墓石は永遠に祖霊の足跡を語るもの 格調高く仕上げたい 有限 会社大塚石材工業
吉生墓地販売中!

よいお墓とは、かけがえのない家族がご先祖様と魂の会話をしながらつくるお墓

*よいお墓と魂の会話
*お墓を石でつくるのはなぜ?
*お墓ってなに?

よいお墓と魂の会話

 お墓には「家族のきずなを確認しあう場所」という大切な役割があります。
 どんなに立派なお墓でも、家族の気持ちがバラバラでお互いに信じ合えないとか、お墓まいりをする家族がお墓の役割を知らなかったら、「よいお墓」とは言えません。お墓を建てるだけでは「よいお墓」ではありません。家族の気持ちが「よいお墓」を作るのです。
 「動物は母親はわかるが父親を知らない。万物の霊長である人間だけがそれを知っている」といって古代中国人は先祖(父系)を大切にお祀りし、とくに「幼い子には祖父母の霊が宿る」と信じてきました。
 それは日本でも同じでした。
 では、現代に生きる私たちは、子供たちに「人生」と「生活」のちがいをどうやって教えるのでしょうか。
 おどろいたことに、ひとむかし前の日本人は、そんなことは、どんな家の親でもちゃんと知っていたのです。
 それを私は「魂の会話」と呼んでいます。
 今の日本の家庭にもっとも欠けているのはこのことではないか、と私は思うのです。
 かつてはどこの親でも、小学校へあがらない子に、「ハイ、○○ちゃん、お仏壇にお供えして」と言って、お仏飯とお茶(お水)を供えさせました。
 仏壇に仏飯とお茶をあげるのは子供の日課でした。
 また、いただき物を仏壇に供えないで開けようものなら、親からこっぴどく叱られました。だれしもそんな経験が一度や二度はあるはずです。
 これが私のいう「魂の会話」の第一歩です。
 子供のころは神妙な振りをして、親のいいつけ通りおリンを鳴らし、手を合わせたものです。
 かつての日本の家庭では、そうやって物心もつかない幼い時から、ご先祖様との「魂の会話」の訓練をちゃんとしていました。今の日本にはこれがないのです。
 こうした訓練は子供が幼いうちでないとうまく行きません。大きくなると、恥ずかしがったり屁理屈をこねて素直にできなくなるからです。
 それは「もっとも健全な日本人の宗教だ」と私は思います。お墓やお仏壇はまさに「日本の健全な宗教が生きているところ」です。
 魂の会話の訓練を受けた子供は、やがてそのことがご先祖様を含む大切な「家族のきずな」となることを自然と身につけて成人します。
 そして今度は親となってわが子におなじことを教え、親から子へ、子から孫へと何百年もの長い間にわたって、「魂の会話」の伝統を受けついできたのが戦前までの日本の家庭でした。
 今は「心の時代」だそうですが、かけ声ばかりで、いったい何をしてよいのか、ちっともわかりません。
 亡くなってお墓やお仏壇にいるご先祖様を含め、生きている家族が、家庭の中で信頼し、お互いかけがえのない存在であることを確認しあえるような会話が、ほんとうの「心の時代」を築くはずです。
 「よいお墓」とは、お墓の前でご先祖様と魂の会話ができる家族のお墓のことなのです。
 そのためには私たちの世代が、幼い子供たちに、もっとご先祖様との会話の練習を家庭のなかで、教えなくてはならないと思うのです。

上へ戻る

お墓を石でつくるのはなぜ?

