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thessalonike5
共産党の躍進について - 投票率は高い方がいいのか
都議選で共産党が議席を倍増させて躍進することを、事前に予想していた情報がある。5/31に桜井哲夫が夕刊フジに書いた
記事
中に、自民党による議席予測の数字が公表されていて、そこで、8から16になることが示されている。さらに、維新についても1-2と予測していて、見事に的中させている。外したのはみんなの党で、これは民主に流れるべき票が最後の段階でみんなに流れ込んだと考えれば、全体をリーズナブルに評価することができよう。投票の約1か月前のものとして、きわめて精度が高かったと言える。この予測は、投票率の低さもよく勘案してのものだ。選挙から一夜明けた昨日(6/24)、共産党の躍進について、報道や論者からさまざまな意見が飛び交っている。本来、この都議選の結果で最も注目すべきなのは、自民の完勝や民主の惨敗や共産の倍増ではなく、維新のバブルが崩壊し、昨年末の衆院選時の得票数を3分の1に激減させたことだが、マスコミはそこにフォーカスしたくない意向があるのか、共産の話題に振っている。無論、共産が久しぶりに選挙で勝ったというニュースは大きく、そこに関心が向くのは当然だろうし、また、
江川紹子
のように、この事実の参院選への影響をなるべく抑えたいという反共の動機を持つ者にとっては、この躍進はフロックなのだと強調し、消極的に意味づけたいところだろう。
言うまでもなく、選挙で重要なのは得票数でも得票率でもなく、議場で占める議席数だ。政治は結果がすべてである。過去、共産党は、得票数で他を上回りながらも議席で好結果を出せなかったという事例が多くあった。幸運の女神はどちらにでも転ぶ。選挙は相対的な競争であり、絶対数で勝負は決まらない。今回、政治報道は、民主に失望した票が受け皿としての共産とみんなに流れたと
総括
している。この分析は、中身を見れば、共産そのものが過去2回(2005年、2009年)と比べて物理的に得票を減らしているのだから、必ずしも一人一人の投票行動の実態もしくは総体として正確なものとは言えない。だが、選挙報道の論説というものは、こうして結果から出発して、ある標準的平均的な投票者像を設定し、その抽象化した一人に全体を代表させ、彼の選択と判断がこうだったと意味づけるのである。有権者全体の意思を一人の個人のものとして描くのだ。それが総括の方法であり、民意の抽出と提示のあり方である。そして、それが選挙結果として政治史になるのである。数字だけでなく、意味が記されて残る。数字の中身を穿ったり弄くったりすれば、報道各社の意味づけに対して反論は可能だが、数字を使って何かを言い、報道の説明を崩そうとするのであれば、それではこの選挙結果の意味は何なのかということを、江川紹子自身が仮説化しなくてはならない。
共産党の躍進に対する冷淡な矮小化の態度は、江川紹子だけではなく、田崎史郎や
浅川博忠
も同じである。ここには、客観的な解説を装いながら、目前に迫った参院選で共産党の議席増の流れを阻止したいという思惑があり、世論操作の意図が投影された説明になっている。共産党について論じれば、マスコミもネットも、世間の大半の論者の口調が同じになるだろう。ネットの中では、唯一例外的に、きっこが共産党躍進に積極的な
記事
を書き、「共産党は都政では名実共に『確かな野党』になった」という意味の主張を言っている。きっこの盟友である江川紹子の論評と対照的だ。私の見解を言えば、この暴風雨のような極右のストームの中で、4年前の得票率を維持し、議席増の結果を出した共産党は大健闘と言っていい。尖閣問題の緊張があり、マスコミと論壇の言論空間において、反共イデオロギーの濃度が窮極の状態になり、左翼=悪の害虫、左翼=公共敵という「常識」が固まった渦中で、選挙勝利という結果を出すこと自体が奇跡的な現象だ。この結果は、やはり民主党への失望と幻滅が招いたもので、民主党の票の減少があまりに甚だしいため、相対的に共産党が浮上したと見ていい。民主党は、昨年末の衆院選時に比べても、票を3割以上も減らしている(衆院選東京ブロック 1,008,011 → 都議選 690.622)。7月の参院選ではもっと減らすだろう。そして、その傾向は全国で同様だろう。
安倍晋三とアベノミクスに対する批判票は、民主ではなく共産に流れる。海江田万里がいくら経済政策を論じ、アベノミクス批判を唱えても、その言葉は有権者の胸には響かない。昨日(6/24)の朝日の
社説
は、「野党は対立軸を鮮明に」と題を掲げ、「政権に対峙する迫力が必要なのは、都議選での共産党の戦いぶりを見ても明らかだ。参院選に向け各野党は、説得力ある対立軸を示さねばならない」と言って民主党に発破をかけている。同じことを同夜の報ステでコメンテーターの恵村順一郎が言った。一見、正論であるように見えるが、有権者は知っている。どれほど民主党が自民党に対して鮮明な対立軸を打ち出しても、その選挙公約を民主党は絶対に守らないのだ。政権を手中に入れれば、次の瞬間に国民を平気で裏切るのである。消費税増税がそうだった。普天間の県外国外移設がそうだった。国民は、もう民主党に付き合って騙されるのが懲り懲りなのだ。朝日の社説は、「(自民党の)横暴や、なし崩しの方向転換を許さないためにも、いつでも政権を取って代われる力強い野党の存在は不可欠だ」と言っている。しかし、「なし崩しの方向転換」は民主党も同じであり、野党時代の自民党批判は口先だけで、それを見抜かれ、牽制や監視の効果を全く上げない。どれほど民主党の勢力が回復しても、それは自民党にとって脅威にはならない。それは、官僚にとって政策を国民寄りに妥協する抵抗力にはならない。
