2012年03月10日

石坂美砂 亡き母を語る(石坂真砂)

3月10日のビタミンFMのゲストは先週に引き続き石坂美砂さんをお招きしました。

先週は、今里哲さんのライブの話やフランスの歌手とかシャンソンがあまりマスメディアに登場
しなくなったことなどお話をしたのですが、一時間あっという間が過ぎてしまいました。

先週お母さんから「やどかり」とあだ名が付いた程だったとの事だったのですが、今週は「やどかり」
の頃の話とか、それ以降の話をお聞きできればと思います。

先週、放送を聞いていなかった方や今日始めて番組を聞いたという方の為にプロフィールの紹介をさせて
て頂きます。





♪石坂美砂(いしざかみさご)プロフィール♪
東京都杉並区出身
幼年期にアダモの「雪がふる」とカップリング曲「過ぎし夏のワルツ」を子守唄替りに毎日聴いて眠る。
小学校3年5月の復帰の時、母の実家である沖縄に帰ってくる。
県内の高校を卒業後、県外・国外へ放浪の旅をする。
その当時母から落ち着きのない娘に対して「やどかり」というあだ名を付けられる
母の店「銀巴里マヤン」の手伝いをしながら、沖縄クリスチャンスクールに通い英語を学び
ながらシャンソンを学ぶ。
シャンソンを本格的に唄い始めるのは、母が亡くなったて1年忌の際にパレット久茂地で
リサイタルを開いたのが契機となる。
一児の母でもある。

沖縄を代表するシャンソン歌手の故石坂真砂を母にもつ。

「やどかり」からお母さんの店を手伝う
高校を出てから、沖縄クリスチャンスクールに入学。ESL(英語が母国語ではな人の為のスクール)
に行ったのです。何故、行ったのかというと、母の店を手伝っていたのですが、夜の仕事が嫌だった
のです。歌を唄う仕事だったのですが、夜の仕事だけでは嫌だったのです。朝9時に学校に行って
夜、母の店を手伝う。ちゃんと卒業しまして、その後、母の店にどっぷりといった感じでした。

銀巴里マヤンは、若狭のビクトリービルで26年間店をやっていました。
私はピチピチの20代の時だったので、シャンソンを歌いなさいと言われても、シャンソンに興味は
なく、原詩を読むと恐ろしい詩であったりする訳です。母は厳しい人で、「この歌を唄いなさい」
とステージの前でチェックをするのです。どっか視線から消えてくれと思って唄っていました。

そういった嫌々10年間このような気持ちでいたのですが、途中、母が入院して余命3ヶ月と
言われて。店も閉めていたのですが、3ヶ月したら元気になって退院したのですが、
体も細くなり、体力も落ちて歌も唄えない。その時、かつて全国でライブをしてきたお客さん
からライブをお願いされたのです。「私は病気をして唄えないので、娘に唄わせるわ」
と気軽に母が言うのです。

母は厳しい人だったので、病み上がりで細い体でリハビリをして唄い続けました。
私のレパートリーは2~3曲位しかない訳です。
母のコンサートの付き人、兼、母の着替える際の時間を2曲歌ってという役で全国回りました。
2曲6分間の女で、全国回っていました。私は全国の美味しい物が食べられるしまったくお気軽
な気持ちで5年間位いたのですが、母がそろそろまじめにシャンソンを歌ったらと言われたので
すが、それでも好きになれなかったのです。

それでは、母に私の好きな歌を唄いたいといったら、好きな歌は全部ダメと言われてしまい。
唄いたい歌が唄えないというのは、やる気をそぎますよね。

でも、母は客観的に私がどんな歌を唄ったらいいか判断していたのです。
年齢とか、経験とかを通じてどんな歌を唄ったらいいか母は知っていたのですね。

嫌々唄っていると、お客さんにも伝わりますよね。「君歌うこと好きではないでしょう」
とお客さんに言われたりしました。

でも、小学生の頃、合唱コンクールでソロで賞を貰ったこともあるのですよ。
その時、ソロで賞を取ったということで、イジメにあったりした。
ソロで歌うということがトラウマのようになってしまっていたのです。
母が幼い頃は歌が上手だったのに、大人になればなるほど歌が下手になってと
言っていました。

母が亡くなってからシャンソンを唄ってみたくなった
よく職業欄に職業を書かなくってはいけない時があるのですが、その職業欄に
シャンソン歌手と書けなかった。少し濁して音楽関係とか書いていたのですが
母が亡くなってからしばらく経って、シャンソンに感動したり、自分で歌って
いる時にうるうるしたりしている自分がいる。歌っている時に楽しくなったり
する様になった。

母が生きている時に、こんな自分の姿を見せたかったな~と思うのですが、
もし、母が生きていて今の私の唄を聞いて、きっと「ノンノン」と、まだ
ダメだと言うでしょうが、唄に出合えて本当に良かったと思っています。

2003年に母は亡くなっているのですが、母の歌をこよなく愛している人達が
いる。その人達の中には、合唱で母の歌を唄ってCDも発売をしている
グループもいる訳です。

母の残した歌を唄っていくのはもしかしたら私の役割かもしれないと思う
ようになりました。

母が降りてきて初のワンマンショーを唄いきりました。
パレット久茂地で2時間20曲のワンマンショーを開いた。その半分は母の
歌だったのですが、その母の歌の中には始めて唄う歌もあり、歌詞も覚えられ
無くって本番を迎えたのです。そしたら、その日、母が自分に降りてきて
すらっと唄えたのです。

母のステージ衣装を着て、ステージに立った瞬間、今すぐにでも逃げたい
と思ったのですが、前奏が始ったらピヨーンと母が降りてきて、自分でも
2時間唄ったのかと思える程、あっという間のステージだったのです。

皆がコンサートが終わってから「緊張していなかったね」と言ったのですが
母が降りてきたと言う訳にもいかないですよね。

そのステージ以来、母と向き合い、母の残してくれた歌をきちっと唄おうと
思いました。

一番身近にいて、私が一番母のファンではなかったということに気が付
きました。

お客さんに「へたくそ」なんてよく言われたのですが、そんな事はしょっちゅう
で私は傷つかないないのですが、母はお客さんに「私と同じ歳になったら、
もっとこの子は上手くなるから」と言うのです。親ばかとお客さんに言われたり
したのですが、母は私をそのように気遣ってくれていたのですね。そんな母の
気持ちも気付かずに反抗ばかりしていました。

ライブのお知らせ




西原けい子シャンソンライブが3月14日(水)午後7時開場 午後8時開演(2ステージ)
ミュージックカフェーKUMOJI問合せ098-862-3921であります。私は、司会進行役と歌を唄わせていただきます。料金は3,500円ワンドリンク付きです。



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