生産性本部担当当時の思い出の一つに、社団法人日本工業倶楽部(編集部注:経済団体連合会、日本経営者団体連盟など職能的な経済団体の設立、育成に協力)で活躍する山根銀一氏にいろいろ教えていただいたことである。山根氏はトップセミナーの視察団の解散後、ヨーロッパから「子供の頃からの憧れの的であったクイーンエリザベスII世号に乗船したい」と言われた。これをきっかけに、船旅の魅力を熱心に教えていただいた。また、お会いする度に、丸の内の重厚感あふれる倶楽部でご馳走に預かりながら、人生のあり方について教えて頂いた。今でも、山根氏が良くおっしゃった「聞き上手になりなさい」と言う言葉を覚えており、実行している。ビジネス書のたぐいも無い時期に、通常ではお目にかかれない財界トップの方から直接お話を伺うことが出来た当時の私は望外の幸せであった。
2 鉄道全員総辞職決行を決議
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統制委員には刑事がつけられる、片岡謌郎などは減俸反対の若手の一記者と友人で、その記者が政友会系だとあって、手を携えて内閣打倒を策しているのだろうと真顔で詰問される喜劇もあり、平山孝は自宅まで私服の訪問をうけることになった。減俸は鉄道に関する限り反対である。
その理由は鉄道は現業と非現業の区別がつかず、判任官の九割は現業員、雇用人(非官吏)の中にも判任官より月給の高いのはいくらでもいる。鉄道特別会計では別に減俸の犠牲を払う必要はない。
府県会選挙の対策に農村の票を集めるために薄給の現業員の減俸をやるなどは実に言語同断だ。
そんなことをやれば結局汽車がとまる。鉄道は汽車を動かす商売だから、極力汽車は運転することに努カはするが、減俸は御免だからその際は総辞職を敢行する。
総辞職で汽車が止まってもそれは政府の責任だ。こんなことが話し合わされたのだ。統制本部の作戦は絶対に汽車は止めるな、列車は統制委員の生命を賭してもその運転は護れ、伝家の宝刀は抜かずに政府に減俸を引込めさせろというのにあったから、周囲の緊張裡にも、先ずおとなしく江木鉄相宛の陳情書を提出した。
陳情書の内容は「鉄相は数次に亘って給与の改善を約束した。ところが閣内にあっては減俸案作成の中核的役割を務めていられるが、減俸は生活の余俗のないわれわれの家計にとってば死活の問題であるから、これを実行すれば鉄道の中堅は崩れて鉄道の運営は出来なくなる。減俸は即時やめるよう努力して下さい。高等官一同(局課長を除く)判任官一同」といった風のものであった。
陳情書は出したが握りつぶされ、各局の現揚の反対気勢はあがるばかり、更に二十一日は陳情書が再提出された。地方局は何故汽車を止めて政府に痛棒か喰らわさないのだ。中央は生ぬるいとあって東京へ続々と列車で上京する。二十三日には二千名の地方代表が本省に集まって反対決議に万雷の拍手を送り、遂に総辞職決行を決議した。
鉄道省はいつの開にか現業服に占拠され、このいきり立った巨大なる運動の本休は革命前夜のパリを描いたトマス・カーライルの筆致をほうふつとさせた。到底命令で押えることが不可能な形相を呈して来たので、それ迄、止め役だった後藤悌次経理局長、喜安監督局長、久保田運輸局長、吉田東鉄局長をはじめ局課長一同も遂に辞表を用意した。
江木鉄相はたった一人の青木周三を味方として胃癌にやせ細る病躯に鞭打って対策に苦慮したが、頬はげっそりとこけて死相さえ窺わせる気の毒な有様だった。そのブルータスだった青木周三さえ以後には「もういけません、妥協あるのみ」と伝えた時には椅子にへタヘタと腰を下ろしてしまった。
もう少し見た光景を述べると、毎日文書課事務官室ががたぴし片づけられて、器用にも雛壇が急造された。
三十歳を一寸出たばかりの江口胤顕が口角泡をとばして卓をたたき、興奮して逐一報告をやっていた。
血が顔にのぼって心持長い頭髪が垂れ下がる、目はぎらぎらして全く左翼の闘士そっくりだった。狭い室はぎっしり詰った現業員と職員の吸う煙草の煙がもうもうと立ちこめて、「妥協するな」「そこだ頑張れ」などと野次もはいって、まだどこかに役人の集会らしいゆとりもあったが、江口の顔は悲壮そのもので、私服の刑事と新聞記者が前面両側に成行如何と凝視していた。調子は過激に見えるんだが、報告は青木次官、後藤経理局長、久保田運輸局長、伊庭現業調査課長、吉田東鉄局長等との会見顛末の報告で扇動的な言辞は一つもない。ただ思うようにならないので焦っているようだったし、口惜しがっているようだった。
この戦闘的な江口のあとに登檀したのは小柄な平山孝だった。
平山は落つき払っていた。騒動の中でも前夜よく睡眠をとったらしい静かな句調で淡々と報告をしていた。
