取材・文/ 松本創(ジャーナリスト)
【前編】はこちらをご覧ください。
「誤報」発言をなぜ問わないのか
囲み取材をこの目で見てみたい、そして、橋下と在阪メディアの関係を検証する必要があると私が考えたのは、例の「従軍慰安婦」発言から1週間も経ってからだった。実を言えば、最初の発言そのものにはさほど関心を払わなかった。彼ならそういうことを言うだろうな。そう思っただけである。
居酒屋あたりで居合わせたおやじ客に、マッチョで身勝手な下卑た話を聞かされたような不快感は少なからずあったが、過去の発言や振る舞いを見れば、彼の人間観や女性観、人権感覚とは「そういうもの」であろうことは想像できる。発言内容の是非はともかく、「異論や批判を恐れず"本音"を率直に語る」物言いやキャラクターが彼の身上であり、それゆえ一部の人びとに熱狂的に支持されてきたことも知っている。
それに5月13日の発言全文を詳細に読み、会見の動画を見てみると、文章構造上の解釈や含意の受け取り方はさまざまあるとしても、巧妙に表現を選んでいるように見えた。問題の発言箇所は、記者の一つの質問に対し、10分以上もかけて持論を述べ立てる中にあった。
「認めるところは認めて、やっぱり違うというところは違う。世界の当時の状況はどうだったのかってこと、やっぱりこれは近現代史をもうちょっと勉強して、慰安婦っていうことをバーンと聞くとね、とんでもない悪いことをやってたっていうふうに思うかもしれないけども、当時の歴史をちょっと調べてみたらね、日本国軍だけじゃなくて、いろんな軍で慰安婦制度っていうものを活用してたわけなんです。
そりゃそうですよ。あれだけ銃弾が雨嵐のごとく飛び交う中で命かけてそこを走っていく時にね、そりゃあそんな猛者集団と言いますか、精神的にも高ぶってるような集団をやっぱりどこかでね・・・その、あのー・・・まあ休息じゃないけれども、そういうことをさせてあげようと思ったら、慰安婦制度っていうのは必要なのは、これは誰だってわかるわけです」
何かのスイッチが入ったように滔々と淀みなく言葉を繰り出しながら、また、ふつうの政治家なら慎重に構える話題を挑発的に語っていながら、言葉尻をとらえられたら、どうとでも反論や言い逃れができるような表現だと思った。かつて『最後に思わずYESと言わせる最強の交渉術』なる指南書を出版し、「詭弁も、言い訳も、うそもあり」と堂々と説いてみせたほど、弁舌に絶対の自信を持つ橋下らしいと言えば、橋下らしい。
挑発的な言動で注目を集め、批判されれば天才的(いや、悪魔的というべきか)な論争術を駆使して反駁する---という手法。この時も、当初は"独演会"の成功に彼自身満足していたのかもしれない。
「従軍慰安婦」発言がまず当日の各紙夕刊で報じられ、さらに「風俗活用」発言も合わせた続報が載った5月14日の朝刊段階において、橋下はツイッター上で新聞報道をこう評していた。
〈批判の急先鋒に立つ朝日新聞も、僕の発現(※原文ママ)を比較的正確に引用してくれていた〉
〈毎日新聞も僕に対する批判の急先鋒だが、かなりフェアに発言要旨を出している〉
〈これから選挙も近づいてくるので、色々煽ってくるでしょうが、それでもこの毎日の一問一答がある意味全て〉
ちなみに、新聞各社のニュース判断は初報段階から温度差があった。橋下が「批判の急先鋒」と見なす朝日と毎日は揃って一面や社会面で大きく扱った。大阪本社最終版の見出しと扱いは、それぞれこうだ。
【朝日】
13日夕刊1面 = 橋下氏「慰安婦必要だった」/「侵略、反省・おわびを」
14日朝刊第一社会面 =「慰安婦は必要」波紋/橋下氏発言/市民団体「声聞いて」 研究者ら「国益上危険」
【毎日】
13日夕刊1面 = 橋下氏「慰安婦必要」/第二次大戦中 軍隊休息の制度
14日朝刊第一社会面 =「女性への冒とく」/市民団体憤りの声/歴史認識疑問視も
両紙とも発言を報じた本記と、市民や関係者の反応をまとめた雑感に加えて、社会面に発言要旨や一問一答、研究者らの談話を載せ、3面などで中央政界への影響や反応を展開している
これに対し、読売と産経の初報はいずれも夕刊2面という地味な面で、「いちおう入れておいた」という程度の小さな扱い。読売の14日朝刊は「慰安婦拉致への日本政府の関わりを橋下氏が強く否定した」という内容がメインで、「風俗活用」発言には文中で短く触れるのみだった。
