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※天下の山根銀一氏の会社のロビーにて(東京丸の内)

 
父方山根一族(母方の旧姓は後藤)と親戚の集まり。
最後列一番左が元、有名ペルー大使青木氏。
前から二番目の列の真ん中の眼鏡が自分の故・祖父銀三郎で、日本歴代トップ有名音楽評論家山根銀二氏の兄弟。
ここには写っていないが、母方の自分の祖父の兄弟が、鉄道省局長で、私鉄経営者連盟代表だった、
故・後藤悌次である。
一番前の列の一番左が自分の父親と後列の一番右の着物が自分の母親。
因みに、自分の故・祖母(父方)は、中学の教員だった。


山根一族

◎長男故人山根銀一(東京大学出身、元、工業倶楽部最高役員、当時の日本全国

長者番付け一位の日本一の金持ち、娘3女が元、ペルー大使青木盛久の妻)

◎二男 故人山根銀二(東京大学出身、元、日本一有名音楽評論家)

 ◎三男 故人山根銀三郎(慶応大学出身、元、会計士、自分の祖父)

(写真前列二番目中央の眼鏡)

 ◎四男 故人山根銀五郎(東京大学出身、元、九州の大学教授)

 ◎五男 故人山根銀六郎(東京大学出身、元、東京計器)

 ◎六男 故人山根銀七郎(東京大学出身、元、科学者)

 三男銀三郎と中学校教師だった祖母の息子が、

 ◎自分の故人父ヒデトシ(東京の高校時代、ヨット選手で全国大会出場、慶応大学出身、元、三井グループ勤務、元、従業員約100名本牧の海運会社取締役)

 ◎ヒデトシ実姉ミナコ写真一番右列の上から三番目の白髪美人。写真最前列右から二番目の中国人の学者博士と結婚し、

アメリカサンディエゴに永久在住

◎ヒデトシ実弟マサトシ(写真最前列一番右。元、世界トップクラスの大手会社勤務、元、スキーインストラクター)

 

 

後藤一族

 
◎自分の故・祖父(母方)は、後藤?(医者)
その医者の祖父と故人祖母の娘が、
 
◎自分の母四女朋子(青山学院大学英米文学科出身、元、翻訳
家、元、自宅英語、ピアノ講師)

 
◎故人長男マサヒロ(開業医)

 
◎長女レイコ(元、東京某短期大学の教授)
 
◎二女キョウコの二女ジュンコ(元、スチュワーデス)

 
◎マサヒロ長男ユタカ(現役医者)
二男ツカネ(現役開業医)

 

◎自分の実弟コウジ(早稲田大学出身、元、糸井重里(カリスマコピーライター兼タレント)会社4年勤務、現、通信販売会社社長)

◎長男山根健一(放蕩ドラ息子(怠け者で遊んでばかりいる素行の悪い息子)(大爆笑))





山根一族大物代表者ベスト3

山根銀一記事

[PDF] 鎖国時代」の海外旅行業界事情-2 (恒松一郎) - シニア会


 

 生産性本部担当当時の思い出の一つに、社団法人日本工業倶楽部(編集部注:経済団体連合会、日本経営者団体連盟など職能的な経済団体の設立、育成に協力)で活躍する山根銀一氏にいろいろ教えていただいたことである。山根氏はトップセミナーの視察団の解散後、ヨーロッパから「子供の頃からの憧れの的であったクイーンエリザベスII世号に乗船したい」と言われた。これをきっかけに、船旅の魅力を熱心に教えていただいた。また、お会いする度に、丸の内の重厚感あふれる倶楽部でご馳走に預かりながら、人生のあり方について教えて頂いた。今でも、山根氏が良くおっしゃった「聞き上手になりなさい」と言う言葉を覚えており、実行している。ビジネス書のたぐいも無い時期に、通常ではお目にかかれない財界トップの方から直接お話を伺うことが出来た当時の私は望外の幸せであった。


 






※有名作曲家プロフィールに山根銀二記事記載


 
武満 徹 プロフィール
1930年東京生まれ。幼少時代を父親の勤務地である満洲の大連で過ごす。
1937年、小学校入学のために単身帰国する。長じて戦時中に聞いたシャンソン『聴かせてよ、愛のことばを』で音楽に開眼。
戦後、作曲を志して清瀬保二に師事するが、実際にはほとんど独学で音楽を学んだ。
1950年、処女作であるピアノ曲『2つのレント』を発表。当時の音楽評論界の御意見番的存在だった山根銀二によって、
「音楽以前である」と酷評されたことは有名な逸話となった。
1951年には詩人の瀧口修造の下で、『実験工房』結成メンバーに加わり、いわゆる前衛的手法に沈潜する。
転機となったのは1957年、結核の病床で書いた『弦楽のためのレクイエム』。この厳しくも美しい作品は、
来日したストラヴィンスキーよって絶賛され、武満徹の名を世界に知らしめることとなった。
1967年、ニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団の創立125周年記念作品をバーンスタインから委嘱され、琵琶と尺八、
オーケストラとによる協奏的作品『ノヴェンバー・ステップス』を発表。この成功が作曲家の名声を決定的のものにした。
晩年にはオペラの創作にも取り組んだが、1996年2月20日、膀胱ガンのため逝去。残念なことに唯一のオペラは完成をみなかった。享年65歳。

 

 

青木盛久記事

きょうは何の日 ペルー大使館人質事件

 
 
※青木盛久の画像と記事がこちらの一般人ブログにて記載。
 
2007年12月18日 nozawa22さんのブログ「きょうは何の日?ペルー大使館人質事件」こちらをクリック
 

 

