現在読んでいる最中ですが、これ非常に良い書籍です。冷静な観点から若者たちの状況を浮き彫りにしています。
ひきこもりと自己責任
特に面白かったのは、「ひきこもり」に関する以下の指摘。
疲弊するまで相談機関を訪れないのは、彼ら(ひきこもり)の多くが自分で問題を解決しようとして、いたずらに時間を過ごしてしまうからである。
また、彼らは働いていないことについて過剰な罪悪感を抱えており、相談機関を訪れると自立していないことを責められてさらに傷つくのではないかと恐れるからであり、あるいは他者に援助を求めることを自己管理の破綻と考えるためである。
ある意味では、「ひきこもる」という行為は過剰に自己責任にとらわれた結果であるといってよい。それは誰にも頼らないで態勢を立て直そうとする試みであり、それ以上自尊心を失わないために自己管理に専念した結果であるといえる。
しかしこの戦略をとった場合、社会とつながるための選択肢は徐々に失われていき、やがて身動きのとれない状態に陥らざるをえないのである。
「ひきこもり」というと自己責任の対極にあるようなイメージを抱いてしまいますが、そうではなく、彼らは自分で解決しようとしているからこそ、ひきこもり状態に陥っていると、著者は指摘します。
「自立せよ!」というメッセージは、本来「他人の手を借りながら、自立せよ!」とあるべきです。困窮状態にある場合、一定の「依存」がなければ「自立」は困難です。満身創痍の状態では、自立なんかできませんから。
しかし、社会が発しているメッセージ、そして当事者たちの受け取るメッセージは、「今の状態に陥ったのは自己責任だ、他人を頼らず自立せよ!」というものではないでしょうか。
ニート状態の若者など支援を長らくつづけている「育て上げネット」の工藤さんは、活動の中で「ニートたちを甘やかすな!」という批判の声をいただくそうです。こういう批判はまさに、自己責任論の立場から発せられているものですよね。
見方を変えましょう。ニートなりひきこもりなり、彼らは「自己責任を取っていない」のではないのです。むしろ過剰に自己責任を引き取り、自分の手でなんとかしようと思った末に、行き詰まって今の状態に陥ってしまっているのです。だとしたら、社会の側から手を差し伸べるべきです。でないと、救われないままです。
ちょいと話はそれますが、ぼくも時折ニートめいた生活をしているのでよく分かるのですが、「働かない」ってめちゃくちゃ辛いんですよ。
意外とそのことは知られていない気がします。筋金入りのひきこもり、勝山実さんは著書のなかで、「働かない生活」を送る人を「苦行僧」と表現しています。
働こうという気持ちが怠けパワーを生み出す。働かずに怠けることができますか。会社に行かず、ぶらぶらしている、社会的地位もない、自由すぎる存在で怠けていられますか。働きたくないから働かない、それを実行すれば怠けに慣れるというものではない、むしろ苦行僧。
困窮している人を前に、彼の現在の境遇を「自己責任」に帰着させるのは「ラク」です。だって、「人のせい」にするということですから。
本当の「大人」というのは、「それはわたしにも責任がある」と、「自分のせい」にできる人です。自己責任というものは、他人を責める道具ではなく、他者を包摂するために使うべきでしょう。
そんなわけで、こちら隠れた名著です。さらに読み進めていきます。