれを『全国部落解放運動連合会』(全解連)と改組し、あらゆる場面で部落解放運動に妨害を加えるようになった」と論評されている。この論評の方が正論だろう。


京都に二つの同盟京都府連が生まれる。朝田派の旗揚げ
 意見の対立が公然化した中で最初に分裂することになったのが、60年綱領批判を唱えた朝田善之助が委員長の部落解放同盟京都府連であった。1965.12月、朝田は地元の田中部落で新たな支部を結成し、同部落に住む府連副委員長・三木一平、同書記長・塚本景之を一方的に除名した。これについて朝田は府連執行委員会で除名の確認を行おうとするが反対多数で否決。朝田は府連を辞任することになる。朝田の後任には副委員長の三木が就くが、朝田は1966.1月、自らを委員長とする別の府連を組織、同盟中央はこれを承認した。こうして、京都に2つの部落解放同盟府連が生まれることになった。


【「京都文化厚生会館事件」発生】
 この頃の動きとして、日共系は次のように朝田派を批判している。朝田派は、1966.1.20日、社団法人部落問題研究所が全国的にカンパを募って建設した文化厚生会館を襲い、研究所事務局とそこに事務所を構えていた部落解放同盟三木府連書記局、及び全国同和教育研究協議会事務局のメンバーを強制的に排除、不法占拠した。排除されたのはいずれも日共系であり、文化厚生会館の利用管理を廻って、朝田派が日共系を暴力的に叩き出したということになる。朝田氏は、著書「差別と闘い続けて」の中で、概要「日共系のセクト的専横に耐えかねての正義の挙である」と弁明している。

 これに対し、日共は同日直ちに、部落問題研究所、全国同和教育研究協議会事務局、解放同盟京都府連の三団体名で、「暴力団朝田一派の暴力による文化厚生会館の占拠について訴える」と題するビラを京都市内の要所に配布している。

 1966年から67年にかけて朝田派は解同三木府連への批判・攻撃をする一方で、立命館大学、京都教職員組合、京都府職員労働組合などに対する糾弾を行った。朝田が唱えた「差別の命題」=「日常、部落に生起する問題で、部落にとって、部落民にとって不利益な問題は差別」という理論に基づき、朝田派に批判的な立場に立つ人物、団体はすべて「差別者」とし、部落解放同盟そのものをも攻撃することになる。


部落解放運動の先覚者松本治一郎が死去


朝田善之助氏が部落解放同盟委員長に就任

 1967年に部落解放運動の先覚者松本治一郎が死去する。その後の部落解放同盟委員長に朝田善之助が就任。朝田善之助を中心として分裂した京都府連に続き、各地に同盟内の分断・排除の動きが広がり始める。以降、朝田派が主流派となり、その解放理論は徐々に本部内にも浸透し始め、1970年の第25回全国大会で全面的に取り上げられることとなる。



同和対策事業特別措置法が制定される

 1969年、国会で、同和対策事業特別措置法が制定されました。この法律は、10年の時限立法とはいえ、解放行政推進のための施策を法的に明示したこと、国と地方自治体に同和対策事業を迅速かつ計画的に推進することを義務づけたことなど、大きな意義をもっていた。こうして、1969年から同和事業が制度的に始まった。

 解放同盟は、同和事業実施は「我々が闘い取った成果である」との認識の下で、部落解放運動を推進してきた解放同盟を「窓口一本化」するよう、法の精神に従い「研修会」、「事業説明会」を開くよう地方自治体への働きかけを強めた。これに日共が激しく抗議するという構図での衝突が各地で頻出していくことになる。



 「同和対策審議会」答申以降、部落問題を解決する基本的な法律の制定の要望が強まった。1969.7.31日「同和対策事業特別措置法施行についての通達」が出され、同年国会審議に付され「同和対策事業特別措置法」が10年の時限立法で可決された。この法律にもとづいて、部落の社会的、経済的文化的な地位向上の施策が法的裏付けをもって制度化された。政府及び地方自治法で予算化されるようになり、部落住民のたたかいや努力ともあいまって、住環境の改善、教育・文化の向上、就職の機会拡大など、悲惨であった部落住民の生活実態は改善され大きく変化した。

 同和対策事業特別措置法の第1条は、「歴史的社会的理由により生活環境等の安定向上が阻害されている地域」を「対象地域」とし、その地域における「経済力の培養、住民の生活の安定及び福祉の向上等に寄与する」ことを同和対策事業の目的と定義づけていた。そこで各自治体では、この法にもとづく事業を実施するにあたって、この「対象地域」を定める必要があり、これを一般に「同和地区指定」と称することになった。「地区指定」の手続としては、まず沿革的にみて「部落」といわれる地域の範囲について、地元の各種団体・個人と行政当局とが協議して「線引き」を行ない、その範囲内の地域の実態調査を実施し、その報告にもとづいて国が「対象地域」と認定することになった。