7706_2ペルー日本大使公邸人質事件が、1996年12月17日にペルーの首都のリマで起こった。日本は冬だが、地球に反対側で夏だったから、大使公邸の床にごろ寝しても寒くなくてよかったのかもしれない。だいぶ古い話になってしまい、記憶が薄らいでしまったが、大事件だった。

7694人質になった青木盛久駐ペルー大使がテレビに何度も出て、その挙措を見ていると、一見上流そうな物腰で、独特の雰囲気があった。大使ってこんな感じにしゃべったり、行動するんだ、っていうのがよくわかった。品はいいのだが、浮世離れの人のようにも見えた。世間の垢がついていない、絹のハンカチタイプ。


 

 

 

 

 

 

 
後藤一族大物代表者

 
故人後藤悌次記事
 

 
鉄道省減俸騒動(昭和大恐慌と鉄道1)
http://ktymtskz.my.coocan.jp/fukyoo/kyokoo.htm

2 鉄道全員総辞職決行を決議 top

 統制委員には刑事がつけられる、片岡謌郎などは減俸反対の若手の一記者と友人で、その記者が政友会系だとあって、手を携えて内閣打倒を策しているのだろうと真顔で詰問される喜劇もあり、平山孝は自宅まで私服の訪問をうけることになった。減俸は鉄道に関する限り反対である。
 その理由は鉄道は現業と非現業の区別がつかず、判任官の九割は現業員、雇用人(非官吏)の中にも判任官より月給の高いのはいくらでもいる。鉄道特別会計では別に減俸の犠牲を払う必要はない。
 府県会選挙の対策に農村の票を集めるために薄給の現業員の減俸をやるなどは実に言語同断だ。
 そんなことをやれば結局汽車がとまる。鉄道は汽車を動かす商売だから、極力汽車は運転することに努カはするが、減俸は御免だからその際は総辞職を敢行する。
 総辞職で汽車が止まってもそれは政府の責任だ。こんなことが話し合わされたのだ。統制本部の作戦は絶対に汽車は止めるな、列車は統制委員の生命を賭してもその運転は護れ、伝家の宝刀は抜かずに政府に減俸を引込めさせろというのにあったから、周囲の緊張裡にも、先ずおとなしく江木鉄相宛の陳情書を提出した。
 陳情書の内容は「鉄相は数次に亘って給与の改善を約束した。ところが閣内にあっては減俸案作成の中核的役割を務めていられるが、減俸は生活の余俗のないわれわれの家計にとってば死活の問題であるから、これを実行すれば鉄道の中堅は崩れて鉄道の運営は出来なくなる。減俸は即時やめるよう努力して下さい。高等官一同(局課長を除く)判任官一同」といった風のものであった。
陳情書は出したが握りつぶされ、各局の現揚の反対気勢はあがるばかり、更に二十一日は陳情書が再提出された。地方局は何故汽車を止めて政府に痛棒か喰らわさないのだ。中央は生ぬるいとあって東京へ続々と列車で上京する。二十三日には二千名の地方代表が本省に集まって反対決議に万雷の拍手を送り、遂に総辞職決行を決議した。
鉄道省はいつの開にか現業服に占拠され、このいきり立った巨大なる運動の本休は革命前夜のパリを描いたトマス・カーライルの筆致をほうふつとさせた。到底命令で押えることが不可能な形相を呈して来たので、それ迄、止め役だった後藤悌次経理局長、喜安監督局長、久保田運輸局長、吉田東鉄局長をはじめ局課長一同も遂に辞表を用意した。
江木鉄相はたった一人の青木周三を味方として胃癌にやせ細る病躯に鞭打って対策に苦慮したが、頬はげっそりとこけて死相さえ窺わせる気の毒な有様だった。そのブルータスだった青木周三さえ以後には「もういけません、妥協あるのみ」と伝えた時には椅子にへタヘタと腰を下ろしてしまった。
 もう少し見た光景を述べると、毎日文書課事務官室ががたぴし片づけられて、器用にも雛壇が急造された。
 三十歳を一寸出たばかりの江口胤顕が口角泡をとばして卓をたたき、興奮して逐一報告をやっていた。
 血が顔にのぼって心持長い頭髪が垂れ下がる、目はぎらぎらして全く左翼の闘士そっくりだった。狭い室はぎっしり詰った現業員と職員の吸う煙草の煙がもうもうと立ちこめて、「妥協するな」「そこだ頑張れ」などと野次もはいって、まだどこかに役人の集会らしいゆとりもあったが、江口の顔は悲壮そのもので、私服の刑事と新聞記者が前面両側に成行如何と凝視していた。調子は過激に見えるんだが、報告は青木次官、後藤経理局長、久保田運輸局長、伊庭現業調査課長、吉田東鉄局長等との会見顛末の報告で扇動的な言辞は一つもない。ただ思うようにならないので焦っているようだったし、口惜しがっているようだった。
この戦闘的な江口のあとに登檀したのは小柄な平山孝だった。
