EpisodeⅠ 「Ignition」
第五章 「新参者たち」 (1)
日本基準表示時刻11月17日 午前9時32分 千葉県 陸上自衛隊習志野駐屯地
廻る寒風―――――それは駐屯地の広大な敷地を制覇するにはまだ不十分な勢いでしかなかった。冬に入ったとはいえ気温は大して下がらず、隊舎は未だ秋の装いを引き摺っている。そして駐屯地内は、日常としての躍動にその活気の根幹を依存していた。それは何時起こるとも知れぬ有事に備えた、練磨の日々としての日常―――――その有事は、ここ三年の間ずっと現実に、彼ら陸上自衛官の守る日本に近接し続けていた。終わりは、未だ見えなかった。
「スロリア紛争」と呼ばれる「転移」以来空前の大規模軍事衝突と、それの起因する一連の事件は、この「異世界」とも呼ばれる新たな世界に、一から強固なる礎を築きつつあった日本の人々に、ローリダ共和国を呼称する、「前世界」の「特定アジア勢力」に代わる新たなる脅威の出現と存在を知らしめ、今に至るまで意識せしめるのに十分なまでの衝撃を与えた。「転移」以来十数年、それまで領域周辺に特筆されるべき脅威が存在せず、また、立憲君主国家であり、議会制民主主義国家たる日本の、国家としての根幹を揺るがしかねない動乱すらその片鱗を伺わせなかった以上、脅威の出現は衝撃的であり、あるいは新鮮ですらあったのだ。そして戦争は、日本にとって「転移」以来継続されてきた善隣外交、集団安全保障政策を一変させる「転機」の到来とも言えた。
――――73式小型トラックは正門の検問を経て、それから隊本部へと続く交通路を暫く走ったところで止まった。
「ここで宜しいのですか? 二尉どの」
「ここでいいよ。有難う」
なおも食い下がりそうな表情の運転手を無視するかのように、後席の幹部は外へと出た。幹部とは言っても、外見の服装は駐屯地では普通に見られる、俗に言う「作業服」と何ら変わり映えするところが無かった。だが、もみあげから顎にかけて延び、短く切り揃えられた顎鬚が、作業服との組合せとも相まってこの種の「個性の発露」に決して寛容ではない自衛隊という組織において、強烈な違和感を醸し出している。そして、体躯の細さに比しても分厚い、頑健な胸板を飾る特技章と肩の所属部隊章のみが、彼の出自と所属とを見る者に知らしめる効果があった。今や、その肩章を目の当たりにして、震撼、あるいは畏敬にも似た感情を覚えない者は、陸海空自衛隊にはいない。
翼を広げた鳶、剣、それらを囲むように拡がる榊の葉――――それが日本最強の特殊作戦部隊の徽章であり、地上で最強の漢たるを示す証であることは、日本国内のみならず日本側の呼称で「新世界」とも称されるこの異世界の住人にも広く知られるところであった。だが、彼らがいかなる役割を担い、あるいはいかなる戦果を上げたのか知る者はいない。それは奇妙なことではあった。最も戦果を上げ、国家の安寧と勝利に貢献してきたであろう部隊が、その戦果はもとより陣容に至るまで完全な防衛機密の壁に阻まれているとは―――――
彼ら――――陸上自衛隊特殊作戦群――――は秘密部隊であった。秘密部隊という呼称には二通りの意味があった。武力組織としての自衛隊に肯定的な者は、彼らを破格の戦闘力を有する、不可能を可能にする非常時の「切り札」と見做し、否定的な者は、彼らを国家権力の壁に阻まれた、決して表沙汰にならない事件を解決するための非公然かつ非合法な工作任務に従事する「影の部隊」と見做す……それらの見方は何れもある意味において誤りであり、あるいは事実であった。
そのような彼らの声望は、「転移」以来、国際社会の様々な分野から漏れ伝わる赫々たる戦歴が物語り、あるいは誇張され、そして彼らの実績は、過日の「スロリア紛争」で絶頂に達した。
書名「SFGp戦闘員」……「スロリア紛争」の二年後に特殊作戦群OB―――著者名は仮名、除隊後の所在地及び生年月日も不明、経歴すら第一空挺団から特殊作戦群に採用され、以後五年間を特戦群隊員として活動したとのみしか記されていなかった―――の名によって発表され、出版された手記は、その過酷な選抜訓練の中身、苛烈な戦闘訓練内容、そして公開されることの無かったこれまでの特殊作戦の経緯の生々しさも然ることながら、作中に記されていたスロリア戦における特殊作戦の内幕が読者層の大きな反響を呼び、その後5週間に亘り都内大手書店の売上部数一位を記録したものであった。作品は後に某人気週刊漫画誌において漫画化されてやはり好評を得、今では実写映画化の話まで出ているという――――
――――だがそれは、「彼ら」にとって不本意なことだった。何故なら影に生き、影に戦うことこそが彼らの存在意義であり、そして誇りであったからだ。夜陰に紛れて敵地に侵入し、敵の基地を爆破することぐらいならば何も特戦でなくともできる。決して表に出ない―――あるいは、出してはならない―――作戦を、其れが影に在る内に終わらせ、その影の片鱗すら表の世界に出さぬように済ませるのが特戦群の役割なのである。作戦が明らかになるということは、彼らにとっては作戦の失敗とほぼ同義に捉えられるべきことであった。「何をやっているか判らない、得体の知れない連中」――――「彼ら」にとっての外部からの評価は、それ位が丁度いい。
――――途上で体力練成のランニング中の空挺隊員の一団と行き合い、さらに敷地内を走る中型トラック二台と行き合った先で、二尉の足は止まった。駐屯地の一隅に佇む灰色の巨大な立方体。そこに在るだけで芯から圧迫されるような感覚を喚起される、窓一つないそれの平坦な屋上では、無数のパラボラアンテナとバーアンテナが、ちょっとした密林を作っていた。建物の一角、建築物としての造形美などとは一切縁を切ったかのような、無造作に構えられたドアに前に立つ。
壁に埋め込まれた監視カメラの眼と、それを見上げる二等陸尉の眼が、合った。画像照合システムと連動する、建物内の一角で機能している隊員データ照合システムが、その役割を果たすのは一瞬――――
