グダちゃん日報

湘南育ちの雑学大好きお兄ちゃんがアレコレかいてきます

地方論の反応に対する反応みたいなもの

 なにやら前の記事「インターネットは都市部と地方の格差を縮めたか」がやたらとバズっていて驚いている。普段は身内以外は誰も見ない泡沫ブログなのに、記事を公開したその日のうちに6300ものアクセスが殺到。記事は180を越えるはてなブックマークと、70近い「いいね!」と400ほどのツイート数を記録する自体に。ヤバいから!

 はてブに寄せられたコメントは賛否両論に・・・・と、ほんとに俺らしくない展開になっている。

 

 権威のある方の目にも留まってしまった。

 『ロスジェネ心理学』や『「いいね!」時代の繋がり』といった心理学に関する著書のある精神科医の熊代亨氏が、自身のブログ「シロクマの屑籠」内で俺のあの記事を痛烈に批判している。記事のタイトルは「国道沿いでも、若い人はネットをちゃんと使いこなしてますよ」というもの。で、この記事の内容が・・・

 

 「リンク先の筆者は、「湘南育ち」のシティボーイのようです。向日葵が太陽の方角ばかり向いているように、定めし、東京だけを見つめ続けた思春期を過ごしてこられたのでしょう」

 「地方のヤマダ電機やイオンには、あまり足を運んでいないと推察します。だから(中略)浦島太郎みたいな事をネットに書いて平然としていられるんでしょう          ふざけんな。

 「私のようなネイティブ田舎者からみても田舎者っぽい時間感覚にみえてしまいます」

 「時代遅れのロードサイド論をシティボーイにしたり顔でやられると、噛み付きたい欲求がムラムラ沸いてきます……」

 

・・・・という調子で、つまり内容の是非というよりもシティーボーイ?でありながら好き勝手に論評してしまった俺自身にかなりご立腹されているようで、いまこうして戦慄しながら「反応を示さないとやばいかな」と思って急きょ記事をしたためている。

 

 これはヤバイ。

 茅ヶ崎駅北口を降りて目の前にある最初の大型店が黄色い壁でお馴染みのヤマダ電機テックランド茅ヶ崎店であることや、その道をさらに北上するとジャスコがあることや、そのジャスコの裏にはフレスポ茅ヶ崎があることなど、立地条件が駅前市街地なだけで地方都市ロードサイドでおなじみの店舗が地方とまったく同じ外観で建っている事実がバレた日にはさらなるお叱りを受けそうな気がして本気で悩ましいところだ。

 

 そんな店舗を日頃より利用して、東京なんて小中学生時代は月に数回週末に友だちと行ったくらいだったことといい、シティーボーイ何それ的な気質さえあるのが俺だったりするんだけど。

 

 もちろん湘南とて地方から見れば「東京と一緒に見える」というのは地方に住む親戚や大学の地方出身の同級生の声から分かるのだが、だからこそ、東京都心的な「本当の都会」でもなく、それでいて地方の田舎とも違う「中庸としての郊外ベッドタウン」育ちの俺だからこそ、地方論を書いてみようかと思ったのが趣旨だったんだけど、それがどうもアテが外れてしまったらしい。

 

 熊代亨氏は「地方ではスマートフォンが普及している」という事実を強調している。どうやら俺が「スマートフォンが地方ではまったく普及していない」と思っているんだと勘違いされているようだ。

 

 でも、記事の中でそんな断言は一度もしていない

 

 確かにスマートフォンの普及は都市部に比べ後発的だったと思うけど、俺はもとより、ツイッター上で地方でも最近はスマートフォンが普及しているということを話題にしていた。要は、ゼロ年代以降のガラケー的に成熟した文化がそのままスマートフォンの時代になっても引き継がれている、と言う認識である。

 記事ではさらっとしか触れなかったけど、その象徴が「LINE」である。これははっきりいって首都圏よりも地方の方が普及が早かったと思う(具体的な論拠がないからどうこういえないが)。これは「地方ガラケー型のネット文化」のノリがそのままスマートフォンに受け継がれた象徴的なアプリだと思う。だからあそこまで流行ったんじゃないだろうか。

 

 さらに氏はこう指摘している。

「耳を澄ますと、『パズドラ』や『艦これ』の会話もちゃんと聞こえてきます。パズドラは2012年のリリースですし、艦これに至っては今年のリリース。でも地方の学生はちゃんと食いついている。」

 重ねて言い訳がましくなるが、こんなことはわかりきっているのだ。前の記事で地方ほどユーザが多いと引用したモバゲータウンは携帯電話向けのゲームポータルで、典型的なガラケー文化の1つである。モバゲーやGREE的な「ガラケーゲーム文化」があるから『パズドラ』や『艦これ』のヒットしている現状があるのではないだろうか。「地方の学生はちゃんと食いついている」という指摘は最もだが、もっといえば彼らこそコアのターゲット層で、都市部の若者は寧ろ遅れているんじゃないかとすら思う。東海道線ではガラケーを未だに使う若者は多い。高校生でも少なくない。自分もその1人だし

 俺が記事で指摘した「いくら地方がデバイスの普及が後進的だとしてもスマートフォンが急速にシェアを拡大しているこの現在であっても情報環境は「ガラケー的な画一的な閉鎖環境」から抜け出せていない」というのは、このゲーム文化もその1つであるという意味をしめしているのだ。そのあたりを誤解されてしまったようだ。

 

 さらに氏は、若者とSNSの関係についても「反論」している。

 