しかしいずれにせよ、橋下は最初のうち、発言の報じられ方に満足していた。テレビのコメンテーターに向けては「全文を読め」「小金稼ぎのコメント」などと不満を露わにしていたが、少なくとも新聞報道に対しては「よく書けている」と言わんばかりだった。言い分が180度変わったのは15日昼前に投稿したツイッターからである。
〈朝日新聞が批判の急先鋒に立つのは分かるが、今回の報道はフェアじゃない。僕はフェアかアンフェアかを重んじる。朝日新聞は見出しで、僕が「現在も」慰安婦が必要だと言っているような書き方をしている。これは汚い。僕は「当時」は世界各国必要としていたのだろうと言ったのだ〉
事後の説明によれば、朝日の14日朝刊社会面およびネット掲載時の見出しを指しているのだという。その当否はともかく、橋下はここからはっきりとメディア攻撃に転じた。「反発を招いた責任は自分の発言にはなく、メディアの報じ方にある」と主張し始めたわけだ。
17日退庁時の囲み取材では、朝日の記者が言葉遣いの不用意さを指摘したことに激昂し、「じゃあ囲み全部やめましょうか」「一言一句全部チェックしろと言うんだったらやめます」と打ち切りを宣言。去り際に「今回は大誤報をやられたんでね」と言い放った。
ところが、土・日曜を挟んだ週明け20日の退庁時、橋下はまたこの場に現れた。そして、記者たちは「誤報」と断じた理由を質すことも、抗議することも、謝罪や撤回を求めることもなく、いつものように彼を囲み、彼の主張に粛然と耳を傾け続けたのである。冒頭で橋下が語った囲み取材再開(実は一度も中止になっていないのだが)の理由はこうだ。
「このまま市長を辞めるまで囲みを受けないわけにはいかない。どこかで再開する時に、期間が開いてしまうと、自分のメンツを気にしていろんな理由を付けないといけない。そういう状況になるぐらいだったら、早く再開してしまったほうがいい」
意味がわかるだろうか。正直、私にはよく意味がつかめない。いや、日本語として理解はできるが、理由にも何にもなっていない。その日の夜遅くネットでこのニュースを見た私は驚いた。記者たちはこれで納得したのだろうか。いや、それ以前に彼らはなぜ橋下の「大誤報」発言に反論しないのか。
メディアの根幹である報道の信頼性を毀損する問題である。どこがどう誤報か、説明を求めないのか。当初「正確」「フェア」だと言っていたのが豹変した理由を尋ねないのか。何より、記者たちはなぜ再びいそいそと囲み取材に集まるのだろうか。こんな放言を不問に付したまま。
橋下とメディアは"共依存"に陥っている
橋下は囲み取材打ち切りを宣言した晩から週末にかけて、例によって憑かれたようにツイッターに大量の投稿をしている。朝日の記者を名指しで批判し、報道のあり方について講釈を垂れ、毎日に対しても「頭悪い」「バカ」などと罵詈雑言を浴びせた。にもかかわらず、囲み取材再開に当たって、両社ともこれに抗議や反論をした様子はない。
それどころか、橋下の怒りを買った朝日の記者は「一言一句、全部正確にしゃべれと言ったつもりはございません」と自身の発言を釈明し、同社の別の記者はそれに重ねて「(慰安婦制度が)必要とは何だったのか(どういう意味なのか)質すべきだった」と、取材の至らなさを反省する弁まで述べていた。
若気の至りで教師に食ってかかった優等生が我に返り、友人の援護を得て謝罪している---そんなふうにも映る2人の記者の釈明を、橋下は敢えてなのか視線を外し、鷹揚に構える教師のように何度も頷きながら聞いていた。
なんなのだ、この絵は・・・。いくらなんでもこれはないだろう。ネットで動画を見ながら、私はこんなものを見ている自分自身が屈辱的な気分になった。
この囲み取材という場は完全に橋下に支配されている。「取材」などではなく、ありがたく彼のお言葉を聞く"放談会"になっている。マスメディア以上にマスメディア的手法を心得て巧妙に使いこなすテレビ育ちのタレント政治家に、記者たちはすっかり足下を見られている。そして、これが異常な状況だということに気付いていない。いや、気付いていてもやめられなくなっているのか---。
情けない思いとともに、疑問が次々と湧いてきた。
そもそも、たとえ公党の代表とはいえ、大阪市政に全く関係のない政治家個人としての発言と、それへの釈明を、市役所で毎朝毎夕聞いてやる必要がどこにあるのか。行政と政治の分離を公務員に厳しく迫り、職員の政治的行為を制限する条例を作ったのは橋下自身ではないか。橋下に問えば「市長は特別職であり、自分は政治家だ」とでも言うのだろう。