ドアの傍ら、同じく灰色の外壁に嵌め込まれた機械のランプが赤から緑に替わる。特戦群隊員のみに与えられる識別カードの挿入を促す信号だった。黒い識別カードを挿入するや、眼前の人物を取り込もうとするかのように開くドア―――――
二尉の脚は、そのまま入口を越えた。そして背後の入口に通じるドアが閉じた。今までにこの光景に接して、逃げ道を塞がれたように感じた者は、決して少なくなかった筈だ。そして二等陸尉といえば、入隊以来これには中々慣れることが出来ずにいた。元から暗めに設定されていた室内の明かりが消え、赤一色の警戒色に替わったのはその直後だった。眼前には、まだドアがあった。
『――――身体スキャン開始――――完了まで5、4、3、2……完了』
警戒色が消え、前方のドアが開かれた。建物の中央を貫くエレベーターに歩を進める。同様の身体検査システムはこの狭い空間の中にも走っていた。厳重……あまりにも厳重に過ぎる警戒体制――――
エレベーターが停まり、二等陸尉は恐らくはこの建物で最も重要な部屋へと足を踏み入れる――――
「――――鷲津 克己二等陸尉、参上いたしました!」
「…………」
外からは確認できなかった窓があった。部屋の主の占める机のすぐ背後に広がる千葉の街の全景。そして机の長椅子は、恐らくは部屋の主を横たえさせたまま、二等陸尉に背を向けていた。
部屋の主が言った。硬い、感情の籠らない声であった。
「御苦労、座れ」
机の前に置かれた椅子に腰を下す。それがスイッチであるかのように机の椅子が周り、彼の上官の姿と正対する。
精悍な顎鬚顔が、一瞬固まった。
「…………」
訝る様な、鋭い眼つきだった。体躯の輪郭は二等陸尉とほぼ同じ。だが陸上自衛隊制式の制服の下に隠された筋肉の密度は、二等陸尉よりも厚く保たれているように思われた。無髭だが、むしろそれ故に日焼けした端正な容貌が一層強調されているように見えた。襟元を飾る階級章は、一等陸佐のそれだった。
一等陸佐は、言った。
「カプリでの休暇は、楽しかったようだな? 克己」
「……判りますか?」
克己と呼ばれた二等陸尉は、一佐から視線を泳がせながらに応じる。
「潮の匂い、酒の匂い、女の匂い……この場に相応しからぬ娑婆の匂いが嫌でも此処まで漂ってくる。今度ここに来るまでに全部落としておかないと、特戦群からは永久におさらばすることになる。肝に銘じておけ。鷲津 克己」
「む……」
二等陸尉、鷲津 克己は挑むような眼をした。一方で一等陸佐にして特殊作戦群 群長 御子柴 禎は長年の部下にして戦友たるこの男を、このようにして挑発するのが嫌いではなかった。
鷲津二尉は先月に二尉に昇進したばかりだった。あの「スロリア紛争」への従軍歴は無い。御子柴一佐ら特戦群の主力がスロリアという未開の地で、自衛隊開闢以来の大規模な地上戦に参加していた最中、当時准陸尉であった鷲津は、日本本土から見てスロリアとは全くの逆方向に位置する南洋の小国で、現地の軍隊の訓練指導任務に当たっていたのだ。そして事前の予想に反して順調に過ぎた戦況は、彼らをしてスロリア戦への参入という選択肢を取らせることは無かった。
だが……スロリア戦を除けば、鷲津の戦歴は赫々たるものだった。スロリア戦の先年に戦われた、西方の小国クルジシタンにおける反政府武装勢力本拠地への強襲作戦において、反政府ゲリラの重囲に陥った友軍を援護する作戦で重要な役割を果たしたことを始めとして、その前にも様々な特殊作戦に従軍歴がある。それでも、ローリダ軍という、それまで鷲津が戦ってきた武装勢力や犯罪組織とは一線を画する武力と組織力を有する「軍隊」と一戦を交えるという機会を失したことへの煩悶は、実のところ未だ鷲津自身の胸中に巣食っていたのだった。
御子柴一佐は、言った。
「カプリの防衛大臣は、お前の事を褒めていたそうだ。教え方が上手いとな」
「向こうは……確かに天国でしたよ。ただ……」
「ただ……?」
「自分としてはスロリア戦は残念でした。自分独りでもいい、アダロネスとやらいう連中の首都へ潜入させてくれさえすれば、それで戦争を終わらせることもできたのに……」
「独りで潜入して、何をする気だ?」
「勿論、向こうの一番偉いやつの首を取って来るんですよ。カメシスとか言ったかなぁ、向こうの王様の名前は……」
そこまで言って、鷲津二尉は苦笑してみせた。今更ながら年不相応な稚気の発露に、自分ながら苦々しさを覚えたかのようであった。彼をこれ以上喋らせまいと務めたかのように、御子柴一佐はさらに話題を転じた。他の者には不可能だが、この男ならやりかねない……御子柴は実はそう思っている。つまりそれは彼の能力に対する信頼であり、予想を越えた無軌道さに対する懸念でもあった。
「休暇中の妄想も結構だが、悪い知らせがある。貴様の分隊に出動してもらうことになった」
「確かにそいつは、悪い知らせだ」
「行き先は、待望のスロリアだ」
「――――――!?」
自衛官らしからぬ、遊び人のような表情の軽薄さが、戦闘に臨む武士を思わせる精悍なマスクへと一変した。それを待っていたかのように部屋から急に照明の光が落ちるように消え、殺風景な部屋の壁の一端が、電子的な数字と文字、そして図表と画像の羅列を映し出した。画像は、スロリア亜大陸の一端の地形図だった。未だ「武装勢力」ローリダの支配下に在る東端の数か所が赤く表示され、同時に廃墟と化した村の画像と死体の山を表示する。
「三年前、我が国はスロリア紛争に於いて武装勢力の東侵を抑え、彼らの支配下にあるノドコールの住民選挙を確約させた。そのノドコールの住民選挙まで、二年を切った……」
「…………?」
「近来、ノドコールの情勢は極めて安定を欠きつつある。独立派、ローリダ派の住民同士の抗争が激化し、内戦の一歩手前と言ってもいい」
「テレビや新聞だと、そう言ってますねぇ……」
と、鷲津二尉は嘯くように言った。それらの報道媒体に、はなから何の信頼も寄せていないかの様な口調だった。
「そうだ、テレビや新聞だとそう言っている」
「…………」
壁に埋め込まれた巨大な情報表示端末から目を離し、鷲津は御子柴に目を細めた。
「実際は違うと?」