 日共系はこれについて次のようにイチャモンを付けている。「しかし特別対策を実施する対象を確定するための措置であるとはいえ、一定期間以上にわたって『地区指定』を継続するならば、同和地区を周辺地域から法的・行政的に分離・固定化することになり、逆に部落問題の解決を妨げることになりかねない問題を含んでいます」。


 「地域改善対策特別措置法」、「地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律(略:地対財特法)」、「『地対財特法』の一部を改正する法律」等々が制定されていった。 



部落解放同盟第24回大会での対立
 1969年ブらか解放同盟24回大会が開催されるも、解放同盟と日共の対立が行き着くところまで進み、この時の大会に日共代表の来賓挨拶が拒否されている。


「矢田教育差別事件」発生

 1969(昭和44).3.13日「矢田教育差別事件」発生。矢田事件とは、1969年3月に大阪市教組の支部役員選挙に立候補した木下浄教諭の挨拶状(31)を差別文書とし、部落解放同盟大阪府連による暴力的糾弾が行われたものである「矢田教育差別事件考」参照)。部落解放同盟はこの挨拶状を「部落差別を宣伝し、部落解放運動に反対し、教師の古い意識を同和教育に反対する基盤として結集することを訴えた」。「差別文書」として度重なる糾弾を拒否した教師を勤務中の学校から強制連行するなどを行った。また市教育委員会、市教組に圧力をかけ」、市教委は関係教師を年度途中で強制配転させ、市教組は権利停止処分にした。

 この事件はそれまでの活動方針とは明らかに異質で、解放運動を行う上でもっともタブーとされた「暴力的糾弾」に他ならなかった。そして部落解放同盟大阪府連はこの事件を一種の「踏絵」にし、府連の意思に反するものの排除を行う。まず、1969年6月木下挨拶状を差別文書と認めない堺支部執行委員会の活動を拘束、同年9月、支部長以下19名の支部執行委員を除名処分とした。同10月には堺支部、蛇草支部、羽曳野支部、箕面支部を排除、12月までには荒本支部、高槻支部、富田林支部の活動家も除名処分となり、1000名をこえる同盟員が排除された。

 対するに日共は、「差別糾弾=暴力、解放同盟=暴力集団」と誹謗中傷する差別キャンペーンを全国的にくりひろげ、大阪では悪質極まる差別ビラを全戸配付し、同盟の矢田支部役員を「逮捕監禁・強要未遂罪」で告訴するにいたった。こうして、もはや解放同盟と日共の対立は泥沼の紛争に入り込んでいった。


「豊中高校新聞部事件」発生
 1969.6.9日「豊中高校新聞部事件」が発生している。


【解放同盟の「「窓口一本化」運動】

 このような同盟員排除とともに組織の分断化が図られ、同和事業の「窓口一本化」という形で全国に広がりをみせる。部落解放同盟大阪府連は1969.2月、吹田市の解同吹田支部に対抗して同一部落を基盤とした第二支部を結成。府連は市に対し、矢田事件の木下挨拶状を差別文書と認め、今後の交渉は第二支部を唯一の交渉団体とするよう迫った。しかし吹田市長がこれに同意しなかったことで、府連は300人あまりの同盟員を使い吹田市長宅をを包囲、水道・ガス・電話を切断して暴力的圧力を加える。結果として市長はこの圧力に屈し、木下挨拶状を差別文書と認め、第二支部を公認。部落に設置されている同和関係公共施設の運営は第二支部に委ねるとする「覚書」をとりかわした。これが同和事業の「窓口一本化」である。

 大阪府羽曳野市では12月、部落解放同盟府連の幹部ら十数人が市役所にのりこみ、市長を5時間にわたって拘束、窓口一本化を強要するなど、各地でこのようなことが行われ、既存の解同支部を排除し、府連が直接組織した第二支部をうちたてていくこととなる。

 1969.7.10日、同和対策事業特別措置法(同特法)が施行され、本格的な同和事業が全国規模で行われるようになることで、部落解放同盟による同和事業の排他的独占を目的とした「窓口一本化」は全国的展開を見せ始める。そしてそれは同時に組織内の批判派を排除する動きでもあった。1969年10月、部落解放同盟中央統制委員会は山本利平中央委員(山口県書記長)、丸井一美大阪府連堺支部長を除名処分、同年末から翌70年4月までに山口県連、広島県連、岡山県連を夫々排除し、新たな第二支部を組織するのである。


