てぃーだブログ › 鄭氏会 › 掲示板等 › 謝名親方という男

2011年05月01日

謝名親方という男

謝名親方のことを『国難に殉じた重臣』とありますが、その言葉でしめるのは、如何なものかと

思います、私の主観ですが琉球史上もっとも優れた政治家だと思います。

勝てば官軍という言葉がありますが、薩摩が琉球を侵略したあと、謝名親方に戦争責任を

押し付けて徹底して謝名親方を悪者に仕立てようと薩摩は画策します。歴史書中山世鑑にも

謝名親方の『邪名』と蔑んでかいてあります。そうでもしないと大儀がないからでしょう。

よって謝名親方のことを悪く書いてある歴史書を、私は信用していません。

その当時の時代背景や、三司官就任に至る事がらを冷静に考えて見て下さい。

まず、三司官就任時、現職三司官の城間親方を讒言し、百姓に貶めて、自ら三司官に就任した

と学者も書いてありますが、これも信じる要素がまったくありません。

仮にそうだとしましょう。では、なぜ城間親方を讒言し陥れた謝名親方が三司官に就けるのか?

矛盾が生じます、あと二人の三司官が黙っているはずがありません。それに謝名親方は、久米村

出身で、三司官になれない身分です、異例で三司官に就いたのです。

しかも尚寧王が、推挙して成し遂げたのです。もし中山世鑑に書いてある事(尚寧王が重臣の

登用を誤った)が事実としたら、尚寧王はじめ、当時の三司官名護親方(名護良豊)や、浦添

親方(浦添朝師)が、政治に疎い馬鹿政治家であったというふうになります。

そんなはずはありません。十分吟味の上での謝名親方がふさわしい人物として三司官に就認した

ことでしょう。それはやはり謝名親方の説いている事が筋道が通り、皆が納得したからであろう。


豊臣秀吉の朝鮮出兵時、薩摩より兵量米を収めるようにという命に、はっきりNOといったことも

正しい判断だったと思います。

当時琉球は、明国(中国)を宗主国として朝貢を受け進貢貿易で、財を成していました。

そして朝鮮国(現代の北朝鮮と韓国統一国)も明国(中国)を宗主国として朝貢を受けていた

明国(中国)最高学府国子鑑では、明国王侯貴族や、朝鮮国王侯貴族の子弟、そして琉球

からの官生(留学生)と7年もいっしょに学業を学んだ学友が諸国の要職におり、いわば兄弟国

みたいなもんです。そんな朝鮮国を攻めるための兵量米をだせるわけがありません。

琉球国からすれば、親国(明国)を裏切ることになります。

朝貢関係が崩壊すれば琉球にとっては死活問題です。


実際、豊臣秀吉の朝鮮出兵時に明国は兵を出し朝鮮国を助けております。

そのお陰もあり、豊臣秀吉の二度に渡る朝鮮出兵は失敗に終わります。


謝名親方は彼の政治力、人となりが優れているからこそ、久米村から異例の三司官に就けたの

ですし、そして彼の政策は当時の琉球にとってまちがいでは、なかったと私は思います。

そして、ただひとり薩摩との戦争責任を負い刑場のつゆと消えたのです。

琉球の為、最後まで薩摩に屈することなくその一生を閉じたのです。

実に男気のあるたくましい人だったでしょう。

私は、思います。謝名親方の功績は、沖縄県で銅像を作るなりしてその功績を称えるべきでは

ないでしょうか。

謝名親方を単に『国難に殉じた重臣』で修めるには、あまりにもしのびない気がします。


同じカテゴリー(掲示板等)の記事画像
平成23年度、鄭(義才)氏門中会神御清明
和食利山鄭オープン
鄭氏門中清明祭
鄭氏門中清明祭2

同じカテゴリー(掲示板等)の記事
 求人募集!! (2013-06-10 19:30)
 沖縄版一休さん、モーイ親方 (2011-08-07 01:44)
 近世琉球士族気質 (2011-07-29 12:40)
 クニンダ屋取(やーどぅい) (2011-07-27 03:56)
 うちなー口、ありんくりん10 (2011-05-25 15:27)
 うちなー口、ありんくりん9 (2011-05-25 02:15)

Posted by ひーじゃー at 17:47│Comments(0)掲示板等
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

Powered by My-Addr online proxy surfing service.
You can refresh current page and bar will disappears.