めちゃくちゃにされた人生(5) 身体麻痺の謎

 ケイジさんの両親にとって、監視カメラの映像を何度も見ることは耐え難い苦痛に違いない。それでも、ダイニングのテレビの前で私につきあってくれた。

 父親は語る。「首の骨折は、元日の職員の暴行で負わされたとしか考えられない。その時はまだ神経はつながっていて、翌朝、職員が頭部を軽く押した時に切れてしまったのではないでしょうか」

 確かにその可能性が高いように感じるが、果たして医学的に起こり得ることなのだろうか。脊髄の病気に詳しい総合病院の脳神経外科医は、私の質問に3つの可能性を示した。

(1) 暴行により、頸椎に脱臼などの不安定性が生じた。その後の軽い衝撃で頸椎がさらにずれるなどして、脊髄に深刻なダメージが生じた。

(2) 暴行の段階で脊髄に何らかの出血が生じて、これが次第に増えて脊髄を圧迫し、麻痺が起きた。

(3) 多量の服薬、もしくは飲食が十分できないことなどによる脱水のため、脊髄に虚血が生じて麻痺が引き起こされた。

 外傷後に症状が進む場合は(1)が多く、(2)がまれに存在するという。麻痺が外傷よりも遅れて生じることはあり得るようだ。

 不自然な点はまだある。映像を見る限り、ケイジさんは首の痛みをそれほど感じていないようなのだ。この脳神経外科医は「頸椎の骨折は、程度によっては麻痺などの神経症状が現れない場合がある。ただし、痛みはほとんど必発。頸椎が骨折したり、ひびが入ったりしても痛みを感じない場合は、感覚の異常が合併したか、薬剤などで痛みを感じにくくなっていることが考えられる」と指摘する。

 すでに書いたように、ケイジさんは統合失調症の誤診が分かって以来、薬をほとんど飲んでいなかった。そのため薬の影響は考えにくい。過去の不適切な治療は認知機能を低下させただけでなく、痛みの感覚まで鈍らせてしまったのだろうか。謎は深い。

◆          ◆

 病院職員の暴力行為の背景も考えてみよう。弱い立場におかれた患者への暴行は、決して許されない。患者にひどい傷害を負わせることなど、あってはならない。だが、精神科病院の職員たちもまた、厳しい環境におかれている。

 精神科病院に勤務する看護師は明かす。「うちの病院の経営者は最近、口を開けば『患者の人権』『問題を起こすな』ばかり。逆に、看護師ら職員が患者から暴行を受けても、経営者は知らんぷり。これでは看護師のうっぷんはたまるばかりで、誰も見ていない所で、患者に暴力を加える看護師もいる」。

 こうした陰湿な暴力をなくすには、風通しのよい組織運営が欠かせない。ある精神科病院は毎朝、職員のほとんどが集まるミーティングを開き、受け持ち患者の状態や対応法などを詳細に報告し合っている。その結果、組織の結束力が強まり、職員の問題行動の防止にもつながっているという。

 この病院の理事長は「患者の人権尊重と、患者の管理の両方を同時に求められる職員の負担は非常に重い。経営者として心掛けねばならないのは、職員を孤立させないこと。日々の仕事ぶりが上司や他のスタッフにしっかりと伝わり、きちんと評価される組織づくりが何より大切」と話す。

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 7月下旬の取材で、両親の話も改めてじっくり聞くことができた。そこで、ケイジさんの子どものころの様子などを補足する。

 ケイジさんは最終的に、(高機能)広汎性発達障害と診断された。この障害は知的障害を伴わないものの、コミュニケーション能力などの問題で円滑な対人関係を築きにくく、いじめの対象になったり、不登校や引きこもりにつながったりしやすい。周囲の理解を得られない状態が続くと、抑うつや恐怖場面のフラッシュバックなどの二次障害が引き起こされることもある。診断の際は成育歴の聞き取りが重視され、幼少期の遊び方などが判断材料になる。ただ最近は、この障害の診断乱発を問題視する声もある。

 ケイジさんの母親は「小学校の担任に、友達について回って真似ばかりする付和雷同タイプと言われたことはありましたが、ほかに問題を指摘されたことはなかった。完璧主義でこだわりが強く、1人で抱え込むところがあり、自分に自信がない。今から振り返ると、そのような性格だったと思いますが、友達は多く、学校でも楽しくやっていると思っていました」。

 しかし、ケイジさんの心の中では葛藤が続いていたのかもしれない。広汎性発達障害に詳しい精神科医は「人間関係などで常にストレスをためているのに、周囲の期待に応えようと頑張り続ける人もいる。その過程で自分なりの対処法を身につけられればいいが、進学や就職、新たな対人関係などのストレスがさらに加わった時、二次障害が強まって統合失調症などと誤診されるような状態に陥ることもある」と指摘する。

 ケイジさんは、高校では「ネクラくん」と呼ばれていたようだが、大学では常に明るく振る舞った。スポーツ系サークルに入り、仲間とよく旅行に出かけ、夏はバーベキューなどを楽しんだ。実家に友達をたくさん連れてきたこともあった。冗談でみんなを笑わせるなど、場を盛り上げた。

 ずっと続くと思っていた友達関係や恋愛関係が、些細な原因であっけなく崩れる。ありがちなことだが、無理を重ねて人間関係を築いてきたケイジさんにとっては、自分の存在を全否定されたような、計り知れないダメージだったのかもしれない。そして部屋に引きこもった。

 心配した両親が実家に連れ戻すと、ケイジさんは母親の前で「ぼくはこのままでいいの?」と泣き、「つらかったんだ」「寂しかったんだ」と繰り返した。「高校の時も登校したくない日がよくあった」と明かした。

 「こんなにも神経の弱い子だったのか」。母親は驚き、励ましの言葉をかけたが、今から思えば「何も言わず、ただ聞いてあげていればよかった」。数日後、ケイジさんは母親に言った。「弱いところをみせちゃったから、もうおしまいだ。ぼくの味方はいない」。以来、母親に胸の内を明かさなくなった。

 父親は言う。「(ケイジさんの)精神的混乱の背景には、こだわり過ぎや自己評価の低さなど、性格の問題もあったと思う。そこを変えようとせず、薬だけでよくなると私たちも思い込んでしまった。悔やんでも悔やみきれない」

 思春期・青年期の生きづらさは、誰もが直面する。多くはこの時期を自然に乗り越えるが、周囲とうまくいかず、自分を追い込み過ぎて一過性の精神的混乱に陥る若者がいる。薬を一時的に少量使って混乱を抑えたり、ソーシャルスキルトレーニング(SST)を行ったりして回復に導く医師もいるが、ケイジさんの場合、受診した精神科医が悪すぎた。

 落ち込んだ背景も聞かずに「うつ病」と診断し、SSRIを処方。見知らぬ人を殴ったことのみを根拠に「統合失調症」と診断。抗精神病薬ですぐに激しい副作用が出たのに、投薬を継続してどんどん増薬……。

 こんな安直で有害で無責任な行為が、治療として行われたことに唖然とする。能力のない精神科医に、未来ある若者の治療を任せることはできない。



 統合失調症の誤診やうつ病の過剰診断、尋常ではない多剤大量投薬、セカンドオピニオンを求めると怒り出す医師、患者の突然死や自殺の多発……。様々な問題が噴出する精神医療に、社会の厳しい目が向けられている。このコラムでは、紙面で取り上げ切れなかった話題により深く切り込み、精神医療の改善の道を探る。

 「精神医療ルネサンス」は、医療情報部の佐藤光展記者が担当しています。
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2012年8月9日 読売新聞)

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