 以後、日共は部落解放同盟に対する非難を次第にエスカレートさせ、「解同=暴力利権集団」と誹謗中傷するようになる。1969.9.7日付け赤旗に「部落解放運動を誤らせる『朝田理論』を批判する」、12.16日付で「『解同』反共幹部の凋落と荒唐無稽な『理論化』」を発表している。


【日共系の「部落解放同盟正常化全国連絡会議」(「正常化連」)が組織される】
 部落解放同盟本部のこのような分裂策動に対して、排除された人々や批判派の人々による新たな運動が始まることとなる。1969年10月10日、山本・丸井除名に反対し、部落解放同盟中央本部前事務局長・中西義雄を責任者とする『解放の道』が創刊。翌月には解同の正常化を目指して、山本・丸井・中西(大阪)・三木一平(京都)らにより「部落解放同盟正常化委員会」が結成された。大阪でも同月、除名処分を受けた矢田支部、蛇草支部、荒本支部、堺支部、富田林支部、向野支部、箕面支部などの支部員約1000名が参加する「解同大阪府連正常化委員会」が発足した。

 1970(昭和45).6月、日共系部落解放運動として「部落解放同盟正常化全国連絡会議」(「正常化連」)が組織された。関西の動きに組織排除をうけた岡山・広島・山口・京都の四府県連が呼応し、大阪府正常化委員会とともに1970年6月、「部落解放運動の正常化をめざす府県連、支部代表者会議」を開催。「部落解放同盟正常化全国会議」(正常化連)が結成された。(議長・岡映…元岡山県連委員長、副議長・岸上繁雄…元大阪府連委員長)。正常化連は部落解放同盟本部派の分裂攻撃から組織と部落民の利益を守ることを目的とし、「(現在の)運動をあやまらせている朝田一派の融和主義、部落排外主義、反共主義をふんさいして、部落解放運動ぜんたいの正常化と歴史的前進をきりひらく使命をもって、連帯と団結をつよめて活動する」(33)ことを決めた。

 曰く「正常化と公正・民主的な同和行政の確立をめざす」と詠い、解放同盟破壊を追求するようになる。部落解放同盟中央本部の反共・部落排外主義路線に反対して解放同盟から排除された府県連によって。

 1970年代の日共の右傾化は止まるところを知らなかった。1974年2月「部落解放運動の統一と刷新をはかる有志連合」が結成されている。
1974年には全国水平社の創立者の一人である阪本清一郎、上田音一、木村京太郎、北原泰作ら、運動の第一線から退いていた人々によって「部落解放運動の統一と刷新を求める有志連合」(有志連)が結成された。部落の内部からも解同の蛮行を批判するとともに、解放運動の正常化とその民主的発展を求める動きが急速に高まり、1974年から75年にかけての地方選挙では解同批判、公正・民主の同和行政をかかげる首長が生まることとなった。そして解同の反共・暴力の排外主義路線にかわる新たな解放路線として出てきたのが、日本共産党を中心とする「国民融和論」であった。


【「窓口一本化」を廻って抗争
 「同和事業」の実施を廻って解放同盟と日共が抗争し始めた。解放同盟は、「『同和』行政を実施するにあたって部落解放同盟と協議することは不可欠であって、『同和』行政の基本原則である。部落解放同盟は部落大衆の要求を組織して行政闘争を進めながら、同時に行政当局が要求を認めて『同和行政を実施するとき、これに協力するのである。我々が積極的な意味で『窓口一本化』と呼ぶのは、この『同和』行政の基本原則を指している」との立場に立った。

 これに対して、日共は「窓口一本化反対、強要粉砕」という立場に立った。日共の主張は、「こうした『窓口一本化』が、朝田一派の窓口を通さない多くの申請者に対する重大な新差別主義であり、『同和』事業の公正・民主的な推進の破壊であることは明らかである。それに、朝田一派が、『同和』事業の『窓口一本化』を足場に、ピンはね、強制寄付の取り立てなどによって利権を追及していくものであることは、74年9月23日付赤旗論文が指摘したように、大阪府をはじめ全国の実例が示している」との論理であった。

 代わりに主張していることは、概要「不公正な同和行政のあり方を是正してゆく当面のカギは、実情にそぐわぬ解放同盟への窓口一本化を改め、正常化連や全日本同和会、更に第三者としての学識経験者なども含む新機関を発足させることである」との立場を披瀝していることにある。加えて、「研修会」の実施に対して、「特定イデオロギーの押し付け」、「思想テスト」なる批判を加えている。


