<十三之巻   ▲戻る   十五之巻>

十四之巻「流れる自然」


 よし、急げ!
 バタバタと音を立てて階段を駆け下りる若者が一人。彼が足取りも軽く寮の建物から飛び出すと、そこで待っていた女性が片手を挙げてはにかんだ。
 女性が口を開こうとするそれより早く、若者は早口言葉のように一気に声を発する。
 母音が二つ三つ欠落したが、恐らくは、
「おはようございますコナユキさん」
 こう言ったのだろう。
「おはよー。そんなに慌てなくて大丈夫だよっ」
 女性、コナユキは若者を諌めつつ、見慣れた笑みを投げた。
「あ、はい、慌ててはないです」
「慌ててる」
 ふふっと笑ってコナユキは若者の肩に手を乗せる。
「嬉しいんだよね、善道くん」
 若者、善道要平はまだ軽く息を切らせていた。

 多仁鮨二階、猛士の間。
 鬼やその仲間たちが作戦会議を開いたり、時には賑やかに談笑したりするこの部屋。その空気が今朝は格別ピリリと張り詰めている。
 張り詰めさせているのは、作務衣のような服を着て立つ支部長の谷重道か、それともその支部長と向き合って立つ、神妙な面持ちの善道要平か。
 少なくとも、弟子の斜め後ろに立って見守っているコナユキ、彼女ではなさそうだ。
 やがて支部長が、傍らの長い机の端に置かれた桐の箱の蓋を取り、小振りな巻物を手にした。結びの紐をしゅるしゅると解き、巻物を広げ、
「中四国支部所属。と金、善道要平」
 静かな声で、重い声で、読み始める。
「――年八月をもって、鬼道、序の二段を認定する」
 一字一句をはっきりと区切って。
「猛士中四国支部。支部長、王、谷重道。師匠、角、粉雪鬼」
 一瞬の沈黙が流れる。支部長は巻物を広げたまま器用にくるりと逆向きに持ち替え、要平に差し出した。
「ありがとうございます」
 要平は巻物を受け取ると、その場で礼をした。
 また一瞬の沈黙。
 それから支部長が、自らもその創出に加担したに違いないピリリと張り詰めた空気を破って、言う。
「さあ善道君、一歩刻んだな。おめでとう」
 また、コナユキも極上の笑顔を見せた。
「私も嬉しいな。頑張ったね善道くん」
 要平はもう二度三度「ありがとうございます」を繰り返した。

*     *     *

 中四国支部夏の演奏会が大成功を収めてから既に二日を数える。
 およそ一時間、要平は先輩達に囲まれて必死にクラリネットを奏でた。
 全て完璧に吹けたわけではない。そんなこと出来っこない。練習のときには吹けていた筈の部分で一体何度詰まってしまったことか。
 それでも要平は顔を上げて、草間の振る指揮棒を目で追い続けた。
「楽譜じゃなくて指揮を見なきゃダメだよ」と、コナユキのその言葉を一生懸命守ろうとし続けた。
 吹いている最中のことを要平はあまり良く覚えていない。ただ、渦巻くような高揚感に包まれていたことははっきりと覚えている。
 そう、楽しかった。ほぼ完璧に吹けた曲も、何度もミスしてしまった曲も関係なく、楽しいという感情が本能のどこかからこみ上げ全身に湧くのを要平は確かに感じていた。
 これが音楽という世界に身を置くことなら――
 心から思った。
 ――この世界に来て本当に良かった。