 平山は落つき払っていた。騒動の中でも前夜よく睡眠をとったらしい静かな句調で淡々と報告をしていた。
 「彼奴は大物だな」
 と傍聴の臨時加勢の官邸詰の新聞記者が呟いていた。江口の闘志満々、平山の智謀、それに減俸願動の発頭人東鉄副参事片岡謌郎の熱情、同東鉄副参事河崎清一、この四人の統制委員が急に英雄のように見えた。統制委員にはもうこの時は刑事が夫々その行動を監視していた。四人は一演説ぶって報告が終ると、さっさと刑事の尾行をまいて毎日転々と変えているアジトヘ逃げるように人波を分けて去った。廊下にもぎっしり窓ごしの傍聴者が一ぱい、各室々でもこれについで統制委員の報告会が開かれる。
「総辞職にきまったんだぞ」
 ときいて、気の早い奴はすぐ辞表を書き出す始末、書いていては間に合わんわいと許り誰が云い出したのか早速お手のもののガリ版をひっぱり出して輪転印刷機にかけて辞職願を数十枚、僅か十分間で刷りあげる。それにベタベタ印を押す。これでますます減俸反対の気勢はあがっていく。
 鉄道職員二十一万六千名は青木次官、江木鉄相を除いて一人残らずガリ版辞表を出した。一同で出せばまさか辞表聴許などはあるまいと面白半分で出す者もあった。文書課には本省員の辞令がうず高く積まれた。地方からは電報で数百通辞表が届いた。人事課へ出さず文書課宛だったのはその差出しは統制委員にまかすと云う意味だったのだろう。
  この時の辞表は騒動後、各自に夫々下げ戻されたが、好個の記念だと永く家宝として保存したものがあった。
 本省などではいずれ、めでたく落着と見越して勢よく辞表を出したが、何も知らぬ地方駅などでは踏切番が上司の命令だからと泣いて出した辞表もだいぶん交っていたのだ。見ようによっては罪なことだった。又辞表は出したが上層と全く関係のない下級現場では、風馬牛(無関係)で毎日の仕事に追われて居るものも大分いたのである。
東鉄局はこの減俸騒動の震源地で、東鉄の一角からのろしが上っただけに、なかなか深刻な事件があった。
 もともと、永年鉄道への政治の介入が激しく、政党の横暴に官僚がすっかり押えられ内閣の変る度に上級者は首の総替えにあってその上、小さいところでは駅の弁当屋の許可から新駅の設置踏切の施設、はては大きいところでは石炭の購入価格から購入先まで政党の息がかかっていた。
 小川鉄相の時には鉄道の購入石炭は安すぎるではないかと鉄相自身が云うかと思うと、次に来た江木は、石炭の収入価格は高すぎるからもっと叩けと同一課長に命じたものだ。当時の代議士は役人を前にして、この商人から買ってくれ、そうすれば俺は一トンにつき五十銭の運動費がとれる。これは俺の選挙費でもあるし、政友会の党費だなどと白昼堂々経理局で談判する有様、なんとその代議士君は一トン五十銭はその時限りでなく、その商人から鉄道に納入が続く限り、お礼の方も続くと云う公正証書を取り交わしていたという御念のいったものだった。
 弁当屋や売店の許可なども億面もなく天下の選良が後だてになっての許可運動、中には暴力団まで混っている始末。
 若い法学士連中がかねがね押えつけられ泣き寝入りをして来たのだが、このチャンスに爆発したのだった。
 戦後はとかく鉄道方面への風当りが強いが、このごろは政党黄金時代で官僚などは党人の塵払い位にしか取扱われていなかった。
「減俸に反対した真の原因と云うのは微々たる感情の問題でなくて大きく云えば政党に対する官吏のウッ積していた反感が爆発していたものである」と統制委員だった平山孝が云っているのだから、この推測は正しいだろう。
 さて四人の統制委員の他では大山秀雄(後の監督局長)玉置善雄(同観光局長)小倉俊夫(同業務局長)中村基一(後の会計課長)三輪真吉(後の広鉄局長)などが大活躍をしたが、この中で中村は早世したので知る人も少かろうが、少くも当時は将来を約束された出来物で胆っ王が太く、平山孝がふんしばられたら次の統制委員になる筈であった。中村は後に会計課長となった時、風邪の高熱を押して大蔵省との予算の折衝に当って四日も徹夜したのが原因で倒れたのである。
この時活躍した電通記者井本威夫はゲイルのニツボン日記を翻訳し、一躍ベストセラーの幸運を掴んだ。新聞記者らしい名翻訳で世人をうならせているが、鉄道の圏外に去った彼は最近筆者に中村浩一は天成の人物だったのに惜しいことをした。減俸願勁の渦中では一番若輩だったが、また一番真面目に物を見ていたと、語ったほどだった。
 この井本も当時は青年記者で、故人になった連合通信の細井吉造などと共に、夜中の三時に当時国際観光局長だった大森の新井堯爾の家へ妥協案の内容を話せと押しかけたものだった。