【「狭山裁判闘争」を廻って】


【日共系の理論的反動化が進む】
 1974(昭和49)年4月、6百万人の労働者が加わった春闘史上最大のゼネストが打たれ、日教組も史上最大の全日ストを打ち、幹部が地方公務員法違反で逮捕されるという刑事弾圧のさなか、日共は参議院選挙を前に「教師は子どもの人格形成にかかわる聖職。労働条件が十分整わなくても、国民の教育への要求にこたえねばならない」と「教師聖職論」を『赤旗』紙上で展開した。

 以後、「教師聖職論」、「公務員全体奉仕者論」(「自治体労働者は住民の奉仕者論」)や「国民に支持されないストライキ反対論」を展開し、、議会専一運動化を強めていった。この流れが社会党との抗争を激化させた。

 1974.8.26より5日間、「部落解放同盟・東京都連」代表集団が東京都民生局長室に押しかけ集団交渉に入った。8.30日東京都副知事・船橋氏始め同和対策関係理事、関係17局長、部長らを交え、「確認書」が手交された。その内容は、@・同和対策事業の一つである「応急生活資金」の実施に当たっては解放同盟の意向を尊重しつつこれを進め、事業説明会を開催する。A・東京都台東区にある都立産労会館を1ヶ月間宿泊を含む独占使用を認め、「狭山闘争現地本部」の設置を認める。B・議会に狭山事件の公正裁判要求決議を提案する等々。

 1974.9月狭山事件裁判闘争。解放同盟と中核派の共同闘争が進み、都立産労会館に「狭山現地闘争本部」が設置された。これに対し、日共が猛然と抗議している。曰く、「地方自治法の諸規定や会館設置条例などに明白に違反する違法行為」。なお、9.16日革マル派が「狭山現地闘争本部」に出入りする中核派政治局員・谷翰一氏を会館内でテロるという事件が発生している。


【日共系「国民融合をめざす部落問題全国会議」結成される】
 1974年9月、正常化連、有志連をはじめ全日本同和会、民主団体など、部落内外の人々によって「国民融合をめざす部落問題全国会議」(国民融合全国会議)が吹田市で開かれた。国民融合全国会議は「政党政派を超越し、思想・信条の違いにこだわらず、ひろく正義と民主主義を愛する団体・個人を結集し、真に自由・平等の民主日本を建設することによって、部落解放=人間解放を達成しようとする」もので、「差別と暴力」「地方自治の破壊」「公教育の破壊」「地域住民を分裂させる策動」「民主統一戦線を分断する策動」への反対と、「全部落的な大同団結と国民融合の促進」「部落解放運動の正常化と公正民主的な同和行政の確立」「正しい部落解放理論の普及及び同和教育の発展」という3つの柱を中心に活動を進めることを決めた。
 

 9.13日不破書記局長が美濃部都知事と会談。「確認書」を都知事としては確認していない、解放同盟サイドでの同和行政を行わない等々の誓約をさせられている。この頃、日共は赤旗に連続して次のような主張ないし論文を連続掲載している。1974.9.10日「革新都政と相容れぬもの−『解同』問題への態度を廻って」、9.14日「暴力・脅迫と正義」、9.23日長大論文「『解同』朝田一派の革新都政に対する挑戦」、9.30日「朝田一派との『約束』は公正の原則と両立しない」、10.3日「朝田一派の行政介入許さず革新都政の根幹まもれ」、10.5日「応急生活資金での差別扱いは憲法、自治法違反」、「都知事は勇気と決断をもち公正な同和行政を」、10.9日「『解同』朝田一派の『追加見解』と新差別主義」、「朝田一派への屈服は革新都政の『自殺行為』」。


「八鹿高校事件」発生
 1974(昭和49).11.18日兵庫県養父郡八鹿で「八鹿高校事件」が発生した(「八鹿高校事件考」参照の事)。


 解放同盟の「1974年度一般運動方針」は、「東京都連は日本共産党差別者集団宮本一派によって長らく融和主義のもとに置かれていた。昨年8月、都連大会において新しい指導体制を確立、融和主義を一掃した」と述べている。


【日共系が「国民融合」化運動に乗り出す】
 1975(昭和50)年から1985(昭和60)年までの時期、日共系の「国民融合」化運動が押し進められている。日共系は、解放同盟運動にことごとく敵対し、「公正・民主的な同和行政」を目指す運動を展開している。