 そして、数日後……。


 奈良県吉野。猛士の全てを取り仕切る総本部が置かれている地である。
 総本部はTAKESHIのロゴを掲げた高層ビルとして聳え、そこから車で十分足らず走れば吉野の山、鬼たちの鍛えの総本山に至る。
 その麓に巨大な道場があった。多仁鮨地下にも武道場があるが、その二倍や三倍では済むまい。
「私は広永兵衛(ひょうえ)だ。ちょうど諸君が生まれた頃まで、太鼓の鬼をやっていた」
 緊張に包まれて立つ要平と沙弥に名乗ったのは、十徳を着流した初老の男だった。
「冴峰沙弥と申します。よろしくお願いします」
「善道要平です。よろしくお願いします」
「うむ。それではまず、これだ」
 広永と名乗った男は、要平と沙弥にそれぞれ懐紙と筆ペンを渡した。そして「しゅぎょう」とはどのような字を書くか、と二人に問う。
 要平も沙弥も少し考えたが、二人とも「修行」と書いた。
「そうだ」
 二人の書いた「修行」を見て頷き、広永は懐から「修業」と書いた紙を取り出した。
「この『修業』と、諸君の書いた『修行』には大きな違いがある。この『修業』には終わりがあるのだ。決まった地点に到達すれば卒業となる」
 そう言ってから広永が手を出したので、要平と沙弥はそれぞれの紙を彼に差し出した。
 二人から受け取った『修行』の紙を掲げ、彼は続ける。
「しかし、こちらの『修行』に終わりなど無い。だから鬼のしゅぎょうはこの字を書くのだ。一生涯、精進を積み重ね生きる。それが鬼の道である」
「はい」
 二人が返事をすると、広永は「しかし……」と言葉を繋ぎながら、変身音叉を取り出した。彼がそれを鳴らすと、要平と沙弥が「修行」と書いた二枚の紙はひとりでに折り畳まれて折鶴となり、羽ばたいた。
 突然のことに驚く二人に向かって、彼は言う。
「ディスクアニマルカリキュラムはこちらの『修業』だ。ディスクアニマルの操作を覚えるという明確な到達点がある。諸君の覚えが早ければ一日で終わる」
 折鶴たちが再びカサカサと開いて二枚の紙に戻り、広永の手中に収まった。
「これは式の紙と書いてシキガミといい、形は違うがディスクアニマルと同じものだ。現代の式神は、あらかじめ動物の魂がその中に込められている。我々はそれを変身道具の音で目覚めさせるだけだ。それだけのことなのだ」
 広永は式紙を懐にしまうと、今度はディスクアニマルを一枚取り出した。
「その、それだけのことが――」
 いかにも投げやりといった感じで、広永は変身音叉をディスクに打ち付けた。コーンと気の抜けた音が響き、ディスクはピクリとも動かない。
「――最初は難しい。しかしコツさえ覚えれば誰にでも操れる」
 広永が、今度は軽やかに変身音叉を鳴らした。銀色のディスクが瞬く間に茜色に染まり、鷹の姿に変わって要平と沙弥の周りを八の字を描いて旋回する。
「かつては、霊的存在たる式神を呪術で呼び出し、己の精神力を削って使役するという時代もあった。それと比べれば現代の式神などたやすい。では、外に出よう」