 何年か前ステンレスやセラミック(陶磁器)製のお墓が新聞やテレビで話題になりましたが、サッパリ人気がなくて、すぐに消えました。
 日本人はどうしても、「お墓は石で」という気持ちがつよく、石以外はガンとして受け付けません。
 それは、なぜなのでしょうか?
 日本には古代から、石を「聖なるもの」として、斎き祀った遺跡がいたるところにあります。
 たとえば神霊の依り代という「石境(いわさか)」「磯城(しき)」、縄文時代の「環状列石」(古代人の墓)、蘇我馬子の墓という「石舞台」(奈良・飛鳥)の巨大な石の古墳、あるいは中世から流行する道祖神や石仏などを含めると数え切れないほどの石造物や自然石があります。
★地下の死者の国の出口を塞ぐ石
 第一に千引石(墓石)は、イザナミの命が往った「黄泉の国」(死者の国)の出口を塞ぎ、死者がこの世に自由に出てこれない役割をしています。
 また墓石をむやみに開けてのぞいてはいけない、死者が大地のふるさとで安らかに眠っている邪魔をしてはいけない、という意味もあります。
★あの世とこの世の境界石
 二つ目は、千引石はあの世とこの世を分けるちょうど境界の役目があります。
 墓石の前にぬかづくのは、死者の世界と向きあうことですから、普段とまったくちがう状況で、亡くなったかけがえのない家族やご先祖様とともに過ごす、人間として大切な時間という意味があります。
 境界石はのちに「道祖神」「塞の神」や墓地の入口の「六地蔵」、四つ辻・村はずれのお地蔵さまなどになります。どれも知らない異界と日常の世界とを隔てる石という意味です。
 外敵や疫病・疫病神の侵入をふせぎ、あの世で苦しむ死者を救い、知らない世界へ旅立つひとや、そこに暮らす人々の生活を守るなど、さまざまな民俗、仏教、新道の意味が込められています。
 ちなみに「賽の川原」は仏教的なこの世とあの世の境界で、お地蔵さまは幼くして亡くなった子供たちの苦しみを救うためにそこにいますが、千引石で出口を「塞い」だ「塞」と賽の河原の「賽」は字がとてもよく似ています。庶民の感覚では、そんなことから塞(さえ)の神(道祖神)と村はずれのお地蔵様とが習合して、いつの間にか同じような意味に受け取られるようになったのかも知れません。
★死者と生者を仲立ちする石
 第三は千引石も墓石も、生きているものと亡くなったものとが会話をするちょうど仲立ちの役割をする石で、これがもっとも大切な意味です。
 『古事記』では、イザナギとイザナミの会話は日本の将来の予言ですが、お墓は本来「魂の会話」をするところだ、と思います。
 それはむつかしいことではありません。人と人とがほんとうに信頼し、お互いにかけがえのない大切な存在であることを確認しあう会話のことです。
 亡くなった肉親の魂と、残された家族とが、心の中ですなおに会話をするところがお墓です。それが「家族のきずな」の始まりだと私は信じています。
 神話は、お墓(千引石)をはさんで死者と生者が会話をすることの大切さを教えてくれるのです。
石の霊力
 日本人は神代のむかしから「石」に霊が宿ると考えてきました。だから心霊が宿る「磐座(いわくら)」を石でつくり、「千引石」が最初のお墓となったのです。
 日本には八百万(やおろず)の神々がいますから、自然界のあらゆるものに霊が宿っていますが、石は特別な霊力があると思われたのです。たとえば『古事記』にはスサノヲの命が天照大神(あまてらすおおみかみ)に身の潔白を明かす「誓約(うけい)」のとき、天照大神の八尺(やさか)の勾玉に息を吹きかけると五人の男神が生まれた話があります。つまり勾玉は霊力のある石だったのです。
 日本人が古代からお墓を死者の霊魂がやどる依り代の「石」で作るのは、「石」の霊力を信じる伝統があったのです。それは一朝一夕に失われるものではありません。それが二千年の伝統の重みです。
 「お墓は石」という日本人の心情にはこうした神話と歴史の背景があったのです。

上へ戻る

お墓ってなに?

ご先祖様は位牌とお墓のどちらにいるの?