「違う。むしろ『ロメオ』が武装した入植者あるいはそれに偽装した工作員を用い、一方的に現地人の集落を襲撃しているというのが政府及び外務省、防衛省の見解だ。ただし公式の見解ではない。防衛省は公にしたがったが外務省が反対した。公にしたら『ロメオ』との新たな外交摩擦を生むかもしれない。ここで徒に彼らを刺激すれば、将来の住民選挙を反故にされかねないというのが外務省の意見だ……政府は、それを容れた」
「ふぅん……」
そこまで言って、御子柴と鷲津は同じ表情をした。外交摩擦?……それは国家と国家との間で起きることだ。だが現在に至るまで日本はその外交摩擦の相手たるローリダ共和国とは正式な国交が無く、従って国内法では国家と認めていない。日本にとって「ロメオ」ことローリダ共和国とは、先年の衆議院外交委員会における外務事務次官の発言内容を借りれば、あくまで「武力を以てスロリア地域東端部を、高圧的な実効支配下に置いている武装勢力」なのだ。その「国家でない何者か」と、外交摩擦が起きる?……それは妙な話ではあった。
鷲津二尉は言った。
「――――その非公式の見解が事実か否か、俺たちに現地に飛んで確かめて来いってわけですか?」
「そうだ。詳細に関しては来週の初めにも貴様らD分隊を集め、正式なブリーフィングを行う。克己、今回貴様を此処に呼んだのは、それに先立って貴様に新しい任務について報せておこうと思ったのもひとつだ」
「わかりましたよ……で、もうひとつというのは?」
「聞きたいか? 何なら来週でもいいぞ?」
「いや、聞いてあげましょう?」
傲岸不遜な、相手を挑発するような物言いは、この男の特徴であった。
「先週、学生が一名、継続訓練を修了したという話は聞いているよな?」
「聞いていますとも。適性には疑問符が付くが、運だけは……いいやつらしいですね」
御子柴一佐の口から、言葉が消えた。訝る鷲津の眼差し―――――
「…………」
「鷲津の分隊に配属する」
「何で……!?」
「当人に関する資料はすでにそちらに回してある。議論の余地は認めない。初期の選抜訓練志願者98名、そして今回継続訓練まで進んだ7名の中で、ただ1名だけの修了者だ。難しいだろうが、まあ、何かと面倒を見てやってくれ。以上」
「くそっ……!」
忌々しげに、鷲津二尉は首を傾けた。新入りの教育は、南方の僻地で十分過ぎるほどやった。今回はそれよりずっとマシであるにしても―――――
「……で、どんなガキなんですか。今度の新入りは?」
机のノートパソコンを操作しつつ、御子柴一佐は応じた。普段の剛直な彼らしくない。からかうような口振りだった。
「……人間的には克己より遥かにまともだ。年齢は24歳、品行も勤務成績も優良と来ている。今年訓練期間中に二等陸曹に昇進、そしてなによりもこいつは……お前と違って妻子持ちで、スロリア戦従軍経験のある勇士でもある。スロリア戦で従軍記念章と負傷勲章を受章。帰国し療養を経て現役復帰後に部隊レンジャー課程修了、続けて空挺レンジャー課程修了、息つく間もなく同年の冬季戦レンジャー課程に参加、だがこれは負傷により教程修了間近で脱落している……それでも熱意だけを見れば、大した人材だ」
「聞いているうちに、ますますムカついて来たんですがね……名前は?」
「名前か……待て、これはまさか……」
「…………?」
ノートパソコンの端末を覗く御子柴一佐の表情に、鷲津二尉は内心で新鮮な驚きを覚えた。
うちの隊長が……微笑っている……?
すでに日は高かった。久しぶりで着用した制服が、体が慣れるであろう今になっても、相変わらず違和感を強いて来る。
脳裏では、文明世界に戻って来たという感覚を、今更のように取り戻しつつあった。だが意識はあの強烈な非文明的な記憶を、生まれてから今までの人生そのもののように引き摺っていた。
長身に属する体躯。だがそれは分厚い筋肉とか頑強な骨格とか、決して過分な屈強さを他者に印象付けるものではなかった。何処にでもいるような、平凡な体格の人間、それが陸上自衛隊の制服を着、習志野駐屯地の正門を潜ろうとしている。健康的な顔立ちは若々しく、時として醸し出す少年らしい瑞々しさは、一切の穢れを入隊前に家に置いて来た、とも思われた。無帽はいいとして、自衛隊内で無言の内に素性を報せる効果を有する所属部隊章はおろか技能章も無し。まっさらな制服はそれ故に行き違う隊員は彼を訝しみ、それ故に目を細める。下校中の女子高生の一団が、すれ違いつつもその円らな瞳を彼の顔に向け続ける。喩え制服の効果もあるにしても、彼が女性の興味を引く類の容姿の持主であることは確かだった。
階級は、二等陸曹――――
「――――姓名及び階級、所属部隊を申告願います!」
正門を預かる警務隊員の求めるがまま、青年は身分証を差し出した。身分証を一読した隊員が急に背を正し、青年に敬礼した。
「失礼しました! すぐに特戦本部へ取次ぎますので暫くお待ちください」
通されるのに、時間は掛からなかった。青年の足は警務隊員に教えられた道程を忠実に辿り、彼がその日行くべき場所へと彼自身を導いた。
「…………」
灰色一色の窓さえない建物を、青年は茫然として見上げた。事前の話には聞いていたが、駐屯地の中に在って一際異彩を放つ特殊作戦群の司令部、自分もその住人になるというごく近い未来に、今更ながらに躊躇を覚える。だが、もう引き返せない位置にまで、彼は来ていた。本部周囲に張り巡らされているという多機能カメラ、赤外線監視装置、動的探知センサーを始めとする無数の監視装置は、すでに侵入者としての彼自身の存在を察知し、彼の一挙手一投足を注視している筈だ……
正面入り口と事前に教えられておかねば判らない程、目立たない構えのドアの前に立つ。それが、本部入室に際して青年が教えられていた全てだった。程なくして独りでに開くドア。外からでは先が見えない細長い廊下が、新入りを迎えるべく延びているのが見えた。赤外線センサーによる玄関口での厳重な身体スキャン、司令本部内部に至るまでの、室内の各所に張り巡らされた各種警戒センサーの無機的な気配もまた、噂通りだった。