 1975年3月戦前からの部落解放運動の中心的な活動家7名(阪本清一郎、上田音市、木村京太郎、北原泰作、岡映ら)の呼びかけで、「部落解放運動の現状を憂い正しい発展をねがう全国部落有志懇談会」が開催された。

 同年9月には部落内外の民主団体・個人を網羅した「国民融合をめざす部落問題全国会議」が結成された。初めて「国民融合」が運動のスローガンとしてとりあげられるた。


「部落地名総監事件」発生
 1975年11月、全国の被差別部落の地名・所在地・戸数・主な職業などを記した出版物「地名総鑑」がダイレクトメールを使って企業人事部宛てに販売されていることが明らかになった。ダイレクトメールの内容は、採用において被差別部落出身者を排除することをそそのかすものとなっており、1冊5000円から5万円程度で販売されていた。これを「部落地名総監」事件と云う。

 1977年より、部落解放同盟は組織をあげて糾弾闘争に取り組みました。この事件の反省を契機に企業での部落問題や人権問題の啓発・研修が広く行なわれるようになりました。また、行政機関による採用差別を防ぐための啓発、地方自治体での身元調査を規制した条例の制定など差別撤廃にむけた取り組みが前進しました。


【日共系の「全国部落解放運動連合会」(全解連)が組織される】 
 1976.3月、1970年に結成された「正常化連」を「全国部落解放運動連合会」(全解連)と改組し、解放同盟系部落解放運動と公然と敵対する新組織を結成し、国民融合論にもとづく独自の運動づくりを目指していくことになる。全国28都府県連からなる全国組織として発足。翌年3月には正常化連が共産党の支援を受け、全国部落解放運動連合会(全解連)に改組。「部落住民の社会的、文化的、経済的地位向上と基本的人権の確立によって、完全解放を実現させるために、要求を基礎に大衆闘争、組織建設を前進させ、統一戦線の一翼として活動する」とともに「部落解放運動に重大な逆流をもちこんできている朝田一派の部落排外主義、反共・分裂主義、暴力、利権あさりの策動にたいするたたかいをつよめ、部落解放運動の正常化を一日も早く達成する」ことを課題とし、運動をすすめることとなる。

 
部落解放同盟、全国部落解放運動連合会、そして全日本同和会を加え、戦後の解放運動は3つに分裂。三団体並立状況が生まれ今日に至ることとなる。

 日共の部落解放同盟との抗争史上の拭いきれない汚点が次のことにある。解放同盟を批判することはまだ良い。分裂組織を作ることも認めるとしようか。問題は、ありとあらゆるデマ、事件捏造のナチス的プロパガンダで大衆運動を指導していった負の歴史である。


【解放同盟の「同盟休校」と日共の猛反発
 1976.5月頃、解放同盟は、狭山闘争支援の為の「5.22同盟休校」を呼びかけていた。これに対して、5.14日日共大坂市議会議員団(団長・安達喜雄)が、「『解同』朝田・上田派による公教育破壊の『5.22同盟休校』に厳正な対処を要求する」なる文書を各方面に郵送している。その内容を見るに、@・概要「『同盟休校』は、公教育への介入、破壊であり、正常な教育に全力を挙げねばならない」。A・概要「『同盟休校』同調者に対しては、厳正に指導、対処すること」。B・概要「『同盟休校』に関与する公務員の勤務時間内の集会、研修、出張などの行為を認めない」という文面が認められていた。

(私論.私見)、「『解同』朝田・上田派による公教育破壊の『5.22同盟休校』に厳正な対処を要求する」文書の反動性について

 解放同盟の「5.22同盟休校」指針の是非は別にして、日共のこの反動理論は度が過ぎよう。あたかも文部省の勤務評定以来の管理政策を容認し、それを「左」から強化せんと促しているではないか。その@の「教育正常化論」、そのAの「関係者厳正処罰論」、そのBの「闘争抑制論」そのどれをとっても反動的ではないか。



【「特別措置法」の制定と延長 】
 「特別措置法」は10年の時限立法であり、1979年3月31日で期限がきれることになっていた。たたかいは、同和対策事業特別措置法強化延長へと発展していきました。全国大行進に呼応して各地で集会や行政交渉がとりくまれ、政府にたいする交渉も積みかさねられました。こうした運動の結果、1979年10月、特別措置法の3年延長が国会で決議。1982年からは、5年間の時限立法として「地域改善対策特別措置法」が、1987年、同じく5年間の時限立法として「地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律」が施行されました。