「彼奴は大物だな」
と傍聴の臨時加勢の官邸詰の新聞記者が呟いていた。江口の闘志満々、平山の智謀、それに減俸願動の発頭人東鉄副参事片岡謌郎の熱情、同東鉄副参事河崎清一、この四人の統制委員が急に英雄のように見えた。統制委員にはもうこの時は刑事が夫々その行動を監視していた。四人は一演説ぶって報告が終ると、さっさと刑事の尾行をまいて毎日転々と変えているアジトヘ逃げるように人波を分けて去った。廊下にもぎっしり窓ごしの傍聴者が一ぱい、各室々でもこれについで統制委員の報告会が開かれる。
「総辞職にきまったんだぞ」
ときいて、気の早い奴はすぐ辞表を書き出す始末、書いていては間に合わんわいと許り誰が云い出したのか早速お手のもののガリ版をひっぱり出して輪転印刷機にかけて辞職願を数十枚、僅か十分間で刷りあげる。それにベタベタ印を押す。これでますます減俸反対の気勢はあがっていく。
鉄道職員二十一万六千名は青木次官、江木鉄相を除いて一人残らずガリ版辞表を出した。一同で出せばまさか辞表聴許などはあるまいと面白半分で出す者もあった。文書課には本省員の辞令がうず高く積まれた。地方からは電報で数百通辞表が届いた。人事課へ出さず文書課宛だったのはその差出しは統制委員にまかすと云う意味だったのだろう。
この時の辞表は騒動後、各自に夫々下げ戻されたが、好個の記念だと永く家宝として保存したものがあった。
本省などではいずれ、めでたく落着と見越して勢よく辞表を出したが、何も知らぬ地方駅などでは踏切番が上司の命令だからと泣いて出した辞表もだいぶん交っていたのだ。見ようによっては罪なことだった。又辞表は出したが上層と全く関係のない下級現場では、風馬牛(無関係)で毎日の仕事に追われて居るものも大分いたのである。
東鉄局はこの減俸騒動の震源地で、東鉄の一角からのろしが上っただけに、なかなか深刻な事件があった。
もともと、永年鉄道への政治の介入が激しく、政党の横暴に官僚がすっかり押えられ内閣の変る度に上級者は首の総替えにあってその上、小さいところでは駅の弁当屋の許可から新駅の設置踏切の施設、はては大きいところでは石炭の購入価格から購入先まで政党の息がかかっていた。
小川鉄相の時には鉄道の購入石炭は安すぎるではないかと鉄相自身が云うかと思うと、次に来た江木は、石炭の収入価格は高すぎるからもっと叩けと同一課長に命じたものだ。当時の代議士は役人を前にして、この商人から買ってくれ、そうすれば俺は一トンにつき五十銭の運動費がとれる。これは俺の選挙費でもあるし、政友会の党費だなどと白昼堂々経理局で談判する有様、なんとその代議士君は一トン五十銭はその時限りでなく、その商人から鉄道に納入が続く限り、お礼の方も続くと云う公正証書を取り交わしていたという御念のいったものだった。
弁当屋や売店の許可なども億面もなく天下の選良が後だてになっての許可運動、中には暴力団まで混っている始末。
若い法学士連中がかねがね押えつけられ泣き寝入りをして来たのだが、このチャンスに爆発したのだった。
戦後はとかく鉄道方面への風当りが強いが、このごろは政党黄金時代で官僚などは党人の塵払い位にしか取扱われていなかった。
「減俸に反対した真の原因と云うのは微々たる感情の問題でなくて大きく云えば政党に対する官吏のウッ積していた反感が爆発していたものである」と統制委員だった平山孝が云っているのだから、この推測は正しいだろう。
さて四人の統制委員の他では大山秀雄(後の監督局長)玉置善雄(同観光局長)小倉俊夫(同業務局長)中村基一(後の会計課長)三輪真吉(後の広鉄局長)などが大活躍をしたが、この中で中村は早世したので知る人も少かろうが、少くも当時は将来を約束された出来物で胆っ王が太く、平山孝がふんしばられたら次の統制委員になる筈であった。中村は後に会計課長となった時、風邪の高熱を押して大蔵省との予算の折衝に当って四日も徹夜したのが原因で倒れたのである。
この時活躍した電通記者井本威夫はゲイルのニツボン日記を翻訳し、一躍ベストセラーの幸運を掴んだ。新聞記者らしい名翻訳で世人をうならせているが、鉄道の圏外に去った彼は最近筆者に中村浩一は天成の人物だったのに惜しいことをした。減俸願勁の渦中では一番若輩だったが、また一番真面目に物を見ていたと、語ったほどだった。
この井本も当時は青年記者で、故人になった連合通信の細井吉造などと共に、夜中の三時に当時国際観光局長だった大森の新井堯爾の家へ妥協案の内容を話せと押しかけたものだった。
3 総罷業(ひぎょう)寸前に妥結
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この減俸顛動の結末は妥協でケリがついたのだ。しかし妥協案は秘密だった。