エレベーターを降り、司令本部へ通じる唯一のドアの前に立つ。特戦群とは言っても、自分のようなヒラの隊員はおろか陸幕の上層部の人間すら滅多に立入りを許されない深奥たるその部屋に、彼が足を踏み入れることになるのは、おそらくはこれが最初で最後になる筈だった。
「高良 俊二 二等陸曹、参上いたしました!」
入室と同時に姿勢を整え、高良 俊二は敬礼した。その敬礼の先で、部屋の主人たる幹部は、肩肘を付き現れた新人の敬礼を見詰めていた。一等陸佐の階級章を付けたその男と、俊二が会うのは、実のところ初めてではなかった。その男は黒檀の机から、一切の感情を宿さない眼で新参者の観察を決め込んでいた。
「…………」
「御苦労、こちらへ」
御子柴一佐は言った。魔法が解けたかのように自分の足が進むのを俊二は覚えた。
「ご覧の通り、我が隊は精鋭部隊だが秘密部隊でもある。我々の任務は重要にして過酷だが、それに報いるに常に十分な戦果と称賛ありとは考えない方がいい。わかるな?」
「はい!」
「…………」
御子柴一佐は黙った。自分を見詰める眼に、先刻までとは違った光が宿るのを俊二は察した。
「四年前……あの事件以来だな」
「覚えていて下さったのですか……」
「忘れる筈もない。あれが……全ての始まりだったのだからな。我が国にとっても、そして、君にとっても……」
「ハッ……!」
自ずと、背が伸びるのを俊二は感じた。
「四年前と比べ、自衛隊は元より我が国は変わった。何よりも変わったことにはまず、現在我が国には明確な『敵国』が存在する。それも強大で、我々の道徳の通用せぬ敵だ」
「判っております」
「その敵と我が国は、現在スロリアにおいて対峙している」
「……ローリダ共和国」
独白にも似た俊二の言葉に、御子柴は頷いた。
「君はその敵と真っ先に対峙し、そして戦った数少ない生残りだ。その経験をこの部隊でも生かし、役立てて欲しい。詳細は追って報せるが、君は近い将来そのスロリアに展開する分隊に参加することになるだろう。場合によっては……覚悟はできているか?」
「できております……!」
机の引き出しが開く。特殊作戦群の徽章および肩章と、何よりも他者にその持主が自衛隊に於いても、そして日本国内に於いても「異能者」であることを強く印象付けさせるもの―――――
「高良二曹、前へ」
「はっ……!」
――――――黒いベレー帽。無帽の俊二は、御子柴一佐自らの手によりそれを被る。それが精鋭を得るべく人為的に作り出された煉獄の連鎖を乗り越えた最後に、択ばれた者が通過することを許された特殊作戦群の儀式だった。一歩後に退き、暫く俊二を凝視した後で、御子柴一佐は言った。
「高良二曹、貴官の入隊を歓迎する!」
「謹んで、拝命します!」
俊二の敬礼―――――そして御子柴一佐の答礼。
「――――――――!」
司令部を出て、駐屯地を東西に貫く大通りに達したとき、高良俊二は深呼吸をした。此処に来た時には根なし草も同然だった青年は、今や陸上自衛隊という組織の中でも一際異彩を放つ人材となっていた。左胸を飾る特殊作戦徽章、肩章、そして黒いベレー帽の重み―――――覚悟はしていたが、今更ながらにズシリと圧し掛かる責任の重さに戸惑う俊二がいた。
常に国防の最前線に立ち、あるいは何の支援も期待できない状況で国家の敵と死闘を繰り広げる運命をも科せられるという責任―――――むしろこれまでの「S課程」の頃が、それらを感じられずに済ましていられたという意味で気楽だったかもしれない……
所在無げに駐屯地敷地内のベンチに座り、その「S課程」を俊二は思った。
―――――陸上自衛隊 特殊作戦群隊員を養成する特殊作戦要員教育課程――――通称「S課程」――――は、基本的に陸海空自衛隊のあらゆる兵科から志願者を募っているが、陸上自衛隊戦闘兵科でも、精強とされるレンジャー徽章保持者や空挺隊員がその中核を担っているのはごく自然な成り行きだった。俊二もまた「スロリア紛争」後に部隊レンジャー課程修了を経て空挺レンジャー教程を終え、そして「S課程」の門を叩いた。煉獄の扉は、特殊作戦群身体検査と大昔の知能テストを思わせる筆記試験、そして厳重を極める経歴、身辺関係の特殊調査を通過した直後に俊二と彼の同期生97名を待ち構えていた。引き返すことはもう出来なかった。何故なら「S課程」は原則として、一生に二度しか受験することができなかったから―――――
「―――――降りろ!!」
当初、総勢98名の志願者は、ごく初期の検査を受けた後に大きく二つのグループに別たれた。それが、彼らが互いのグループを見た最後だった。自身の属するグループが即座に試験場の外へと連れ出され、そこで用意されていた完全装備を着用の上で、急かされるように乗せられた大型トラックが試験場のある駐屯地から飛び出した時、俊二たち57名は初めて自分たちが「選別」と呼ばれる検査をクリアし、真に「S課程」のスタートラインに立ったことを悟った。そして「S課程」訓練生としての最初の試練は、長時間の走行の末、密閉されたトラックが停まった深夜に彼らを待っていた。俗称「ワンエイト行軍」――――過去のレンジャー課程に於いて鍛錬の場となった千葉県鋸山の山岳地帯に設けられた全行程18マイルに及ぶ行軍コースを、夜明けを迎えるまでの一定時間内に、それも完全装備で通過することを俊二たちは求められたのである。一マイル当たり10分のタイムでは、踏破は到底覚束なかった。そこで、夜明けを迎えるまでに制限時間内の踏破を果たせなかった9名が原隊復帰を強いられた……
残った48名は再びトラックに乗せられ、習志野駐屯地へ移動する。そこでは通称「採用係」と呼ばれる面接官が、俊二たちを待ち構えていた。面接用に区画された特別室に入室した訓練生はまず、眼前に座る面接官に度肝を抜かれる筈だ。特戦群の徽章を付けた制服は自然として、面接官の頭部全体を包むように覆うバラグラヴァが受験者たる訓練生に、一切の懐柔を拒絶しているように思われるのだった。バラグラヴァの穴から覗く眼光は鋭く、彼がこれから投掛けるであろう質問に対する、訓練生の下手な回答を許さない雰囲気を漂わせていた。
「――――堀江貴文について語ってくれ」