【「宗教者との糾弾闘争」 】 
 1979年、「世界宗教者平和会議」で全日本仏教会理事長の町田宗夫さんが、日本の部落差別の存在を否定し、差別解消にむけた取り組みを否定する発言をしたことに対する糾弾闘争は、日本の宗教界全体の差別体質を明らかにし、宗教界の差別解消にむけた取り組みを促進し、「同和問題」にとりくむ宗教教団連帯会議が結成されたのである。町田さんは「私は5回の糾弾で、お陰で自分の心の深層部を見つめさせてもらう機会を得たことを感謝しています」と述べている。


【「国際人権規約を批准」 】 
 1979年日本政府は国際人権規約を批准した。国際人権規約は差別の撤廃を最重要課題と位置づけ、法律の整備を含む抜本的な取り組みを各締約国に求めている。


【「エセ同和行為、運動が跋扈」 】 
 80年頃から同和団体が急増。多くが暴力団・総会屋・右翼団体からの転向組で、行政・企業に圧力 をかけて利権をあさる「えせ同和行為」が問題となった。


【地域改善対策特別措置法(地対法) 】
 同和対策の諸法(時限立法)の切り替えに伴い 「同和」の呼称が「地域改善」に変更された。

 1982(昭和57)年〜1987(昭和62)年、同対法施行13年間の成果をふまえながら、なお残された課題を解決するため、より一層の国民の理解と協力を得るという観点から、新規立法として制定され、5年間の期限で施行された。


【「」 】
 1985(昭和60)年から今日までの時期で、公正・民主的な同和行政への転換が強く求められ、「特別対策から一般対策への移行のための最終法」として「地域改善財特法」が制定・施行されたのを契機に、同和対策事業の総括と部落問題解決の到達段階をふまえて、同和対策事業を可及的速やかに完了・終結させて一般対策へ移行させ、可能なかぎり一般対策の行政水準を引き上げる方向が、部落解放同盟などの同和対策事業の半永久的な継続実施を求める主張に抗して追求されるにいたった時期であり、「同和行政の終結期」として特徴づけられます。 


 部落問題の根本的解決を図ることを目的とした「部落解放基本法(案)」が、1985年5月、「部落解放基本法」制定要求国民運動中央実行委員会によって発表されました。この委員会には、行政、労働組合、企業、教育、文化関係者、宗教者、民主団体など、部落問題の解決ならびに人権社会の確立に向けて取り組みをおこなっている、各界の多くの人々が参加しています。

 1986年各省庁・警察に日弁連も加わり、 えせ同和行為対策連絡会議発足。以後、共産党の解同に対する批判材料に また、全日本同和解が幹部の不正・利権活動により分裂。 自民党は全国自由同和会(全自同・会員4万人)を支持。  解同:旧社会・公明・民社系。20万人。全解連:共産党系。8万人


 1987(昭和62)年「全解連」は第16回大会で綱領的文書「21世紀をめざす部落解放の基本方向」を採択。「部落問題が解決された状態と、解決を実現する道すじを科学的に明らかにし、『平和と独立、民主主義と国民生活擁護のための広範な国民運動の一環』として国民的な協力・共同を前進させるとともに、『部落解放の最終責任をにないうる主体の形成』の必要性を提起しました」と自賛している。

 さらに全解連は、その後の運動の展開と部落問題解決の到達段階をふまえて、地域改善財特法の期限切れを待つまでもなく、同和対策事業を早期に終結させて一般対策へ移行させ、憲法の保障する暮らし・福祉・教育などの行政水準の充実・引上げを部落内外住民の共通の要求にもとづく共同の運動で実現させていく方針を提起するとともに、1994(平成6)年からは国民へのアピール「日本国憲法をまもり、いまこそ部落問題の解決を」の300万人署名運動に取り組んでいます、とある。


地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律(地対財特法)】
 1987(昭和62)年〜2002(平成14)年。一般対策への円滑な移行のための最終の特別法として制定されましたが、1997年(平成9年)3月31日の改正において、特別対策は1997年(平成9年)3月31日をもって終了することを基本としつつ、真に必要な事業に限って5年間の経過措置が講じられた。


 1996年に日本政府は人種差別撤廃条約を批准する。同条約では、差別を禁止すること、差別の結果、劣悪な実態が存在していたならば特別の積極的な施策を実施すること、差別意識を撤廃するために啓発活動を活発に展開することなど、国際人権規約よりもはるかに具体的に、各締約国に存在している差別の撤廃を求めている。国際人権規約や人種差別撤廃条約のいわば国内法として、部落問題については「部落解放基本法」が求められています。


