静岡の力。広瀬イチロー

新たな挑戦を決意した経緯

3月のある日、静岡県知事選出馬の打診をいただきました。身に余る光栄とは思いつつも、私にとってまさに青天の霹靂でした。

そもそも、人は誰もが「幸せ」になるために生まれてくるものだと言っていいでしょう。そして、人が「幸せ」になるためにもっとも近い方法のひとつは、「やれるコト」「やるべきコト」「やりたいコト」が重なることだと思います。

そこであらためて、私なりに考えてみました。県知事という仕事が、広瀬イチロー自身にとって本当に 「やれるコト」か。「やるべきコト」か。そして、「やりたいコト」なのか。その結論を出すのは、決して簡単なことではありませんでした。

まずは「やれるコト」かどうかです。私自身のこれまでの人生を振り返ってみました。

私は、三島に生まれ、清水町、沼津を経て、焼津の小学校を卒業し、静岡付属中学、藤枝東高校で学びました。

大学を卒業してからは、電通という広告会社に入社しサラリーマンを20年続けました。

その間、サッカーのワールドカップを筆頭に国際的なスポーツビジネスに関わってきました。2002年日韓で共催したワールドカップ招致委員会の一員として活動、1996年に日韓共同開催が決まった後には、当時の静岡県知事であった石川嘉延氏に請われ、静岡県におけるワールドカップ開催準備の知事顧問も勤めるなど、中央・地方の行政組織とともに仕事もしてきました。さらに、環境やエネルギーについて学ぶ機会も得ました。

2000年、電通を辞して、スポーツ・ナビゲーションを立ち上げました。

2002年には、経済産業省の研究機関に入り「スポーツの産業政策」の研究をしました。スポーツの社会的機能として、教育、健康に加え、経済、地域振興、外交など多くの可能性があることをあらためて実感することになりました。

2003年、スポーツ総合研究所を設立。「スポーツビジネス」の人材育成と同時に、小学校への導入をはじめとする「スポーツマンシップ」の普及活動を開始しました。そしてその活動をさらに強化するために、2012年には、NPO法人「スポーツマンシップ指導者育成会」を設立しました。

同時に、2004年以降は、「若者にビジネスを教えるため」に大学教授という立場で教鞭をとってきました。

こうして広瀬イチローの人生を振り返ってみると、幸いなことに、さまざまな経験を積み重ねてきたことを実感できました。私が数々の経験を通じて得た全ての知見をいかすことで、より魅力的な新しい静岡県をつくり、静岡県の魅力を県内外へ効果的にアピールしていくことができると確信しました。

次に、私自身が「やるべきコト」はなんだろうと考えました。自分自身にそう問いただしたときに、私が思い描く「やるべきコト」に共通するのは、「自分以外の人を幸せにするコト」でした。すなわち「誰かの役に立ちたい」という想いでした。

人は「1対1では弱い」ものの、「集団になると強い」生きものです。「他人の役に立つコト」は、集団をより強力にすることにつながります。自分だけではなく、多くの人が幸せになることが、私にとって大きな喜びであり、やりがいだと気づいたのです。

そして、こうしてさまざまな想いを巡らせたときに、「静岡県知事」となり、故郷・静岡県のために全力を尽くすことこそ、いまの私にとって「やりたいコト」なのだとあらためて確信することができました。それは、「いまの私が挑戦すべき、戦いの場である」という覚悟が生まれた瞬間でした。

私は静岡県知事選に立候補することを決めました。

「義を見てせざるは勇なきなり」

いま、まさにこの心境です。

私は決して逃げません。まっすぐに、誠実に、みなさまと向き合います。そして、みなさまが幸せを感じ、誇りに思える静岡県を実現すべく、全力を尽くしてまいります。

広瀬イチロー