「――――『前世界』の太平洋戦争において、旧陸海軍がガダルカナル島争奪戦に敗北した原因について貴官の意見を述べよ」
「――――田母神俊雄を解任した当時の防衛大臣の判断は正しかったと思うか?」
四時間に亘る面接は、大抵こうした質問から始まる。上記の質問の通り、先ず時事問題や教養、ひいては歴史観に絡む質問を投掛けることで、受験者の知性、思考力、そして思想をチェックするというわけであった。見方を変えればこれは、特戦を目指す者に単なる「体育会系」は必要ない、という無言の回答でもある。受験者によってはこれを最大の関門と言う者すらいた。
「――――これまでの隊歴を顧みるに、貴官が優秀な隊員であることは判った。ではどうすれば貴官の評価を地に落とすことができるかを教えてくれ」
「――――何故我々が貴官を仲間にしなくてはいけないんだ? 優秀な隊員の数は足りている。他隊を当たったらどうだ?」
「――――自分は優秀な隊員だと? 特戦の隊員であるからには皆優秀であって然るべきだ。貴官にしかない技能は何だ? 貴官にしかできないことは何だ? 貴官がこれまでどういう経験をしてきたというんだ?」
面接も終盤に入る頃には、受験者の熱意と対応力を図る圧迫面接――――否、心理試験へと変貌を遂げている。中にはこの段階に達する前の段階で面接を打ち切られ、そのまま原隊に帰される者も決して少なくないのだった。
俊二は、残った。残った者は彼を含めて23名。彼らはその日の内にCH-47JA輸送ヘリコプターに搭乗し、実質上の最初の試練たる「選抜訓練」に臨むこととなった――――――
富山県、立山連峰―――――
特殊作戦群の構成員、あるいは彼らに何らかの形で関わりを持つ者は、その山々を「日本のブレコンビーコンズ」と呼んだ。
長時間の飛行の末、CH-47が降り立ったのは北陸地方、1,000メートル級の山々が林立する荒涼、あるいは峻嶮な山岳地帯たる立山連峰。山々は緩急の差、寒暖の差が烈しく、夏は陵線の輻射熱で30度以上の高温が乾いた風と共に山岳を支配し、冬は湿った寒風を引き連れた豪雪が峰々に白化粧を施す。古来より山岳信仰の舞台となり、数多の修験者たちを生み出し、あるいはその絶景の中に呑み込んできた立山が、100年余りの刻を越え現代の修験者とも言える特戦群の訓練生を迎えるに至ったのは、必然の成り行きとも言えた。
「選抜訓練」の内容は、表記すれば単純だ。訓練期間は3週間。その間訓練生は、山々に設けられた目的地まで制限時間内に踏破する事を要求される。それも、総重量25㎏に達する背嚢を背負った完全武装の状態で―――――そして背嚢の重量は増えることはありこそすれ、減ることは決してない。背嚢の重量はルート上の各所に設けられたチェックポイントで厳密に計量され、25㎏を下回っていることが発覚した時点で、訓練生は失格となる。
「…………」
その背嚢上面に張り付けられたオレンジ色の識別布。凡そ軍事組織に似つかわしくない丸文字でそこに記された一文に、俊二たちは思わず我が目を疑ったものだ。
「登山客並びに観光客の皆様へ、この訓練生にエサを与えないでください―――――陸上自衛隊 特殊作戦群教育隊教官一同」
「しゅっぱぁーつ……」
腕時計を覗きつつ訓練の開始を告げる教官の声は、淡々としている。
目的地までの地図を判読し、自己の位置をコンパスや太陽、星々の動きを以て確認しつつ訓練生は山間を進む。訓練生にとって最も過酷なのは、訓練の「終わり」を知らされないことである。つまりは教官がその日の訓練の終了を告げるまで、訓練生たちは重い荷を背負い山々を彷徨することになるのだった。行軍に於いて所定の集結地点に時間内に達した直後であろうと、深夜であろうと就寝中であろうと教官によりさらなる行軍を命ぜられ、新たな集結地点と所定時間とを告げられるのが常態であり、些細な理由から後戻りを命ぜられることもままある。行軍中のまま夜を迎え、そして日が換るのも常態であった。
これらが日常になるにつれ、訓練生の精神には変化が見え始める。何時終わるとも知れない行軍、そして、鰹節を削る様に徐々に短縮され行く制限時間、難解さと峻嶮さとを増す行軍コース……夏に高原帯を蹂躙する吸血ブヨの大群と、冬には間断なく襲い来る氷雪の猛威……立山特有のこれら過酷な自然環境の上に、肉体的な疲労と精神的な圧迫感が重なった時、訓練生は当初はレンジャー訓練の延長とたかをくくっていた特戦群の訓練が、その実周到に企画され、計算された一種の「拷問」であるように錯覚するのだった。
俊二もまたその一人だった。
「選抜訓練」のその半ばを乗り越え掛けたある日―――――
日を数えるのは、すでに1週間で止めていた。何時終わるとも知れない彷徨。肩に食い込むベルゲンの重さ。斜面を何度も滑り落ちた末に登り切り、陵線沿いの山道に達したところで俊二は力尽き、膝……そして手を付くのだった。それでも途は未だ続き、制限時間はその半ばを過ぎていた。
「…………」
そして空模様―――――分厚い、灰色の雲に覆われた天球を、俊二は恨めしげに見上げた。今にも雨粒を注ぎ、それを豪雨の奔流に一変させそうな空、それがこれほど重いと感じられたことはなかった。レンジャー訓練の際にはそんな感情など一回たりとも抱いたことはなかった。何故なら、レンジャー教育の場は富士山麓の密林。天を突く木々の連なりが、俊二たちレンジャー学生を空の重さから護っていたから―――――
そのとき―――――
眼前の地面に射す影―――――
「どうした? もう限界ですか?」
「―――――!?」
横から呼び掛けられ、そして俊二は再び頭を上げた。見上げた先には俊二と同じく完全装備の、長身の男。だが彼が俊二と同じ立場ではないことは腕に巻いた教官腕章から、すぐに判った。だが―――――
「…………?」
驚き、次の瞬間には俊二は我が目を疑った。ごく普通の、何処にでもいるような顔立ちの男だった。特殊部隊員にありがちな歴戦の勇者といった風格には彼にはない。どちらかと言えば生存技術の訓練と言うより、考古学の発掘調査で大学の教官室からこの山奥まで来た若手の准教授……といった印象があった。階級は一等陸尉……それが、軍服を着ている?