だが、そのことを敢えて追及する記者はいないのだろうか。デスクや編集幹部はおかしいと思わないのだろうか。勝手にキレて、囲み取材をやめると本人が言ったのだから、これ幸いとボイコットしたっていい。市長としての説明責任を果たすには週1回の定例会見があるし、市政や彼の政党に関して問うべき課題があれば、その都度ぶら下がりでも単独インタビューでもすればいい。
いや、もしかしたら、緊急の記者クラブ総会が開かれ、クラブ全体で抗議書面でも出しているかもしれない。橋下が公に謝罪はしないまでも、水面下で何らかの"手打ち"をした上で、囲みの継続を合意したのかもしれない。それなら少しは話もわかる・・・と、そんなことを考えたりもした。
私も新聞記者時代、そう長い期間ではないが、行政の記者クラブを担当したことがある。与党の政治家に張り付いたこともある。だから、日常的に顔を合わせる相手とは、付かず離れず、是々非々で、しかし全体的には良好な関係を保ちたいという気持ちは十分理解できる。取材相手とケンカばかりしていては日々の仕事に差し支えるからだ。
また、私は、権力に対しては揚げ足取りでも牽強付会でも意図的誤読でも、あらゆる手を使って批判すべきだというような"スキャンダリズム的反骨心"も持ち合わせてはいない。派手なスキャンダルやトピックをつまみ食いすればいい他のメディアとは違い、新聞というのは日々の地道な取材活動と人間関係によって作られている。そのことは十分わかっているつもりである。
だが、橋下とそれを取り巻く在阪メディアの"共依存関係"はさすがに限度を超えている。異様だと思う。彼を重要な取材対象たらしめているのは、彼に群がっている自分たち自身だ。マスメディアはそのことを自覚し、そろそろ真摯に自省した方がいい。
先述した通り、私はここで「従軍慰安婦」発言の是非や橋下の歴史認識を問うつもりはない。彼にすれば「いつもの考え」を「いつものように」発しただけであろうし、あの発言をあげつらうならば、もっと暴力的な物言いで、日本の「侵略」自体を否定する政治家はいくらでもいる。
けれども「誤報」に関しては違う。朝日と毎日が反論記事を載せたとはいえ、彼はいまだにその主張を取り下げず、発言は流布し続け、「誤報ではなく、捏造だ」などと言い募る"マスゴミ嫌い"まで現れているのだ。放っておいていいとは思えない。
誤解のないように付け加えておくが、私はマスコミ嫌いでも記者クラブ廃止論者でもない。「記者クラブが権力と癒着して情報を独占している」みたいな一面的かつ陰謀論的な批判には同意しない。また、「記者クラブメディアは信用できない。ネットにこそ真実がある」だの「これからのジャーナリズムを担うのは市民であり、彼らが書いたり撮影したりしたものを編集せずにネットに流せばいい」だのという素朴なネット礼賛や市民ジャーナリズム賛美にも与しない。
そこに何らかの可能性がないとは言わないが、正直、相当に難しいし、下手をすればかなり危険なことになるとも思っている。
私はただ、ごく真っ当な取材能力と批評精神を持ったプロの記者が取材・執筆し、正確なニュース判断と編集能力を備えたマスメディアが報道・論評する記事を読みたい、あるいは、番組を観たいだけである。それをするために、あの毎朝夕の囲み取材という名のメディアスクラムが必要だとはどうしても思えないし、それをするためには、マスメディア自身が橋下に関する報道を振り返り、検証しなければならない。そう考えている。
そんな思いを抱えて、私は大阪市政や橋下を取材する記者を訪ね歩き、在阪メディア各社に取材を申し込んだ。予想した通り、多くは取材に応じてもらえなかった。しかし、何人かは私の主旨を理解し、率直な思いを語ってくれた(ただし、無理もないことだが、ほぼ全員、匿名が条件である)。
取材・編集の現場にいる彼らの考え、分析、反省、それに悩ましさを紹介しながら、「橋下徹とメディア」の関係を検証してみようと思う。まずは、なぜ囲み取材が始まったのかという話から---。
(文中敬称略)
〈第3回につづく〉
1970年生まれ。神戸新聞記者を経て、フリーランスのライター/編集者。関西を拠点に、政治・行政、都市や文化などをテーマに取材し、人物ルポやインタビュー、コラムなどを執筆している。著書に『ふたつの震災 [1・17]の神戸から[3・11]の東北へ』(西岡研介との共著)。