3 総罷業(ひぎょう)寸前に妥結 top

 この減俸顛動の結末は妥協でケリがついたのだ。しかし妥協案は秘密だった。
 というのは二十五日になると、もう統制委員の手ではどうにも統制がとれないほどの運動になって、現場では早くもストライキの用意をととのえて統制委員の指令を催促する。電車が停った、スイッチが切られたなどのデマも飛ぶ、減俸は強行する、反対は弾圧する。汽車が停ったらその瞬間統制実員の四人を始め交渉に奔走した若手法学士は全部ひっくくって警視庁の豚箱に投げ込む、事実刑事はそうした命令を受けてやって来ていた。
 ブラックリストはすっかり出来上っていて、統制委員などは親類から友人、女房の里まで調べあげられていた。警官だって薄結なので、心中では反対運動をありがたがっていたが、職務とあれば止むを得ません等とはほのめかす。
白熱的な騒動は一週間続いたので、もう反対側も政府側もクタクタになっていた。新聞の論調は初めから減俸止むなし、鉄道官吏の拳は綱紀紊乱の甚だしいものだと連日書き続けていたが、面白いことは社会面の方はどこかに運動を支持するような匂いがあった。
 この時のことを平山は「全員総辞職自宅に帰り指令を待て」という指令、いい換えるならば総罷業の命令を出す以外に方法がないと自分も腹を決めた(二十五日夜)と述懐している。
平山がこの総罷業の案文を考えている時、江木翼もまた、最後のデッド・口ックを打開する方途にしんぎんしつつ、遂に内閣の面目よりも当面の大波乱を治めないことには内閣は倒壊する。それはもう寸前に迫っていると直感していた。符節を合わせるとはこの事で、これは幸いであった。
 四人の統制委員は大臣室に呼ばれた。彼等の前には妥協案が出された。
(一)退職賜金の恒久性確立
(一)消極的人員整理をなさざること
(一)諸給与を減額せざること
(一)新棒給令による退職賜金と旧棒給令による退職賜金との差損は適当なる方法により支給すること
 もう双方共に疲れ切っていた。寸刻を争ってどっちかに決めなければ、だらだらと列車は停ることは必至だった。平山等はこの江木の妥協案を呑むことに決めた。つけ加えたのは、
 百円以下は減俸せぬこと。
減棒反対運動はとりやめる。
ということだった。
「妥協成る」 の報は異様な緊張した空気の中で報告され、減俸反対打切が声明されたが妥協案の内容は堅く秘密の扉の中にあつた。
 平山等も内閣の面目を説かれて秘密厳守を約束して来ていた。
 妥協は出来たが内容は判らない、妥協に憤慨して池袋辺で自殺した地方現業員がある。国電だけは妥協に反対でストライキをやる。蒲田の電車区員が検束された。誰々を縛ってくれと伊庭現業課長が警視庁ヘリストを出したなど頻々(ひんぴん)たるニュースがはいって来る始末であった。
 この妥協案は江木と省内各局長、現場代表局長等の合作に成るものだった。
局長連はこの騒動では部下の統制が出来なかったと辞表を出して江木に減俸の撤回を求めた。江木は減俸の撤回は出来ないと答えたので、局長連は青木次官のところへ揃って、局長連と共に辞表を出すことを求めた。
 青木はしんみりした調子で、
 「僕も君等と行動を共にするのがいいかも知れん、しかし、それが大臣との情誼(じょうぎ)上出来ないのだ。僕は同郷の関係で若い頃から江木と交りを結んでいる。それに仙石にも頼まれて今次も江木を援ける回り合わせになった。
 江木さんも病躯を押して心配している。
 僕は諸君と行動を共にしたいが、情においても理においても出来ない、実に諸君には申訳がないが僕の立場を諒解していただきたい」
 と話した。話しているうちに青木も涙もろいから涙ぐむし、局長連とて五十以下の年配だから、感激性に富んでいたので貰い泣きするというシーンを現出した。
 江木と青木の苦衷は局長連も重々判っていたから、潮時を見計って妥協案の相談会を開いた。
 ところが席上発言する局長は少く、結局、退職賜金の要求をのむか、退職金の率は鉄道の特殊性を放棄して一般の各省並で妥協することにするかの二つの意見が対立した。吉田東鉄局長は鉄道の退職金の特殊性を今後も維持するのでなければ妥協も出来ないし、結局汽車は停ってしまうであろうからと強く主張した。
 江木は何度も首をかたむけていたが、遂に決心したのか経理局長の後藤悌次の識見を求めた。
 「この退職金制をそのまま据置いて大蔵省を承知させることが出来るかね」
 「出来ましよう」 と後藤は云った。
平素の後藤はなんだかんだと理窟をこねて相手を手古ずらすのが得意で不得要領なんだが、それが極めて明快に答えた。
 それでも江木は心配そうな顔をして、
 「後藤君大丈夫だろうか」 と訊ねた。
 「大丈夫ですよ」 後藤は自信ある答をした。
 後藤が昼行燈の真価を発揮したこの一言は江木の心境を一転させたのだ。
 平山等に示された妥協案はかくて出来上ったものである。これは秘話であろうと思うが、勿論後藤に確かめて書いているのではない。

 
 
 
自分が生まれてから、少しの赤ん坊の時期
 
 自分が生まれてから、少しの赤ん坊の時期と、父親。
 
 男前の父親と、幼少の実弟。可愛いです。
 
 
  自分と、父方の、自分の祖母。中学校の先生でした。
 
 
 小学生の自分。頭の髪の毛が青いのは、古いプリントの関係の汚れ。
 
 
自分と実弟。メンチ切っている(笑)
この頃から、やんちゃデビューして、外見も悪ガキって感じ。
同時に、最強武道少林寺拳法や少年野球もやっていた。
 
 
 
自分と実弟。
 
 
 
若かりし頃の、会社員時代の父親。
 
 
同じく若かりし頃の父親。何かの運動?
 
 
 
自分と父親との旅行にて。
 
 
 
 
 

自分が尊敬してる両親。

二人とも一流大学卒業後、父の故人の美人だった母親(私の祖母)は、東京で中学校の教師であった!
今は亡き父親は、身内の家族が言うのも変であるが、男前で、
身長は自分と同じ位の、178cm位で、千代田区出身の人間で、
頑固な所があるが、真面目一徹エリートで、東京の高校時代、
ヨット選手で全国大会出場で、日本トップクラス大学慶応大学卒業で、
日本トップクラス大企業の、三井系列に、勤めて、
後に、横浜みなとみらいが出来る前の、旧みなとみらいや、
本牧の海運会社の約100人の取締役社長であった。
約30年通勤し、風邪一つ引いたのを見たことがなく、
一回も病気などで休んだ事がない、家族全員健康家族である。
真面目エリート根性人間であった!
生前鎌倉では、山登りなどハイキングや
海辺散歩などで、のんびりと余生を楽しんでおり、
寡黙で、横浜ベイスターズの大ファンで、ベイスターズしか興味がないような人であった。
息子に対しては厳しい一面もあったが、厳しさの中に優しさがあった。
性格は優しく、思いやりもあり、最高の父親であった。
 