 私たちは折にふれ仏壇のお位牌やお墓で先祖供養をしますが、さてここでクイズです。ご先祖様はお位牌とお墓のどちらにいるのでしょうか?
 まず、人が亡くなったらどうなるのか、どこへ行くのか、それを柳田国男著「先祖の話」(筑摩書房)で見ましょう。この本には、人が亡くなったあとの魂は三つの段階をたどる、と次のように書いてあります。
 これは民俗学からみた日本人の霊魂観といってよいでしょう。
●死霊と荒魂
 人がなくなるとその魂は、不安定な「死霊」となって家の付近をさまよう、と信じられています。ときには生きている人に害をおよぼすこともあるので、荒々しい魂という意味の「荒魂」とよばれます。
 そこで家の人は死霊を大切に鎮める必要があります。仏教の追善供養や神道の鎮魂・慰霊祭がそうです。
 死霊(荒魂)は、大切にお祀りをしてもらうと、その家のわざわいを除き、幸福をもたらしてくれる除災招福の力がある、と信じられています。
●祖霊と和魂(にぎたま)
 ほとんどの家では、追善供養を仏教でおこないます。最初が「四十九日」で、七日ごとに七回お寺さんに法要をしてもらいます。次が百日目、あとは一周忌、三回忌、十三回忌という風に、すこしずつ間をあけながら仏壇やお墓で供養します。
 こうして死霊は、年月とともに荒々しさも消え、安定し、やがてねごやかな魂という意味の「和魂」とよばれる家の祖霊となって行きます。
 祖霊は家族や子孫にわざわいや害をおよぼすこともなくなり、むしろ繁栄と恩恵をもたらします。
●神霊と氏神
 家族の供養をうけて三十年ほどすると、祖霊は血縁の家をはなれ、個性をもたない霊になる、と信じられました。祖霊は、おなじ地域(地縁)の神様の仲間に入るので「神霊」とよばれます。これが村の「氏神様」です。鎮守の森(神社)では、村中で氏神様をおまつりします。
 氏神様は村全体の繁栄、とくに農業が中心だったころは豊作(五穀豊穣)をもたらし、人々の安全や願いをかなえる一方で、人々の生き方によって天災をもたらす、おそろしい一面もあります。
 ちなみに三十三回忌または五十回忌が終わると家の供養から完全に離れるので、「弔い切り(問い切り)」といって、戒名を書いた位牌を処分し、お墓を倒す「墓だおし」をおこなうところもあります。

あの世はどこに?

●魂のふるさと・山と海
 『先祖の話』によると、亡くなった人の魂はふるさとの美しい山の頂上付近、あるいは海辺の人は海のかなたへ帰ると信じられていました。魂が帰るふるさとの山を「神奈備」、海のかなたを「妣(はは)の国」(妣は亡母のこと)や沖縄では「ニライカナイ」という「常世の国」があります。そして山のふもとや海辺に社をたてて氏神様を定期的にまねき、笛・太鼓や踊りでにぎやかにお祭りをします。
●地下の『あの世』
 『古事記」や『日本書紀』の神話のなかにイザナキの命(男神)とイザナミの命(女神)の話があります。イザナミの命が亡くなって往ったのは「黄泉の国(根の国)という洞穴の中、つまり地下にある国でした。
 とすると、日本には、三つの「あの世」があります。
 私たちはどの「あの世」へ往くのでしょうか?
 もうおわかりでしょう。山と海のかなたへ帰るのは形のない魂で、かたちのある亡骸は地下へと、それぞれの「自然」に帰るのです。

お位牌とお墓

 位牌は、中国と日本では意味がちがいます。
 中国の位牌(神主)は魂魄でいうと、「形魄」そのものの役割をしていますが、日本ではなぜか「霊魂(魂気)」が宿るところ(依り代)になりました。
 ここで、最初のクイズの解答です。
 日本では位牌は「霊魂」が宿り、お墓は白骨となって「形魄」が帰る大切なところだったのです。
 では、なぜ私たちはお墓を建てるのでしょうか。

大切なお墓の役割

 お墓は、人が亡くなって「魄(はく)」というたましいの宿る白骨を大自然のふるさと「大地」へ帰す大切や役割を果たしているのです。
 そしてお盆には、墓前の灯明から「魄」を移し、精霊(しょうりょう)棚の位牌前の「魂」の灯明と一つにすることで、ご先祖様は無事わが家へ帰ってくることができるのです。
 もしも散骨してお墓がない時は、ご先祖様の「魂」は相手の「魄」がなくて一つになれず、わが家へ帰ることができません。「魄」はきっと悲しげに、独りでわが家の回りをウロウロさまよっていることでしょう。

上へ戻る