平和の礎(いしじ)に刻まれた沖縄戦の戦没者の名は24万1227人分。毎年、新たに確認された人が追加されているが、今年は62人が刻銘された。その1人が、宮里清昌(せいしょう)さん(72)=沖縄市=の母、ウシさんだ。「遅くなってごめんね」。慰霊の日の前日の22日、家族5人で礎を訪ねた宮里さんは、母の名が刻まれた石をなで、手を合わせた。
沖縄戦当時、宮里さんは4歳だった。病弱に栄養失調が重なり、母の具体的な記憶はほとんどない。最期の様子はいとこに聞いた。「おばさんは米軍から逃れるため、自宅近くの壕(ごう)に私をおんぶして逃げる途中、爆撃を受けた。吹き飛ばされて跡形もなくなった」。いとこも、右足のふくらはぎがえぐられた。
県や市町村の戦没者名簿にもとづき、平和の礎がつくられたのは95年。ウシさんの名は含まれていなかった。宮里さんはそうと知らず、11年前、隅から隅まで礎を回った。「人並みの弔いもしてやれないのか」。逃げ込もうとしていたという壕の近くにあった石を持ち帰り、墓に納めたが、心のしこりは残った。
地元紙で追加刻銘という方法を知ったのは昨年。いとこの証言が決め手となり、県からようやく沖縄戦戦没者に認定された。
22日、付き添いで来ためいの娘2人が、ウシさんの名前に紙をあて、鉛筆で拓本をとってくれた。宮里さんは大事そうに受け取り、言った。「刻銘で、やっと母がこの世にいたことの証明ができてうれしい。でも、母を奪った戦争のことを考えると悲しくなる。戦争は、もうしちゃだめだ」。目には涙があふれていた。
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朝日新聞社会部