●21世紀を「人権の世紀」へ

 現在、部落解放同盟は過去幾多の試練に耐え、第3期の運動を広範な人々とともに進めようとしている。第1期の運動とは、日常公然と存在していた過酷な部落差別に対して果敢な糾弾をおこなった水平社時代の運動であり、第2期の運動とは、部落と部落大衆のおかれている劣悪な生活実態を差別の結果ととらえ、地方自治体や政府に対してねばり強く行政闘争を展開してきた戦後の運動である。そして、1980年代以降、第1期、第2期の運動をも包含しつつ、連帯・共闘を中心とした第3期にはいっている。

 部落解放運動とは、一つ一つの個別・具体的な実態から出発し、一つ一つの個別・具体的な成果を勝ち取りながら、それをあくまでも手段とし、本来の崇高な目的である部落差別をはじめ一切の差別からの解放をめざし、「人類最高の完成にむかって突進」(1922年・水平社綱領)していく運動である。今後、部落解放運動はこれら一切の差別撤廃を求める人々との共同闘争を強め、さらに今日のグローバリゼーションの時代に対応し、世界各地で差別と闘っている人々との連携を強めながら、21世紀を真に人権の確立された民主社会とするために、努力を続けていかなければならない。

 そして、そのための取り組みはすでに開始されている。1988年に部落解放同盟が提唱し、世界各地で差別撤廃にとりくんでいる人々とともに創立した反差別国際運動(IMADR)の活動である。反差別国際運動は、1993年に国連経済社会理事会との協議資格を持った国連人権NGOとして承認された。部落解放同盟は、この運動にも積極的に参加し、一切の差別が撤廃された世界の構築をめざしている。





(私論.私見)


 当時の自民党がどのような方針を持っていたかは、1958年12月『部落解放運動
の最近の動向』(自民党同和問題議員懇談会)でまとめています。

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部落解放運動が「いわゆる民族民主統一戦線の一貫としての共同闘争」として進むことが何より危険だ。勤評闘争で部落解放同盟が「勤評は差別を助長し同和教育の障害になる」として和歌山その他で共同闘争をしていたことを重視し、これが「勤評評定反対のような社会運動、政治運動等の権力闘争の統一行動に結びつき、高められていくことに強い警戒感をもっている。さらに解放同盟が日本共産党の部落対策路線に接近しつつあることも着目する。しかし、全体としては「まだ解放同盟の組織は、それほど強固なものではないと思われる」。強力な運動体になる前に先手を打つべきだ。
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 背景には、自民党が「国民の間で進みつつあった革新共闘の一層の発展をくい止め、そこから部落解放同盟を脱落させようとした」ことがあります。

 1959年6月に自民党治安対策特別委員会が作成した「国家の安全保持に関する意見(案)」では次のように言っています。
「資本家、企業家は、いわゆる資本主義的悪弊を改め、労働者はマルクス・レーニン主義的階級闘争思想を排脱して、労使双方が国民経済の中におけるそれぞれの任務を自覚し、相互に立場を尊重する健全な労使慣行を確立すること」。

 この案は、勤評闘争に見られる国民の幅広い統一行動の発展を前にして、これを分裂・弱体化させることをめざして作り上げられた方針で、具体的には、「全日本同和会」の育成としてでてきました。会が結成されたのは、安保闘争が頂点を迎えていた60年5月10日、まさに部落解放同盟が三池炭鉱争議に連帯して運動を強化しつつあった時期のことです。同和会の結成大会宣言には、「左右の階級独裁を排し、国民を分裂・構想に導くような階級闘争はとらない」という言葉が入れられています。

 とくに60年の安保闘争の絶頂期の6月17日に作成された「当面の公安情勢の分析とその対策」では、「当面は、共産党、容共分子の孤立化を図ることを方針とすること」と述べています。

 もう一つは、自民党側からの同和対策の積極化という形あらわれてきました。政府同和対策予算(補助金と特別交付金)を「地域住民の自覚と積極的協力を基とした受入態勢」のある地域を「モデル地区」として重点的に投下し始めました。住民の「自覚と積極的協力」というのは、住民の下からの部落解放運動がないこと意味する言葉でした。

 6月17日の提案が出てから2ヶ月後に同和対策審議会設置法が公布されました。同和対策のイニシアティブをとったのが、ハト派ではなく、勤評闘争や安保闘争の対処の先頭に立っていたタカ派「素心会」グループであったこともうなずけます。素心会は、安保闘争や同時に進行した三井・三池炭坑争議に特別鋭い関心を示し、緻密に情報を集め、周到な分析を加えていました。