 最後に広永がパチンと指を鳴らすと、茜鷹は再び動かぬ円盤に戻った。

 吉野の山を深く深く、踏みならされた道を辿っていくと、滝の音がかすかに聞こえ始めた。
 広永の背を追って歩く要平、その要平の後を歩く沙弥。
 やがて水のはぜる音は轟々とその勢いを増してくる。
「自然の響きに耳を澄まし、自然の声を聴く。自然と心を通わせることが出来れば、ディスクアニマルは必ず諸君に応える」
 広永はそう言ってディスクを二枚取り出し、要平と沙弥に手渡した。
「自然の声が聴こえたと思ったら、変身道具を鳴らしなさい。ディスクが動かなければまだ自然と心を通わせられていないということだ。ディスクが動くようになったら道場に戻って来なさい」
 それだけで広永はきびすを返してしまった。
「先生、自然の声を聴くって具体的には何を……」
「自然にはあらゆる響きが溢れている。私が教えては何の意味も無い。諸君が自分で気付くのだ。それがディスクアニマルカリキュラムだ」
 歩み去っていく広永。
 残された要平と沙弥は顔を見合わせ、
「……どうする?」
「……どうしよう」
 困惑した表情。
「自然の響きって、周りから聞こえてくる音ってことなんだろうか。沙弥さんはどう思う?」
「何か違う気がする……きっともっと難しいことじゃない? えっと、例えば、そういう音の中に隠されたリズムとか?」
 沙弥も自信なさげだ。
「あ、なんかそれっぽい気がする。さすが沙弥さん」
「ごめん、自信ないけど……」
「いや、でも鬼の修行って音楽がかなり大事だし、ありそうだと思うよ」
 要平もそう言ってはみるものの、実際には何をすればよいのか自分では思いつかなくて、沙弥の言ったことに縋っているだけである。
 とりあえずやってみようということで、二人は目を閉じ、耳を澄ました。轟轟と響く滝の音。その中にも実はリズムがあるのかもしれない?
 それとも、滝音にかき消されて目立たないが、滝壷に流れ落ちる水が川となってせせらぐ音。今まで気にも止めなかったが蝉の鳴き声も甲高く響いている。
 こういうのが自然の響きなのか?
 要平は目を開けてみた。目の前には、じっと目を閉じている沙弥。要平は大きく瞬きをした。
 陽光が水面に反射してキラキラと輝く。
 目を開けた沙弥と視線が合った。
「要平さんは何かわかった?」
「んー……あんまり」
「私も、微妙、かな」
 互いに苦笑する二人。
「ちょっと試しにやってみる?」
 要平は広永から渡されていたディスクと、変身鬼笛を取り出した。
「あ、それじゃ私も」
 沙弥も新調の変身鬼弓を右腰から外し、ディスクを左手に持つ。
 ……。
「要平さん先にやってよ」
「え、レディーファーストでしょ、こういうのは」
 延々順番を譲り合っても仕方がないので二人同時に鳴らそうと、特に口に出して言うでもなく二人は決めた。
 鬼笛を唇に添える要平。
 鬼弓のつまみを動かして鈴を出す沙弥。
 そして、二人の変身道具がそれぞれ澄んだ音を発し――
 ……。
「あ、やっぱダメか」
 苦笑する二人だった。