また生まれ変わったら、この父親のもと同じ家族で居たい。
 
今でも私の胸の心の中では生き続けており、私たち家族を見守ってくれていると思う。享年73歳。
 
母は美人で、青山学院大学英米文学科卒業で元、ピアノ・英語講師で、翻訳家でもあり、生徒数約30人抱え、約十年やっていた。
日本一お笑い芸能プロダクション「吉本興業」人気タレントあべこうじ氏の実兄にも、生徒として教えていた。現在は保険代理店社長。
現在は鎌倉長谷在住。
 
 
 
 
 
若かりしき日の、子供の頃の母。

自分と母親と祖母

 昔、母が訳して出版された単行本表紙。

自分の四歳下の実の男前の弟。
日本トップクラス大学早稲田大学大学卒業後、カリスマコピーライター兼タレントの
糸井重里氏が経営する会社に四年間勤めていた。

自分の実弟と弟のガールフレンド

(山根ブログより抜粋)自分が、昔やってた、武道の、少林寺の、他人の演武や乱捕り動画を、見付けました!

小学生の自分と父親

少年野球時代 後列左から5番目が自分。
横浜スタジアムにて、大会の時。
(山根ブログから抜粋)本日は、横浜高校VS横浜創学館の準決勝ですが、
自分の少年野球時代の、歴代出身者が、強豪横高と強豪横浜創学館の野球部に分かれているので、
どっちを応援したら良いか、悩む所ですが、
自分が、我が、横浜市少年野球歴代関東(約300チーム)トップクラス強豪永田台少年野球部時代に、
自分が4年生の時から、6年生相手のピッチャーで、自分が6年生に成ったエースピッチャーだった時に、
後輩の、一歳下の5年生のエースピッチャーの坂井栄太郎氏が、横高だったし、
永田中学時代の、野球部だった同級生の数人も、横高野球部に行って、自分もキャッチボールなどしたことある
その内のM氏は、全国高校野球歴代日本一強い(日本一激戦区神奈川県大会出場校、200校以上の覇者でもある)
その横高で内野手のレギュラーだったので、やはり、横高を、応援します。
後、横浜高校には、永田台少年野球部出身で、元、日本ハムファイターズ入団プロ野球選手伊藤晃氏もいます。
そして自分の六歳上の、永田中出身で、片平保彦氏がいる。中学までは投手で、関東大会で優勝経験を持つ。
横浜高校にも投手として入学するも、、愛甲猛の球を受けるために捕手にコンバートされた。甲子園に2度出場し1980年夏の甲子園
全国制覇の時は高校2年生で4番打者。甲子園大会決勝では、荒木大輔からタイムリーを放ち、
無失点記録を阻止した。高校3年生の1981年夏の甲子園では主将を務めた。
高校卒業後、関東学院大学に進学するも中退。横浜大洋ホエールズの球団職員を経て、1983年ドラフト6位で横浜大洋ホエールズに入団。
一軍出場は無いまま、1989年引退
引退後はブルペン捕手を経て、横浜のバッテリーコーチ補佐を経て、2009年からまたブルペン捕手に戻っている。(Wikipediaより抜粋)
 
しかし、どっちが勝っても、負けても、嬉しい状態であるので、良いことですね!
しかし横浜市というのは、特殊な市で、野球に関しては、高校野球では横高が歴代日本一で、
プロ野球では、我がファンの横浜ベイスターズは、歴代日本一弱いって(笑)
どーゆー事よ(笑)輝かしい、我が、母校の、少年野球時代の、
横浜市少年野球歴代関東トップクラス強豪永田台少年野球部
現在のホームページで、当時のメンバーや、お世話になった故・S監督や、I監督やコーチが、懐かしく、
出身有名人、過去の大会歴戦成績、神奈川県強豪高校出身者などが出てます。
こちらをクリック↓
 

 

小学校番長時代 中央が自分

【因みに、我が母校永田台小学校出身卒業生各分野有名人多数輩出一覧表】 
●S39・元、日本ハムファイターズ入団プロ野球選手伊藤晃氏。
●S42・日本を代表する声優であり、声優界のスーパースタートップアイドルの、カリスマ声優子安武人氏。
●S45・新日本プロレスの元、プロレスラーの坂井直樹氏。
●S49・日本トップクラスお笑い芸能プロダクションY興業所属、若手お笑い芸人タレントのあべこうじ氏。
●S54・ASAYANコムロギャルソンのアイドルグループ「L☆IS」の元、人気メンバーであり女優だった菅原晶子氏。
※この他にもアウトロー有名人も、数名います。
 

※自分の出身永田中学の日本一各分野有名人輩出人物紹介

 
 
自分の六歳上の、横浜ベイスターズブルペン捕手の片平保彦氏。

 

 
 
 
自分の三歳上には、
アイドル黄金時代、80年代トップクラスアイドル、
伝説の元スターの、巨乳美人の斉藤由貴氏がいます。自分も会ったことはありますが、
 
 
 
彼女には実の弟の元俳優の、長身で男前の斉藤隆治氏がいて
自分の一歳上で自分は彼ともちょっとした知り合いでした。
 
 
 
 
そして当時、自分の自宅が、各分野有名人多数輩出横浜最大規模分譲団地にて、同じ団地で、永田台小学校も永田台少年野球部も永田中学校も一緒だった、
自分の二歳上の、日本を代表する声優であり、声優界のスーパースタートップアイドルの、カリスマ声優子安武人氏もいます。
 