見守る様な、あるいは観察するような涼しい眼差しもそのままに、教官は言った。
「立つんだ。時間がありませんよ?」
「…………」
俊二は俯いた。言葉に答えようとしたとき、急に軋んだベルゲンの重みに背中が耐えかね、彼から眼を逸らす形になった。再び頭を上げたときには、教官の姿はもう近くには無かった。山道の先、新たなる頂を目指し遠方を歩くベルゲンの後姿―――――部隊内で敬意をこめて「導師」と呼ばれる彼が、特殊作戦群でも図抜けた優秀さと豊富な戦歴を誇る人物であることを知ったのは、ずっと後のことだ。
……二週間後、俊二は半死半生の体で「選抜訓練」を修了した。23名の訓練生中修了者は俊二を含め10名。俊二は10名の内で最下位の成績だった。下手をすれば、そのままエリミネートも有り得たかもしれない修了成績―――――彼は運が良かった。俊二自身が他の誰よりもそれを痛感していた。
「継続訓練」―――――2週間の休暇の後に「選抜訓練」を通過した者に用意された新たな試練は、傍目から見ればそれこそが真の特殊部隊の訓練と言えるかもしれない。特殊作戦用の銃器、より強力な重火器、特殊作戦に使用する各種車両、高価且つ精密な通信機器の操作、そして特殊部隊隊員たるに相応しい戦術の演習―――――選抜訓練を乗り越えた10名の課題は、それらに集中されることとなったのである。
20週間に及ぶ「継続訓練」の初期、初めて手に取った89式カービン銃の軽さに対する驚きを、俊二は今でも覚えている。従来の89式小銃を軽量化した新型銃は、それ故に生ずるであろう射撃時の反動は意外に軽く、集弾性能も良好だった。四年前のクルジシタン戦で初めて実戦に投入され、以降改良を重ねてさらに洗練された89式カービン銃の高性能に俊二は酔った。だが、俊二が習熟することを要求された武器はそれだけではなかったのだ。M24狙撃銃、バーレットM82対物ライフル、カール-グスタフ無反動砲、01式軽対戦車誘導弾、M2重機関銃、MINIMI分隊支援機関銃……凡そ陸上自衛隊の戦闘団隊員が使用する全ての火器のみならず、指向性の対人地雷、各種爆発物の取扱、その上に合法非合法の手法で入手した「友好国」及び「非友好国」の兵器操作、当面の敵軍たるローリダ軍から鹵獲した各種火器の操作法が加わった。その高度な戦闘技術と機動力ゆえに、特殊作戦群は「友好国」への軍事顧問的な役割を得て―――やはり極秘裏に―――国外に展開する場合がある。諸事情により本国より武器弾薬の支援を受けられない場合に対する想定の他に、異国の兵器に習熟することの意義がそこにあった。
ザミアーと呼ばれる、ローリダ軍の制式小銃はずしりと重く、俊二には扱いづらいように感じられた。しかもクリップ状に纏められた弾丸を、直接薬室に叩き込む装弾方式……射撃時の反動は強く、その一発あたりの威力もまた強い。中距離での狙撃用途を除けば、特殊作戦向きの銃であるとは到底言い難かった。陸自の隊員は、こんな銃を扱わずに済むだけ彼らの敵よりずっと恵まれている――――ふと、俊二はそのような事を考えた。
「S課程」が「継続訓練」に入り暫く息を潜めていた地獄としての側面を、再び覗かせたのはその後半に入ってからの事だ。具体的には「継続訓練」後半10週間の内、2週間の市街戦闘訓練に加え、各4週間に亘る熱帯地適応訓練、寒冷地適応訓練という「実地演習」が訓練生を待っていたのである。「転移」後の日本では前者は沖縄、後者は北海道において行われていた。特にこの二つは内容の濃密なること、そして過酷なることで有名だった。特筆されるべきは、従来の集合訓練ならば模擬弾や電子バトラーで行っていた戦闘演習を、特戦群の訓練生は実弾で行うことを要求されたのである。極限状況下で実弾の取扱いに習熟し、戦場に近い感覚をその肉体の髄にまで染み込ませることにこれらの訓練の狙いがあり、さらには訓練生個々人にかかるストレスの度合いを計ることで、不適格者を排除する狙いもこの訓練にはあった。そして演習中に幾つも付与された想定は、その困難さの程度を問わず、それが「完遂」と訓練隊本部に判定されるまで休みなく何度も繰り返される――――勿論、これを途中で止め、原隊に戻る「自由」を訓練生に持たされたまま……
「――――空挺団では、おれは中隊の誰よりも優秀で通っていた……ところが此処じゃついていくだけで精一杯だ」
と、訓練の過程でだいぶ打ち解けた間柄になった訓練生が俊二に言った。俊二と同じ「スロリア帰り」で、純粋な体力、戦闘技術だけならば明らかに俊二のそれを凌駕していた筈の彼もまた、結局は精神の損耗に堪えられずに「壊れ」て、原隊へと帰された。彼と同じくこの10週間の内に極限状態下の適応力や協調性の面で不備を露呈したか、健康状態を悪化させた訓練生(「継続訓練」以降の課程に関しては、健康状態を害した場合、状況によっては教官の合議と療養の上で、課程への「再挑戦」は認められていた)が次々と去り、最終的に次の過程に進んだのは4名でしかなかった。俊二もその一人だった。