*     *     *

 吉野で要平と沙弥がディスクアニマルカリキュラムに臨んでいる頃、中四国支部では夏の等身大魔化魍との戦いが始まっていた。

 岡山県の県北に位置する城下町、津山は「ごんご」の里として知られる。「ごんご」とはこの地方の方言で河童を意味し、津山を流れる吉井川にはかつて人々に友好的な河童たちが棲んでいたと伝えられている。
 だが、それも今は昔。
 心優しい「ごんご」たちの言い伝えも今となっては、津山市のマスコットキャラクターや、夏のメインイベント「津山納涼ごんごまつり」、その祭りで踊る「ごんごおどり」などにその名残を残すのみとなった。
 そして今、この地に現れるのは人間を餌とする化け物、夏の魔化魍カッパだけである。

 二十体、いや三十体は居ようかというカッパの群れが山奥の沼地でうごめいていた。
 その中心に、亀の甲羅のような装束を纏った童子と姫が立ち、歌を歌っていた。
「ソーヤレ、ソーヤレ。ごんごに水やれ」
「水やれ、水やれ。さあ、さあ、それからどしたァ……」
 そして、無数のカッパたちはその歌に合わせて体を動かしているようにも見える。この歌はそう、「ごんごおどり」の歌「ごんご囃子」ではないか。
 と、そこへ赤い鳥と黒い鳥、ディスクアニマル『茜鷹』と『黒羽烏』が木々の間を突っ切って現れた。そして、その後を追いかけてくる二人の男。
 藪から駆け出た二人は、カッパたちの姿を見捉えてどちらからともなく足を止める。
「今年も始まりましたね、もう一つのごんご祭りが。兄貴」
 変身音叉を取り出して、男、ムラサキが隣に目配せした。
「よし、一気にぶっ叩いてやるか!」
 答えるのは、ラメ入りの茶髪を逆立てた男、センキだ。
 彼らを見て、童子と姫が姿を変化させていく。カッパたちがぞろぞろと沼から上がり、幅広く散開していく。
「行くぞムラサキ」
「はい、兄貴」
 センキが変身音叉『音冠』を、ムラサキが『音鏡』を手で弾き、額にかざす。鬼面の出現と同時に、一つの人影は落雷を浴び、一つの人影はオーロラに包まれた。
「ヤア!」
「せあっ!」
 鬼の姿に変わるが早いか、二人はそれぞれの音撃棒を引き抜いて走り出す。
「うらじゃ、うらじゃ」
 怪童子と妖姫が声を重ねて歌い、そして、迫り来る二人の鬼に対して構えを取った。これは岡山市の「うらじゃ祭り」で踊る「うらじゃ踊り」の歌で、「うらじゃ」は「鬼だ」を意味するのだ。
「消えやがれ!」
 千鬼が両手の音撃棒『雷千』を左上に振りかざした。そして怪童子に迫ると、一撃! さらに手を返してもう一撃を叩き込む。
「食らえっ!」
 紫鬼は妖姫に音撃棒を振り下ろす。音撃棒『極光』の連打が妖姫を後ずさりさせる。
 カッパどもが千鬼に、紫鬼に、何体も何体もまとわりついてその動きを封じんとする。だが数の差に怯む鬼たちではない。黄色と紫色の音撃棒が二度、三度、幾度となく風を切り、カッパに、怪童子に、妖姫にぶち当たる。
「おい、やるぞ!」
 千鬼が紫鬼に叫び、そして戦いの渦中から飛び退いた。
「はいっ!」
 紫鬼も彼にならって魔化魍たちから離れる。
 そして二人は音撃棒をそれぞれの胸の前で組み、気合を込めた。
「アアアアアッ!」
 迸る稲妻が千鬼の全身を巡り、輝くオーロラが紫鬼の全身を包む。そして、気合一閃。
「ヤアアアアアアッ! 千鬼、梔子(くちなし)!」
「うおりゃああああ! 紫鬼、紫苑!」
 夏の鍛えの成果、これが太鼓の鬼の強化形態だ。千鬼は濃い黄色に、紫鬼は鮮やかな紫にその身を染めて、恐れおののく怪童子と妖姫、そしてカッパどもに突っ込む。
「オラア、行くぜ! 今年の夏の暴れ初めだ!」
 迅雷を纏った千鬼の『雷千』が空気を震わせ、紫鬼の『極光』がまばゆいばかりの光を連れて、それぞれカッパの腹に叩き込まれた。一体。二体。三体。音撃鼓の模様を浮かび上がらせて、四体。五体。六体。カッパどもが爆散していく。
 怪童子と妖姫が鬼たちへ飛び掛かった。即座に音撃棒を打ち込まれ地面に突っ伏す。
「鬼闘術! 千脚万雷(せんきゃくばんらい)!」
 千鬼が空高く跳んだ。右足に電撃を集めて宙返り。そして必殺のキックが怪童子に見舞われた。
「ああ、あ……」
 爆散する怪童子、その向こうで紫鬼がオーロラに包まれた右の拳で妖姫の腹をぶち抜く。
「うぐ……」
 片割れの後を追って崩れ去る妖姫。残るは無数のカッパどもだけだ。
「音撃打っ! 稲妻迸り(いなずまばしり)の型あ!」
 ドドン!
 千鬼の音撃を受け、カッパが塵と消える。
「音撃打、光彩陸離(こうさいりくり)の型!」
 ドドドン!
 兄弟子に負けじとカッパどもを薙ぎ倒す紫鬼。
 二人の鬼が音撃棒を振るうたび、カッパが次々とその数を減らしていく。
「よし! 師匠直伝、旭日連打! 兄弟子直伝、電光炸裂!」
 紫鬼の音撃打で二体のカッパが吹き飛んだ。
「ちげーよ、見てやがれ! 電光炸裂の型はこうだろうがっ!」
 千鬼の激しい連打がさらに一体のカッパを打ち砕く。
「ハイッ、兄貴! よおし、電光炸裂! おりゃああああっ、光彩陸離! それからこっちは、白夜夢幻の型あああっ!」
「稲妻奔りの型っ! ウオオオッ、百景千佳(ひゃっけいせんが)の型! テメエにはこいつをくれてやる! 一棒千里(いちぼうせんり)の型だあああっ!」
 爆散、爆散、爆散、そしてついに最後の一体。オロオロする最後のカッパに向かって、千鬼と紫鬼が両側から音撃棒を振りかぶった。