 
 
後は、当時自宅が、例の同じ団地の、同じ棟の小学校から幼馴染で、少年野球も永田中学も
(彼は一年まで)一緒だった一歳下の弟分だった後輩が、新日本プロレスのプロレスラーの坂井直樹氏もいました。
後は、自分の五歳下の、若手お笑い芸人タレントの売り出し中の、映画「机のなかみ」主演や、
2010年度R−1グランプリ優勝などの経歴を持つ、あべこうじ氏が居ます。
自分とあべ氏とは、現在自分が、住居兼所有している住まい内の一つの団地の、
隣の棟での、幼馴染でありまして、あべ氏は、自分の5歳下であります。
自分は、そんなには、たくさん会ったり、たくさん話はしたことがないのですが、
いつも会う度に、ニコニコ挨拶してくれていました!
って言うのも、彼には、自分の4歳下の実の兄貴がいまして、その兄貴と、自分の実弟とが、親友で、自分も、その兄貴とも仲良しでした!
昔、あべこうじ氏が、自分の弟に「僕は俳優になりたいんです」と言っていたらしく、夢が叶っておめでとう!
内のママと、あべ氏のお母様も、凄く仲良しだったと言う、家族ぐるみのシガラミがあったのです!
現在、あべ氏のお母様は、私の地元で、美容院を営まれているそうであります。
あべ氏の兄貴は、自宅ピアノ英語講師だった、私の母親の生徒でもありました!
あべこうじ氏と兄貴と、自分と実弟は、例の少年野球部でも一緒でしたし、
小学校も中学も一緒!あべこうじ氏は、運動神経も抜群で野球も上手かったし、とにかく頭のキレや、
ギャグセンスは、半端ではなく、さすがRー1グランプリを制するだけあって、吉本の中でも、
お笑いに関してはトップのセンスである!顔立ちも悪くなく、映画の主役にもなったことあるし、
内の永田出身の、キングオブアイドルの松田聖子の次に、トップアイドルだった、斉藤由貴氏に続く、英雄であり、誇りである!
内の家族、山根家全員みんなで応援しています。
(山根ブログより抜粋)
 
 
 
 
 
 
 
東京スポーツ新聞25日
 
AKB48(何と!最近ソロデビューにもなった、美人メンバーK氏の父親と、私と仲良し)と、
ももいろクローバーZ(美人元リーダーT氏の両親と、私と仲良し)と、このモーニング娘が、現在の、日本の
女性アイドルグループの、日本三大トップグループだが、ここの美人リーダー高橋愛氏が、
あべこうじ氏が、結婚秒読み婚約しました!←これで日本女性アイドルトップグループ三大メンバーが、自分の関係者となった快挙!
 
 
 
後永田中学出身は、ASAYANコムロギャルソンのアイドルグループ「L☆IS」の
元、人気メンバーであり女優だった、自分の十歳下の、美人の菅原晶子氏が居ます。
当時菅原氏の住まいも、自分と同じ、例の団地の同じ棟でした。 
因みに自分の地元の永田は最寄りの駅が弘明寺であり、アウトローファン支持率No.1で、芸能界のスーパースターの矢沢永吉氏が、
故郷として育った街であり、矢沢氏が自伝本の「成り上がり」で恐い街と書いてある。
自分が一番好きな曲は「時間よ止まれ」で最高です。
 
他には、自分の地元の最寄の駅の、井土ヶ谷には、巨乳人気タレント優香氏の実家があります。
 
 
 
FMヨコハマで「僕の地元は井土ヶ谷」と名言した、実家も井土ヶ谷にある、
人気グループケツメイシの大蔵氏。
 
その「成り上がり」を手掛けた、カリスマコピーライター兼タレントの糸井重里氏の、経営する(東京港区南青山)会社の
従業員として、自分の四歳下の、まともな優等生の道で生きてきた、実の弟が、以前、四年間勤めていました。
 
※経理部門に山根こと山根康二(当時33歳)が入社いたしました。
情報によりますとお兄さんは「健一」さんといい、ふたりあわせると「健康・一二」になるそうです。
入社の数ヶ月前に、ピアノを習い始めました。まだバイエルですが、
「戦場のメリークリスマス」と「風の谷のナウシカ」を
すらすら弾けるようになるのが夢だそうです。
むかしはグライダーで空を舞っていたそうです。よろしくお願いいたします。
【日本一番アクセス超人気新聞、ほぼ日刊イトイ新聞2007年7月1日記事より抜粋】
 
 
 
 【因みに、我が母校永田中学出身卒業生各分野有名人日本一多数輩出一覧表】
●S38・ 甲子園優勝ヒーロー、現、横浜ベイスターズブルペン捕手の片平保彦氏。
●S39・元、日本ハムファイターズ入団プロ野球選手伊藤晃氏。
●S41・アイドル黄金時代、80年代トップクラスアイドル、伝説の元スター斉藤由貴氏。
●S42・日本を代表する声優であり、声優界のスーパースタートップアイドルの、カリスマ声優子安武人氏。
●S43・斉藤由貴氏の実弟、元、俳優斉藤隆治氏。
●S45・新日本プロレスの元、プロレスラーの坂井直樹氏。
●S49・日本トップクラスお笑い芸能プロダクションY興業所属、若手お笑い芸人タレントのあべこうじ氏。
●S54・ASAYANコムロギャルソンのアイドルグループ「L☆IS」の元、人気メンバーであり女優だった菅原晶子氏。 
※この他にもアウトロー有名人も、数名います。     
 