そして、「継続訓練」に続く「耐久尋問訓練」―――――
それは「S課程」の途上ではあったが、「S課程中」最も過酷な訓練だと言われていた。何故なら訓練生は簡易な地図とナイフのみを持たされ、広大な富士演習場を「状況終了」の命令が下りるまで彷徨することになるからである。それも、優に一個大隊相当数の普通科部隊から成る追手の追跡から逃れつつ……その名称は「耐久尋問訓練」と言った。
「耐久尋問訓練」は、特殊作戦群の創設と「S課程」の始動以来の伝統を持つ。任務中敵中に孤立し、そして敵に囚われた際の対処法教育から始まったそれは、現在ではこれまでの生存訓練で培ってきた知識と技術の集大成という一面も持っていた。追手たる普通科部隊にしても、「耐久尋問訓練」は敵性工作員の捜索及び掃討訓練の一環であり、「工作員役」の訓練生を捕縛した者に与えられる特別休暇は垂涎の的であった。需要側と供給側の利害の一致が、訓練生を新たなる極限状態へと追い込む格好の「誘い水」となった。
「耐久尋問訓練」の初日、俊二たち4名の訓練生は使い古しの、ぼろぼろの戦闘服を着せられ、富士演習場内の某所まで車両で運ばれた後、文字どおりに「着の身着のまま」の状態で放り出された。他の三人と別れ、最初に遭遇した哨戒部隊を茂みに潜んでやり過ごすと、俊二は戦闘服の上に枯れ草を纏い、あるいは服と肌に泥を擦り付けて即席の偽装を施し、茂みの只中で夜を待った。
そして、夜―――――
星明りを頼りに、俊二は交通路の端に沿って歩き出した。時折、遠方から車のエンジン音を聞く。迫りくる何者かの気配を感じるや、茂みや森に飛び込み、あるいは潜んでこれをやり過ごす。脅威は何も地上のみから訪れるわけではない。上空を飛来する捜索ヘリ、あるいは無人偵察機にも注意を傾けねばならない。事実、下方へサーチライトを照らし出しながら、低空を航過するヘリには既に何度も遭遇している。
俊二の体内時計と勘が正しければ、「耐久尋問訓練」が始まっておそらく三日目の昼―――――ついに俊二は捕捉された。
「―――――――!?」
山間に点在し、縦横に絡み合う木々の間を縫う様に走り、そして駆け抜ける。それでも脅威が迫って来るという感覚を、その背中から容易に振り解けない俊二がいる。途を急ぐ人間の歩調の立てる微かな音と共に、盛んに吠え立て、這うように迫る人ならぬ何かの気配―――――
「…………!」
俊二は内心で愕然とする。追跡者たちは警備犬も伴っている。人間は兎も角として犬に追われ、襲われるのはたまらない。自然と走るペースが上がり、俊二は山間のさらに奥へと歩を進めて行く―――――本当の絶望は昼が過ぎ、不意に前方に出現した追跡者の分隊と、彼らに解き放たれた警備犬の疾駆という形で俊二の前に訪れた。知らず自分が追い込まれ、敵の懐中に飛び込んでしまったことを俊二は悟ったが、引き返す機会は既に失していた。
「――――――!」
牙を剥き出しにして飛び掛かって来た1頭を、身を翻して回避する。続けて飛び付いて来たもう1頭を、手刀の一閃で地面に叩き付けた俊二の背後に、何時の間にか捕獲用ネットガンを構えた普通科隊員が忍び寄っていたことに、彼は気付かなかった。
『――――――――!!?』
ネットに絡み取られ、一切の躍動を奪われた俊二に覆い被さる黒い布―――――それで全ては終わり、彼のささやかな反抗は終わりを迎えた。
「…………」
身体の自由を奪われたまま何処とも知れぬ場所へ連れて行かれ、頭にすっぽりと黒い袋を被せられ、椅子に縛り付けられたまま放って置かれて、どれほどの時間が過ぎたかは判らない。逃避行の疲れからか何時しか俊二の意識は眠る様に消え、次にそれを取り戻した時には、自然、周囲に只ならぬ喧噪を聞いていた。
「覆面を脱がせろ。」
重い声での命令、直後に半ば強引に黒袋を脱がされ、この場の唯一の照明である灯油ランプの黄色い強烈な光に目が慣れた頃、俊二は此処に連れて来られて初めて周囲の状況を把握する機会を得ることができた。
「…………」
唖然―――――
愕然を超えた唖然―――――
堆肥と腐った木材の混じったような臭いから、尋問専用の部屋は山奥であり、文字通りのあばら屋であることはすぐに判った。そして木材剥き出しの壁の一面全体を占める様に張り出された「対抗部隊」の軍旗と思しき旗に、俊二は思わず噴き出した。旗の紋章は、有名なロボットアニメ作品の敵軍のマークであり、俊二もまた子供の頃に、そのアニメやプラモデルに夢中になったものだった。そして―――――
「…………」
銃を構え、捕虜たる俊二を監視している警備兵の服装に、俊二は思わず目を疑った。警備兵の服装もまた、かのロボットアニメの敵軍兵士の「それ」そのものだった……!
