論点:生活保護とギャンブル
毎日新聞 2013年05月17日 東京朝刊
本来「公」は「私」の閉鎖性をひっくり返す力、その自由勝手を制限する力を持っている。「公」の世界とは、考え方の異なる他者との対話の中で落としどころを探り、ある種の共通理解を立ち上げて作るものだ。だからこそ、「公」と「私」は対立するだけでなく、共存する局面を有する。
ところが現代では、個人的な「私」が公共的な領域にあふれ出し、支配的になっている。携帯電話やインターネットなどの技術の発達で、既知の親密な者同士の対話力は発達したように見えるが、未知の他者との関わり方は下手になった。他者を未知の存在として認めて向き合い、コミュニケーションする能力が衰弱しているともいえる。
電車内の化粧で例えれば分かりやすい。化粧をしている本人にとって周囲の人間は気遣うべき他者でない。だから無視でき、化粧という私的な行為も遠慮しない。個室がそのまま電車内にはみ出しているような状況だ。
今回の条例も、「保護費をギャンブルに使うのはよくないことだ」という倫理・道徳の一般論が、私的な価値観や感情のまま、直接に公の議会という場に持ち出され、「条例を作って予防すればよい」という対策に結びつけられた。問題提起には意味があるが、報道を見る限り、「公」を立ち上げるために考えるべき点がたくさんあったのに、必要な論議を抜きに答えを出そうとしてしまった印象を受ける。
市民に通報を義務づけることは、「(私的な領域には)知っていても触れない」というかつての共同体における公の配慮を破壊する。問題にしているのが、ギャンブル依存なのか生活保護制度自体への依存なのかもあいまいだ。前者なら対応策は治療であり、対象は生活保護受給者だけではなくなる。後者なら制度を現状のまま維持することの是非を検討すべきだった。
メールや電話で寄せられた意見に賛成が多かったというが、声を上げた者たちだけの多数決は声を上げられない人々への思いやりを欠いている。
「声なき声は私を支持している」と岸信介首相が言った後で内閣が倒れたように、いつの時代も、沈黙する多数者は簡単に政策のレトリックに利用される。メディアやネットが発達した現代社会ではなおさら、見えたものや聞こえることに光が当たり、そこからリアリティーが作り上げられてしまいがちだ。