 「若い人はフェイス・ブックやtwitterをバンバン使っています」

 「地方のtwitterフェイスブックの利用が内輪に限られているったって、人間関係が充実していれば、内輪だけでもいいじゃないですか」

 「知らない人とコミュニケートするほうが珍しくて、どこか風変わりなんじゃないですか?」

 「知らない人とtwitterしたりモシモシしたりするのが情報格差の上等とは、私には思えません。そういう事をやっているけれどもちっとも上質じゃないインターネットをやっている人もいれば、SNSを内輪中心で使っていても素晴らしい情報生活をおくっている人もいるのですから――ほら、あのtwitterユーザーを、このブロガーを見てご覧なさい、あれのどこが御立派なインターネットなんですか、どこが都市文化ですか。恥ずかしいインターネットをやっているやつは、どこにでもいるものです」

 

 全くもって誤解されているようだ。

 この反論文だけを見ると、まるで俺が「地方の若者はTwitterFacebookを使っていない」と思い込んでいて、さらに「少数のSNSユーザも内輪でしかつながらないことは下等だ」といっているかのようだ。

 

 TwitterFacebookは地方でも間違いなく普及している。Twitter東日本大震災の際にライフラインとしての価値が注目され、大きな話題となった。この頃からNHKや新聞などのマスメディアもTwitterに関する話題を頻繁に報じるようになり、地方の高齢者層でも存在を知ることになったと思う。被災した東北は典型的な「衰退する地方」である。遅くともこの頃までには「Twitter」を知らない人たちは地方であろうと殆どいなくなったはずだ。ちなみにFacebookはローンチ当初は日本ではまったく知名度はなかったが映画「ソーシャル・ネットワーク」のブームの際に爆発的に普及したと記憶している。

 

 内輪の中でコミュニケートをするのみのネット利用であっても、それで生活に不便がないのなら、楽しいのなら、まったく問題ないと思う。でも、それのみに固執することが多様性の広場としてのインターネットの価値を彼らから取り上げているのではないか?という疑問を提起したまでだ。

 とまれネットの基本は玉石混淆である。知らない人とコミュニケートをすることは最大の価値なはずだが、それを、知らない人とのコミュニケートは「珍しくて風変わり」とレッテルで評し、「ちっとも上質じゃないインターネットをやっている人」「恥ずかしいインターネットをやっているやつ」を引き合いに、まるでネット上の多くは不穏な人間ばかりで、ネット上で異なる人間と知り合うことを「ならぬことはならぬものです」とばっさり否定するような主張は、どうも頂けない。

 

 都市部でもそうかもしれないが、地方ではいじめ問題が頻繁に起きている。大津での自殺事件のようにそれは陰湿化しているのだが、地方には「学校」以外の逃げ場はない。田舎であればフリースクールなども充実していないし、転校できるような私学も少ない。つまり、中高生にとっては「学校が人生」となる。

 もしも、何か打ち込む趣味があったとしても、その趣味を話すことのできる仲間は学校の中にいないかもしれない。けど、インターネットがあれば、地元の外や、もしかすると海外に「趣味縁」をつくることができ、そのコミュニティの中に属することができれば、そこに生きがいを見出すことができる。

 

 そういう画期性を否定するような、まるで「インターネットを通じて他人とコミュニケートすること」自体を忌憚する風潮が未だに地方に根強いことを、氏の批判から読み取ることができる。

 この精神風土こそが、デバイスやネットワークがいくら到達しても消えない地方社会の抱える最大の「格差」であると思う

 氏の「反論」の中にあるように、地方だろうとメディア環境がやたらに進んでいる人間も個人単位で見ればいるだろう。その逆に、いまだに自宅用のパソコンすら持っていない人間もいよう。人間性とか嗜好などの個人差はもちろんある。個別の環境の違いなど、そんなことは分かりきっているのだが、そんな個人差すらも超越してしまう一方的な概念の存在が、デジタル社会の上でも地域間の膨大な隔たりを作ってしまっているのである。氏の記事を引用したとあるツイッターユーザは「妥当な批判」としながら次のように考察している。

 

 

 

 

 また、氏は「信じられない」というが、「地方都市から本来のふるさと固有の文化や秩序がなくなり、ガラケー・テレビ・町外れのイオンが若者の基礎となったのは2000年頃から」であるのはれっきとした事実であろう。

 この頃、政令市に満たないような地方都市(中には郡部さえも)にジャスコをはじめいわゆるロードサイドの典型的な店舗郡が全国一律に設置されるようになった。

 ケータイ小説や、映画「悪人」がテーマとした出会い系サイトなどのガラケー文化が横行するようになった。

 

 5年経とうが、10年経とうが、ジャスコやガラケー文化を越えるオルタナティブが存在していないのだ

 ジャスコはそのブランドの名称をイオンモールに変えた。個別の事例を見れば、10年前の開業当初からリニューアルを繰り返したり増床をして変化しているケースもあるだろう。しかし、その本質が「ジャスコ」から進歩していないことは、明白だ。スマートフォンという新たなデバイスが普及しても、「ガラケー時代と同じく」プリクラのプロフィールを作り、ガラケー当時のモバゲー経験の延長線上で『パズドラ』や『艦これ』にハマるわけである。これを地方社会の格差の固定化と言わずして、なんと言おうか?

 「国道沿いでもネットをちゃんと使いこなしている」というのは前に記事を書く前から気づいている事実だけど、あえて重ねて言うが、「都市部と前提の共有をせずにガラパゴスに進化する地方文化」にヤバさを感じてしまうのだ。1990年代までなら、(もっというと高度成長期までなら)都市部だろうと地方だろうと同一の情報環境・生活環境・文化の土台があったはずなのが、この10年ちょっとでまったく別の国に変貌した事実に「ヤバさ」を感じるわけだ。

 

 

 最後に、現在の地方社会をなかなかうまく表したようなツイートを引用して終わりたい。