沖縄全戦没者追悼式:基地あるから危険にさらされる 防衛相参列、77歳元教師「今年は行かない」
毎日新聞 2013年06月24日 大阪朝刊
沖縄県うるま市の豊浜光輝さん(77)は平和祈念公園で営まれる戦没者追悼式に毎年参列してきたが、今年は行かなかった。米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設を進める防衛相、外相がそろって参列することに「わだかまりがあり、気持ちの整理がつかなかった」からだ。「わだかまり」は、豊浜さんの戦中、戦後の体験に根ざしている。
「敵機が来た。隠れろ」。1944年10月10日、日本兵の大声に、読谷村(よみたんそん)の小学校に登校中だった当時8歳の豊浜さんは馬車の下に隠れた。地面に伏せて顔を上げると土ぼこりを上げる二つの列が伸びていった。旧日本軍が村に造った沖縄北飛行場に向かって米軍戦闘機が浴びせた機銃掃射。体の震えが止まらなかった。
この日、米軍は沖縄本島や離島を空襲。村上空には無数の米軍機が来襲し、同級生4人が犠牲になった。「自分たちも殺されるのか……」と思うと、再び体が震えた。
翌年2月、豊浜さんは家族、親族6人とともに本島北部の国頭村(くにがみそん)に疎開。4月1日に本島中南部に上陸した米軍は、中旬には国頭村に迫った。豊浜さんら住民は山中に逃げ、さまよい歩いた。7月中旬には食料が尽き、約30人で山を降りた。海岸近くで寝込み、朝目覚めると、米兵に囲まれていた。
収容所では逃避行中のマラリア感染や栄養失調などで連日、住民が亡くなった。山中で腰に負傷した4歳の豊浜さんの弟も、7年後に負傷がもとになった病気で亡くなった。
戦後、教師となった豊浜さんは59年6月、戦後最大の米軍機事故に遭遇する。産休や病欠教員の代行教師として教育長事務所にいた時、近くの宮森小学校に米軍ジェット戦闘機が墜落。児童11人を含む17人が亡くなった。
豊浜さんが炎と煙に包まれた学校に駆けつけると、教頭が泣きながら児童を外へ連れ出していた。火傷を負いながら自力で逃げてきた子どもが「助けて……」と言ったきり、動かなくなった。地獄だった。
「基地があるから県民は危険にさらされる。沖縄戦はずっと続いている」。豊浜さんはそう考えている。沖縄に新たな基地を造らせるわけにはいかない。戦没者を悼む閣僚の気持ちは否定しないが、普天間移設への思惑が見える気がした。豊浜さんは23日、沖縄市であった集会で宮森小の墜落事故を語った。【井本義親】