 アメリカ政府もこの路線を支持・応援しました。ホワイトハウスで作成された文書では池田内閣を「反政府派の社会主義者に最も巧妙に対応してきた内閣であり、それは社会福祉計画と生活水準向上のための諸政策により大きな力点を置くようになったし、かつこれを通じて左翼勢力を封じ込め、徹底的に孤立させ、公的活動からしめだすことを目指している」と評価されています。

99 名前: & (70zeVo/k) 投稿日: 2004/04/25(日) 18:22
 結論は1961年3月27日付自民党治安対策特別委員会文書「国民に対する指導理念確立に関する件」にまとめられています。その具体策として「福祉国家建設のための政策を勇敢に実施」することが提唱され、「健全な国民運動」を組織して、革新的な民族民主統一戦線が強大化するのを未然に防ごうとし、そこで同和対策の具体化を急いだのです。

 この「左翼勢力を封じ込める」という方策は、部落解放同盟の中の活動的な勢力もその対象とするものでした。自民党は解放同盟内に「思想的対立が深刻化してきた傾向」(全日本同和会第3回大会資料1962年4月)のあることを察知し、その指導部主流を補助金行政への道へと誘導して、活動的な勢力を孤立させようとしたのです。同和対策審議会の設置や運営に重要な役割を果たした山本政夫氏は「朝田君は、まあ物取り主義結構じゃないかと言っていた」と証言しています。ロストウ路線に通じていた当局者は、このような物取り主義者たちを補助金行政=開発行政によってたやすく「若い指導層の新しい源泉」にかえることができること気づき、自信をもち始めました。

100 名前: & (Fm7GU/Nk) 投稿日: 2004/04/25(日) 18:24
 その実例とは、1961年10月、愛媛県で部落解放同盟が、自民党が主導権を握って組織された県同和対策協議会に吸収合併されたことです。愛媛県は、勤評政策を先導的に試行して自民党の新しい地域支配の実験場として位置づけられました。このことは、たとえ部落解放同盟を名乗る勢力であっても、一定の条件を与えれば地域支配の有力な一翼を担う勢力へと変質することを証明したのです。

 このようにして自民党は、同和対策事業を地域ボス主導の方向で推進すれば、革新的統一戦線を打ち砕くことができることを知りました。また解放運動指導部の一部を開発行政の担い手に変えて地域支配を補強することができることに気づきました。

 他方、活発になってきた要求実現運動(請願運動)=活動的な勢力に対しては、弾圧を加えました。以下の府県は解放同盟が活発な地域で、しかも教組、全日自労、生活と健康を守る会など共同闘争を組んだ支部に向けられました。それは住民に根ざした戦闘的な支部に痛打を加えるもので、解放同盟左派を孤立化・弱体化させるものでした。



101 名前: もっこす (08EeniEM) 投稿日: 2004/04/25(日) 18:26
 1962年5月24日、興津事件が始まる6日前、高知県同和対策審議会の初会合が行われました。この審議会に知事が「同和関係団体の一本化を促進し、同和行政
の運営を円滑にすること」諮問しています。この意味は第一に、行政側の審議・決定した予算や計画を「円滑」に実施する態勢をつくりたいということであり、一旦決定されたことに対して住民側が意義や抗議をすることを許さないようにし

たいということです。第二に同和対策事業の窓口を一本化できるよう同和関係団体を統合したいということです。興津事件を推進するような戦闘的な組織は排除し、愛媛のように解放同盟と融和団体との合併をはかってそれに同和事業の実施をゆだねたいということです。解放同盟の右派を政府・自治体に引き寄せ、右派と同和会とが協力し解放同盟の左派を押さえつけながら同和対策予算による施策を実施するという構造なのです。

 大阪府では同和対策審議会で、府会議員、同和事業促進協議会4名、解放同盟府連3名によって審議が進められているうちに、識字運動をはじめ住民に根ざした活動を発展させていた蛇草では「暴力行為」を理由に支部が手入れを受けるありさまでした。同じ解放同盟に入っている人々であっても、あくまで住民の要求に密着して運動を進めようとする勢力は弾圧を受け、「物取り主義結構」とする勢力には審議会のポストが与えられたのです。

 このように運動への一定の譲歩を装いながら、実は解放同盟の右派的な指導者を「開発行政」の担い手の隊列に加え、これを手なずけようとする動きでした。そしてこの動きが右派的指導者を官僚化し部落解放運動を変質させる効果は、驚くほど早くかつ顕著に現れました。同和対策審議会答申やそれを具体化した同和対策事業特別措置法は、この動きの全国化でした。(続く)