ここで、世の中の一般論とは全く逆のことを私は言いたい。都議選であれ、国政選挙であれ、投票率は低ければ低いほどいいのだ。60%も要らない。40%でいい。これは逆説である。その真意は、もうポピュリズムの政治は懲り懲りだという意味であり、マスコミが扇動して国民を誘導する選挙は二度と御免だという希求である。2005年の小泉純一郎の「改革」選挙、2009年の政権交代選挙、2012年の「第三極」なる極右台頭の選挙。どれもこれもマスコミがブームを作り、風を吹かせ、世論を刺激し操作し誘導して結果が出た選挙だった。1980年代後半から1990年代前半の「政治改革」以降、政治はマスコミが仕切るものとなり、政策も選挙もマスコミ主導で全てが方向づけられて行くことになった。小選挙区制が導入され、政治家は小粒となり、地域社会と結びつきを薄め、政党が個性と実力を失った。現在、政党ではなく官僚と結託したマスコミが政治をやっている。マスコミが浮動票を握っていて、マスコミが宣伝扇動する方向に無党派層は票を入れる。マスコミの言うがままだ。丸山真男の
インタビュー
が「すばる」の2月号に載っていて、そこで、丸山真男は政治教育の必要性を説いている。「いまの学校教育で、ほとんど政治教育ってのはやられていない。(略)政治教育をやらなきゃいけないって、(教育基本法に)ちゃんと書いてあるんですよ。(略)(国民を)なるべくノンポリにしていく、天下国家のことに関心を持たせないということの一環なんです」(P.144)。
現在の若い世代は、われわれと違って、学校でまともな社会科の教育を受けていない。個人差はあるけれど、彼らの教科書(聖書)はマンガ右翼であり、内面に価値基準として刻まれている講義は、ポスト冷戦時代に支配的になったマスコミの右翼・新自由主義の言説である。そして脱構築主義である。敢えて誤解を恐れず、単純化して言えば、彼らには政治を批判できる健全な精神が育成されていない。政治情報を吟味租借できるインテリジェンスがない。だから、若い世代になればなるほど維新の支持率が高かったり、安倍晋三への支持率が高いという悲惨な状況になる。若い世代ほど異常に右翼的な政治性を帯びる。右翼のイデオロギーを常識として内面化している。それが、まさしく日本社会の右傾化の真実だ。そうした人々が、マスコミの扇動工作に駆り立てられ、ブームに乗せられて盲目的に一票を投じるのが、今の「投票率の高い選挙」である。現在の思想状況の中で、マスコミに煽られて現出した「投票率の高い選挙」は、必ず、ヨリ右翼的で新自由主義的な政治に結果する。そういう意味で、投票率は高くない方がよいのだ。自民と公明と共産が議席を取り、マスコミがブツブツと文句を言う、そういう選挙の方がはるかにまともな、理性的な政治を招来する。投票率が高い方がいいというのはセオリーとして正論だろう。その方が民主主義の原理において当然であることは否定できない。だが、衆愚の環境の現在、この命題は必ずしも疑問なく妥当するものでなくなっている点を反省する必要はないのか。マスコミ(=官僚)は、政治に関心のない者を、自分たちの政策を実現する権力を作るために、無理やり関心づけ、投票所に運ぶのである。
そして、マスコミの目論見どおりの結果を出して、よくやった、投票率が上がった、民主主義的だと褒めるのだ。マスコミは、他のどの政党に風を吹かせることはあっても、公明と共産に風を吹かせることはしない。二つの党は常に迫害を当然視される異端である。私は、マスコミの政治報道(マインドコントロール、デマの刷り込み、世論工作)こそが国民の敵だと考える。真の民主主義の敵だと思う。だから、ポピュリズムの契機と無縁で対極にある、公明と共産の議席増はむしろ歓迎だ。衆愚の参加が少なくなる低投票率で結構。
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thessalonike5
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2013-06-25 23:30
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ろうのう
at 2013-06-25 22:11
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そもそも左派リベラルとリバタリアンは別物
この常識をマスコミはぶちこわしてる。
Commented by
旅マン
at 2013-06-25 23:55
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なぜ自民の補完兼、過激派たる維新が野党の対抗軸?みんなという新自由主義礼賛政党が、ワタミを比例に押し立てる自民党の対抗軸になるのか?ましてや維新とみんなが結集していたら等と野党不在を歎くようなコメントをTVでやっているのには、正直狂気の沙汰に思えた。よほど格差社会を護持したいのか?
共産党に相当な批判票がまとまったのは間違いない事実。たとえ相対的に浮上したにせよ、六割近い多数派は白紙委任したわけである。常日頃、棄権を悪だと言わんばかりのマスコミは、こんな時だけ棄権に寛大になるなと指摘したい。
民主党の会期末のいい子ちゃん対応ぶりを見たが、私にしては細野を少々、誉め過ぎたよう。むかつく!
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