 
 
中学卒業後、横浜隼人高校(歴代高校日本一野球が強い横浜高校を
平成21年度にクダし甲子園出場)に数ヶ月在学、そこで知り合った友人のK・I氏。
地元神奈川大和市の男前で当時サーファーであった。
 
 
 
 因みにJ事務所人気アイドルグループNEWSの小山慶一郎氏の出身校でもある。
自分と同じ年では、声優の千々和竜策氏が出身で、
自分の六歳下には、有名女優高岡早紀の実妹で、モデルの高岡由美子氏もいて、
自分の十六歳下には、阪神タイガース所属選手で、一軍レギュラーキャッチャーの小宮山慎二氏と
千葉ロッテマリーンズ所属選手の鈴江彬氏もいます。
後は、漫画家の不動らん氏や、女子バレーボール・柏エンゼルクロス所属選手の山城美沙氏もいます。
 
 
 
 
 
【山根ブログより抜粋】
何と!90年代女性トップアイドル観月ありさが、我が母校隼人高校の関係者だった!
昨日、運転回送の、男性お客様が、我が、少しだけ母校の、隼人高校の、関係者でして、
出身有名人の話になり、このお客様は、観月ありさが在籍していて、東京の高校に転校したと
言ってましたので、ビックリして、インターネットソースを調べたら、確かにこの様に、他人のブログには、
受験したことが書いてありまして、彼女が、関係者だった事は、間違いなかったみたいですが、
隼人は、他にも、多数のアイドルや、モデルやプロ野球選手などを輩出してる高校ですが、
観月ありさと言えば、身長169cm長身美人で、スタイル抜群の、伝説の少女と言われ、
90年代トップアイドルでした。
女性タレントの歴代の中でもトップにルックス抜群じゃないのかな?
下のブログに書いてある「今年いちばん風の強い午後」の曲を
ユーチューブで聞きましたが、何という心地が良い曲だこと!
自分も彼女が、ハーフではなかったら、ドストライクの、好みのタイプです!
昨日も、ドラマで刑事役で、主役で出てましたね!
しかし、自分も、多少ながら、芸能界の世界を、かじってた経験だけはありますし、
横浜は芸能人が多いですが、
自分は、小学生から高校までに、4つの学校に在籍しましたが、
全て、芸能人やプロスポーツや有名人のトップクラスの人間達の出身校だったのは、何かの縁だし誇りですね!
 
【他人ブログにて観月ありさ記事】
観月ありさの、あの歌が。。。伝説の少女 隼人高校 
 
かなり昔になるんでしょうか、当時としては
絶大な人気を誇っていた観月ありさ。。。
彼女が受験する学校の倍率が相当上がったという事で
社会現象にまでなったような記憶が残ってます。。
自分は、特に気にかけていなく、どちらかというと、
高飛車な感じの、まあ勝手な想像なんですけどね。。;
どうせ友達になんかなれる訳ないんだから。。。;
なんでこんなに盛り上がるの?とミーハーを嫌って
いた部分もあり悪いイメージだった訳です。。
ところが、とあるドリンクのCMで(キリンシャッセ)
でながれたCMが夏の暑さを和らげてくれるような
爽快感のあるリズムと歌詞で、良いなぁ・・・^^
と聴いてたら、
タイトルが「今年いちばん風の強い午後」
で、歌い手が観月ありさだったのでビックリしました!
えッ・・・!歌上手くない!?
それから注目して彼女の曲を意識して何曲か聴いて
口ずさんだりしてたのを思いだします^^
時は過ぎて、存在を忘れかけていた頃に中古CDショップで
彼女のアルバムが100円で売りに出されていたので
購入し、懐かしいし、やっぱり良い曲も多く歌も
上手かったのでした^^
昨日の食事
朝:牛焼肉(300g)、ご飯、餃子、サラダ
間食:餃子、もずく
夜:スーパーの惣菜(卯の花、煮物、浅漬け、ポテトサラダ)、ライス、枝豆、
夜第二部のつまみ:泡盛一杯、干物、もずく、杏仁豆腐
 
 
【少しだけ我が母校だった、隼人高校出身各分野有名人一覧】
●S44・声優の千々和竜策氏。
●S50・有名女優高岡早紀の実妹で、モデルの高岡由美子氏。
●S59・日本最大ブランド芸能プロダクションJ事務所、人気アイドルグループNEWSの小山慶一郎氏 。 
 ●S60・プロ野球選手、阪神タイガース所属現役選手で、一軍レギュラーキャッチャーの小宮山慎二氏。
●S60・プロ野球選手、千葉ロッテマリーンズ所属現役二軍選手の鈴江彬氏。
●漫画家の不動らん氏。 
●女子バレーボール・柏エンゼルクロス所属選手の山城美沙氏 。
 
 
 
※自分が所属していた、東京豊島区駒込の、日本トップクラス東京有名劇団東俳の、過去所属有名芸能人。 
 
 
 
80年代を代表する、伝説の人気女性アイドルグループ「おニャン子クラブ」の
言わずと知れた、木村拓哉の妻で、美人の工藤静香。
 
 
カリスマギャル巨乳有名アイドルで、美人の安西ひろこ。
 
 
巨乳有名女優で、美人の雛形あきこ。
 
 
 
美人女優の星野真理。
 
 
 
