九 白衣の傷痍軍人
今では忘れらた光景、それは「白衣の傷痍軍人街頭募金」は戦後日本の傷跡の象徴であった。
太平洋戦争で軍人174万余名、民間40万人の戦死者、犠牲者を出した。
戦後処理と復興と、東南アジア諸国への賠償に戦死者、傷痍軍人への充分な補償も出来なかった。
街には戦災孤児、引揚げ孤児、浮浪児が見られた。
しかし駅、街頭にたつ「白衣の傷痍軍人」の寄付、募金を自ら呼掛ける光景は物悲しく、子共心に言い知れぬ悲惨さを見せ付けるものだった。
多数の戦死者と傷痍軍人の松葉杖や、義足で手足を無くした人々が、グループを組んでハーモニカ、アコーデオン、中にはバイオリンまで奏でて「戦友の歌」ここはおくにも何百里と、言った風に国の為に障害者になったことを、国民に訴えた。
実際に手足をなくし障害者の働くすべも無く、寄付、募金に自力でしなければ生計が成り立たなかった。
未婚の傷痍軍人などは、障害のため結婚もままならず、悔しい思い出で暮らさなければならなかった。
戦時中には名誉の負傷と国民の目が注がれたが、しばらくして「日本傷痍軍人記章」を付ける事を許され、各地に「傷痍軍事会」が設けられた。
もし今自分がそうゆう風な立場になれば、敗戦の上に仕事も就けず酒や賭け事に身を落とし、憂さを晴らしたり、酔うことによって忘れようとしてのだろう。
察して余りあるが、一般国民の目は厳しく、怠けて博打、酒に入り浸りと陰口を叩かれたものだった。
その内国も障害者の人々を施設を収容できるようになったが、それで癒されるものではない。
それでも国も為に障害者持った人々へのに不充分な補償でしかなかった。
174万人の死者を出したが傷痍軍人の人数値は出ていないが恐らく何十万人の単位であろう。
私の父もインパール作戦で砲弾の破片を大腿部に九死に一生で復員したが、その1CMと1,5CMの破片が奥深く入り長年苦しみ痛みを堪えた人生であった。
国にその事を訴えると、国立病院で「生活に支障なし」の診断で手術で取る事ができるが術後は歩行に片足が低くなってしまうと、医者は半ば脅かし、何の保障も無く、年に一度の旅行券のみ、地域の傷痍軍人会の人の東京への陳情に寄付していたが、国は中々、保障はしないものと、つくづく知らされ、平成八年になくなったが、父の遺言で死んだら砲弾の破片をとって見てくれと言っていた、骨上げで親戚家族が見盛る中、父が苦しめられた砲弾の破片が出てきた。
今でも仏壇の中に大切に納めている。