というのは二十五日になると、もう統制委員の手ではどうにも統制がとれないほどの運動になって、現場では早くもストライキの用意をととのえて統制委員の指令を催促する。電車が停った、スイッチが切られたなどのデマも飛ぶ、減俸は強行する、反対は弾圧する。汽車が停ったらその瞬間統制実員の四人を始め交渉に奔走した若手法学士は全部ひっくくって警視庁の豚箱に投げ込む、事実刑事はそうした命令を受けてやって来ていた。
ブラックリストはすっかり出来上っていて、統制委員などは親類から友人、女房の里まで調べあげられていた。警官だって薄結なので、心中では反対運動をありがたがっていたが、職務とあれば止むを得ません等とはほのめかす。
白熱的な騒動は一週間続いたので、もう反対側も政府側もクタクタになっていた。新聞の論調は初めから減俸止むなし、鉄道官吏の拳は綱紀紊乱の甚だしいものだと連日書き続けていたが、面白いことは社会面の方はどこかに運動を支持するような匂いがあった。
この時のことを平山は「全員総辞職自宅に帰り指令を待て」という指令、いい換えるならば総罷業の命令を出す以外に方法がないと自分も腹を決めた(二十五日夜)と述懐している。
平山がこの総罷業の案文を考えている時、江木翼もまた、最後のデッド・口ックを打開する方途にしんぎんしつつ、遂に内閣の面目よりも当面の大波乱を治めないことには内閣は倒壊する。それはもう寸前に迫っていると直感していた。符節を合わせるとはこの事で、これは幸いであった。
四人の統制委員は大臣室に呼ばれた。彼等の前には妥協案が出された。
(一)退職賜金の恒久性確立
(一)消極的人員整理をなさざること
(一)諸給与を減額せざること
(一)新棒給令による退職賜金と旧棒給令による退職賜金との差損は適当なる方法により支給すること
もう双方共に疲れ切っていた。寸刻を争ってどっちかに決めなければ、だらだらと列車は停ることは必至だった。平山等はこの江木の妥協案を呑むことに決めた。つけ加えたのは、
百円以下は減俸せぬこと。
減棒反対運動はとりやめる。
ということだった。
「妥協成る」 の報は異様な緊張した空気の中で報告され、減俸反対打切が声明されたが妥協案の内容は堅く秘密の扉の中にあつた。
平山等も内閣の面目を説かれて秘密厳守を約束して来ていた。
妥協は出来たが内容は判らない、妥協に憤慨して池袋辺で自殺した地方現業員がある。国電だけは妥協に反対でストライキをやる。蒲田の電車区員が検束された。誰々を縛ってくれと伊庭現業課長が警視庁ヘリストを出したなど頻々(ひんぴん)たるニュースがはいって来る始末であった。
この妥協案は江木と省内各局長、現場代表局長等の合作に成るものだった。
局長連はこの騒動では部下の統制が出来なかったと辞表を出して江木に減俸の撤回を求めた。江木は減俸の撤回は出来ないと答えたので、局長連は青木次官のところへ揃って、局長連と共に辞表を出すことを求めた。
青木はしんみりした調子で、
「僕も君等と行動を共にするのがいいかも知れん、しかし、それが大臣との情誼(じょうぎ)上出来ないのだ。僕は同郷の関係で若い頃から江木と交りを結んでいる。それに仙石にも頼まれて今次も江木を援ける回り合わせになった。
江木さんも病躯を押して心配している。
僕は諸君と行動を共にしたいが、情においても理においても出来ない、実に諸君には申訳がないが僕の立場を諒解していただきたい」
と話した。話しているうちに青木も涙もろいから涙ぐむし、局長連とて五十以下の年配だから、感激性に富んでいたので貰い泣きするというシーンを現出した。
江木と青木の苦衷は局長連も重々判っていたから、潮時を見計って妥協案の相談会を開いた。
ところが席上発言する局長は少く、結局、退職賜金の要求をのむか、退職金の率は鉄道の特殊性を放棄して一般の各省並で妥協することにするかの二つの意見が対立した。吉田東鉄局長は鉄道の退職金の特殊性を今後も維持するのでなければ妥協も出来ないし、結局汽車は停ってしまうであろうからと強く主張した。
江木は何度も首をかたむけていたが、遂に決心したのか経理局長の後藤悌次の識見を求めた。
「この退職金制をそのまま据置いて大蔵省を承知させることが出来るかね」
「出来ましよう」 と後藤は云った。
平素の後藤はなんだかんだと理窟をこねて相手を手古ずらすのが得意で不得要領なんだが、それが極めて明快に答えた。
それでも江木は心配そうな顔をして、
「後藤君大丈夫だろうか」 と訊ねた。
「大丈夫ですよ」 後藤は自信ある答をした。
後藤が昼行燈の真価を発揮したこの一言は江木の心境を一転させたのだ。
平山等に示された妥協案はかくて出来上ったものである。これは秘話であろうと思うが、勿論後藤に確かめて書いているのではない。