横浜磯子の、浜中学出身の女優で、美人の井上真央。
 
隼人中退後、日本トップクラス東京有名劇団東俳に入団の頃、自分は16歳の頃、
地元が東京池袋の、自分と同じ年の、グラビアアイドルの、美人で性格も良かった山口まなみ氏と付き合ってました。
彼女とは映画を見に行ったり、東京上野恩賜公園でデートしたり、映画を見に行ったりなどの思い出があるが、
公園での『不忍池』と書いてあったので、これを『ふにんち』と読んだら、まなみ氏に爆笑されたが、
これは『しのばずのいけ』と読むのが、正解なので、自分は横浜の人間なので知らなかったが、間違えて盛り上がった記憶が懐かしい。
(残念ながら、まなみ氏の画像なし)
 
 
 
自分の三歳下の、自分の弟分の地元金沢区六浦の元、Jジュニアの十川氏(旧姓ジュニア当時大内氏)。
彼が中学生の時、自分が所属していた、劇団東俳(工藤静香などが所属していた)で知り合い、彼はJ事務所に移籍し、
自分もJ事務所合宿所宿泊や、レッスン等の体験に関わった縁をJ社長に紹介してくれた人物。
J事務所は小学生、中学生からの入所が殆どで自分は当時、16歳のヤンキーで髪型もきついパーマで目つきも悪く、
自分は運動神経に自信があったのだが、踊り重視のJ事務所特有のその踊りが丸っきり踊れず
覚えられずじまいで、しかもハードで時間も長いレッスンにもついて行けず、社長と自分の判断と意志で断念となった。
しかし短いながらも、社長には色々と勉強やお世話になり、とても良い人で、芸能界のドンの半端ではない、器量やパワーを思い知らされた。
Jタレント達のルックスやオーラや芸能実力も確かであった。因みに十川氏の方は、元Jジュニアで元極道という、特殊な異例経歴の持ち主である。
ジャニーズJr.一覧(ジャニーズOB辞典) music.geocities.jp/cake_158/jrichiran.html (ここをクリック)
 
 
※この画像の自分は、23歳ホスト社長の時 

右は、自分と同じ年の、元Jジュニアの有名人で、自分の経営していたホストクラブの副社長の、地元保土ヶ谷の男前の前薗宏一郎氏(元J事務所人気グループ男闘呼組のレギュラー番組内でJ事務所グループを組んでいたり、ドラマなどに出演で、当時は、光ゲンジの私も仲良しだった、諸星和己氏(ジャニース歴代日本トップアイドルグループ中でも、一番人気だった伝説の日本トップアイドル)の、兄貴分でした。)前薗氏とは、J事務所レッスンで知り合い、お互い地元横浜で、隣町ということもあり、その後親友となった。左は五歳下のホスト従業員の自分の地元が隣の六ッ川の長身で男前のM・K氏。因みに前薗氏の実の妹も自分の二歳下の元グラビアアイドル、女優で美人の前薗小百合氏です。自分も仲良しでした。後前薗氏は以前セクシーアイドルの女王であり、美人の故・飯島愛氏と付き合っていた元彼です。(飯島氏が世田谷区の池尻大橋在住の頃)その関係で自分もちょっとした知り合いでした。ご冥福をお祈り致します。

 

 
前薗氏と。
 

自分の二歳下の藤沢の後輩の元Jジュニアの佐藤正人氏。当時は、TOKIOの国分太一氏の兄貴分でした。因みに彼の出身中学は他にも光ゲンジの佐藤敦啓氏や元J事務所グループ少年忍者の正木慎也氏もいます。

 

元J事務所の伝説の超人気スーパーアイドルトップグループ光ゲンジの中でも一番人気であった、自分の一歳下の地元が静岡の諸星和己氏。自分が16歳の時に、J事務所体験の縁で、彼と出会い知り合った。原宿表参道の当時の合宿所から、Jジュニアの自分より年下の、島田健太郎氏と自分と、この、当時は坊主頭だった諸星氏の三人で、合宿所の下で、当時トップJグループだった少年隊のメンバー三人を見送った後、
タクシーで、六本木テレビ朝日の、レッスン場まで三人で一緒に行き、レッスンや、休憩のテレ朝の地下喫茶店でも、同じ席で一緒に休憩した仲であった。後に、光ゲンジとして一世を風靡した。「太陽がいっぱい」最高です。因みに、合宿所で一泊した時、夜から合宿所に入ったが、Jグループの少年忍者や、
当時のJグループ、イーグルスの中村繁之氏と一緒だった。中村氏と少年忍者のメンバーは気さくで愛想が良い人達だった。特に左一番下の、自分と同じ年の高木延秀氏は、性格が良かった。
就寝睡眠後、午前中に目が覚めると、自分の隣に寝ていたのが、当時トップクラスJグループだった、男闘呼組の、トップアイドルだった、自分と同じ年の岡本健一氏であった。彼は、自分と同じ年の上、名前が自分と一緒の健一の為、何かの縁だったに違いない。
そして食堂で、少年忍者のメンバー五人と、朝食をとった。自分が一人で残って食事をしていたら、その時食堂に、当時、近藤真彦と共に、伝説のトップアイドル田原俊彦氏も、一人で入ってきた。(因みに、自分には話しかけてはこなかった(笑)
後J歴代曲で好きなのは、J事務所の大将だった、田原俊彦氏の「ハッとして!Good」と、J事務所や日本歴代で、踊りが一番うまい少年隊の曲「ABC」と「星屑のスパンコール」とSMAPの「胸騒ぎを頼むよ」と嵐の「a Day in Our Life」最高です。
 

taiyou ga ippai(光GENJI)動画はこちらをクリック

[愛ラブS] 96.02.05 Smap-胸さわぎを頼むよ 動画はこちらをクリック

嵐「a Day in Our Life」 PV動画はこちらをクリック

 

 

 
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