*     *     *

 さらにこれと同じ日、徳島県にはイツキとトキがドロタボウ退治に出動していた。
 手練れの二人、太鼓のベテランのイツキと支部最古参のトキが二人揃って出動しなければならないほど、ドロタボウの分裂が進んでしまっていたのだ。
 百体を数えようかというドロタボウを相手に、樹鬼は夏の強化形態『煤竹(すすたけ)』でくすんだ茶色に全身を染めて戦場を駆け抜け、斗鬼は太鼓の専門ではないながらも熟練した鬼棒術や音撃打で熱闘した。
 全てのドロタボウを倒し終えた直後、斗鬼はよろめき地面に片膝をついた。田圃の泥水がぱしゃっと跳ね上がる。
「トキさん、大丈夫ですか」
 樹鬼が顔の変身を解きながら斗鬼に駆け寄った。
「ああ、心配はいらないよ。だけど、さすがに老体にはこたえるね」
 汗に滲む素顔を晒したトキは、大きく息を吸って吐いた。
「トキさん」
「あたしもそろそろ限界が近いってことだろうね。夏の太鼓祭りが年々きつくなってくる」
 トキは今年で四十二歳。普通なら、とうに引退していてもおかしくない年齢だ。
 さらっておけば、支部で彼女に次ぐ年長者は三十九歳のツマビキ、三十八歳のコウキ、そして少し間が空いて三十四歳のイツキという順である。
「トキさん、何を仰います。支部の者、皆、まだまだトキさんの教えを必要としていますよ」
「……そうかい、嬉しいね」
 音撃棒を装備帯に収め、トキは立ち上がった。
「まだまだ弱音は吐けないみたいだね」
 イツキが頷く。
 そして、二人の戦士はベースへと凱旋するのだった。

*     *     *

 吉野の山に夕陽が差し始める。
 沙弥とそれぞれ別れて山中を何時間も歩き回っていた要平は、西に夕日を仰いだ。
 自然と心を通わせるにはどうしたらいいのかと散々試行錯誤を繰り返していた。木の下で座禅を組んでみたり、てんでバラバラに耳に飛び込んでくる様々な音を一つの調和した音楽として聴こうと頑張ってみたり。
 そして幾度となく変身鬼笛を吹いてみて、少しずつやり方は見えてきた感じだった。ディスクは何度か、鬼笛の音色を受けて鮮やかな茜色に染まった。しかし円盤は円盤のままで、鷹の姿に変わってはくれなかった。
 もうすぐ日が暮れる。沙弥もまだディスクを起動させられずに居るだろうか? それとも、とうに成功して道場に戻っているだろうか?
 日が暮れていく。ざわっ、と木々が揺れた。
 蝉の鳴き声はもう殆ど聞こえない。
 要平は夕日をじっと見ていた。そうしていると、先程まで全く気にしなかったが、ドクン、ドクンという自分の心臓の鼓動にはっと気が付いた。
 一度意識が向いてしまうとどうにも振り払えなくなるものだが、しばらくして要平はあることを閃いた。
「流れが、あるんだ」
 全てのものに。
 己の体の中には、心臓が送り出す血液の流れがある。
 自然にも流れがあるはずだ。自然の声、とか、自然の響き、などと云うよりも、流れという表現が最もしっくりくるように思えてきた。
「きっとそうだ……」
 流れがあるなら、するべきことは一つではないか。
 その流れを掴んで、流れに乗ればいいのだ。
 鬼笛の音色で自然の流れを遮っては仕方が無い。そうではなくて、音色を自然の流れに乗せることが出来れば。きっと、自然と心を通わせるというのは……。
 要平は銀色の変身鬼笛を見つめ、口許に持っていった。
 そして再び耳を澄ませる。
 二度目の閃きはすぐに浮かんだ。
 自然の一部になる。いや、既に自分はこの自然の一部だ。自分の中に感じる流れがあるなら、それこそが即ち自然から受けた流れなのだ。
 すう、と、息を吸い込む要平。
 そのとき一瞬、数日前の演奏会のことが彼の脳裏にフラッシュバックした。
 草間が指揮棒を構えるのを受けてクラリネットを構え、その指揮棒が動き出すのを待つあの一瞬の沈黙。
 要平は静かに目を閉じた。意識のどこかで、自然という指揮者が指揮棒を振るのを感じた。
 鬼笛を吹く。ディスクが空と同じ茜色に染まり、要平の手から飛び出した。
 全身に鳥肌が立った。
 茜の鷹が、確かに要平の目の前を旋回していた。

(十四之巻 完)



<十三之巻   ▲戻る   十五之巻>
1