これが、有名な「コスプレ尋問」か―――――特殊作戦群のOBや「S課程」受験経験者から漏れ伝わる「S課程」にまつわる噂の一つを、俊二は脳裏で反芻した。「耐久尋問訓練」で捕虜になった訓練生には、文字通りの尋問と拷問が待ち構えている。ただし、訓練生を尋問する「敵軍」は多種多様だった。ある候補生の前に現れた敵軍は「前世界」のナチス親衛隊の服装をしていたと言い、ある訓練生は北朝鮮人民軍の軍装だったと言った。またある訓練生の前には、「前世界」のロシア空挺部隊の制服に身を包んだ金髪長身の女性幹部が、尋問官として現れたという―――――つまり、訓練に現実感を持たせるために、過去の歴史や漫画などあらゆる媒体から架空の敵軍を対抗部隊として「でっち上げ」ているのだった。
「尋問官」―――――その正体は陸海空自衛隊情報科の幹部であり、捕虜尋問の専門家であった。尋問官は捕虜となった訓練生の素性を明らかにするために、殺人、傷害以外のあらゆる方法を使うことが認められている。つまりそれは脅迫であり、あるいは拷問であった。ちなみに、尋問官にもれっきとした所属部隊がある。正式名称、自衛隊統合航空情報戦技教育群。本来、任務中撃墜あるいは不時着等の理由で敵中に孤立した航空機搭乗員に、敵地におけるサバイバル技術及び捕虜になった際の対処技術を教育するべく、「転移」前に発足したこの部隊は、数少ない防衛大臣直轄部隊であり、陸海空三自衛隊統合部隊でもあった。
「……本官が君の尋問を担当することになった。宜しく」
俊二の前に現れた尋問官は、落ち着いた声でそう言った。眼鏡をかけた、比較的若い男性幹部だった。
「何て事だ……おれが演習場を逃げ回っている間に日本は宇宙世紀になってしまったのか?」
「君に質問をする権利はない。質問に答える義務はあるが……」
と、厳かに尋問官は応じた。冗談のような尋問官の外見の裏腹で、その実彼自身には全く冗談が通じないことを俊二は悟った。その一方で―――――彼は尋問への対処とは異なる全く別の事を考えていた。
尋問官は言った。
「まずは、君の名前、階級及び年齢、認識番号を聞こうか?」
来た!……と内心で俊二は思った。軍隊用語で言うところの「ビッグフォー」――――自身の姓名、階級、年齢、認識番号――――これは尋問において訓練生、否、捕虜が唯一発言を許された真実であり、裏を返せばそれ以外の真実を話すことはあってはならないことと教育されている。
俊二は、答えた。作り笑いをするのに少なからぬ苦渋を覚えた。
「桑田真澄 投手 38歳 背番号18番……」
「―――――!!」
尋問の様子を伺っていた警備兵が身構える。それを片手で制し、尋問官は眉一つ動かさずに言った。
「誰も贔屓の野球選手のことなど聞いていない。もう少し利口に振舞って欲しいものだな」
「…………」
「もう一度聞く。姓名及び階級、年齢、認識番号は?」
「……高良俊二、二等陸曹、24歳、認識番号2000949」
尋問官は頷いた。
「所属部隊は? そして潜入の意図は?」
「……忘れた」
「…………」
尋問官が、警備兵に目配せした。だが直後に、それを察した俊二の眼が一瞬奇怪なぎらつきを見せたことに彼は気が付かなかった。二人の警備兵が小銃を特殊警棒に持ち替え、荒々しく俊二に歩み寄って来た―――――
「―――――!」
「なあ……?」
「…………?」
「手錠、もう外れているんだけど……」
「―――――!?」
警備兵の驚愕よりも俊二の反応が早かった。電光石火に延びた蹴りが警備兵の足を払い、飛びかかったもう一人を投げ飛ばした。失神し、完全に戦闘能力を奪われた警備兵を前に、さすがに顔色を失った尋問官に、俊二は微笑み掛けた。
「何故だ?……どうやって……?」
「企業秘密さ。さて、あんたにも少しの間眠ってもらおうか?」
周囲を固める警備兵の眼を晦ませるのに、まさかコスプレ衣装を使うわけにもいかない。それでも尋問小屋の周囲を固める警備兵が極少数で、かつ訓練生全員を捕えた警備部隊が演習場から引き上げを開始していたのは幸運だった。事前に針金とカッターの刃を忍ばせていたことも正解だった。捕まった場合を想定して密かに用意した小道具。今ではそれに加えて尋問官や警備兵から獲得した金銭もあった。俊二は再び森に入り、そして徐々に歩速を上げ駆け始めた。
「…………?」
自然のものではない明かりが、前方に洩れ広がるのを見る。警備部隊か?……走るのを止め恐る恐る歩み寄った先で、森を抜けかけた俊二は久しぶりで文明に接した―――――光は、国道を照らし出す外灯だった。外灯の下、車高を下げた赤い改造車の傍で屯する風体の良くない少年たちを見出す。森と下の国道の高度差は丁度二階建ての家と同じほど、ちょっとした稚気が頭を擡げるのを俊二は覚えた。
「―――――!」
腕を振って勢いを付け、俊二は飛び上がった。空中に達したところで上半身から身体を捻る様にする。そうしておけば三階程度の高度差までは無傷で着地できることを俊二は空挺部隊時代に学んでいた。
「…………!」
唐突に空から降って来た男! 少年たちにとってはそれが全てだった。衝撃を緩和するための中腰から姿勢を整えて立つ軍服の男、唖然とし為す術を知らない少年たちに男は笑顔で話し掛ける。
「やあ君たち。コンビニまで連れて行ってくれないかな? 奢るからさ」
――――――足を踏み入れた当初は未だ高かった日は、すでに街の西側へとその球体の半ばを没し掛けていた。太陽もそうだが、人間もまたその生誕と死の瞬間が最も眩い……回想の後、顔を上げた、立ち上がった俊二は何となくそんなことを考えた。
「――――――!」
甲高い喇叭の音に、反射的に俊二は姿勢を正した。駐屯地で最も重要な場所――――国旗掲揚台――――の方向では、すでに国旗降下が始まっていた。
敬礼―――――澄んだ眼差しで一日の終わりを見送りつつ、青年は自身の近い将来を想う。今日のように、ゆっくりと過去に思いを馳せることのできる時期は、当分来そうになかった。
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