召されたものとしての教会
召されたものとしての教会
A.召されたもの
日本語の「教会」という言葉は、エクレシアというギリシャ語の翻訳として用いられています。
エクレシアと言う言葉は、新約聖書に87回出てきますが、
もともと「~から」という意味の「エク」と、「招く、大声で呼ぶ」という意味の「カレオー」というふたつの言葉がひとつになって、「呼び出す」と言う意味の「エンカレオー」という動詞になり。
さらにこれが名詞に変化して、「呼び出された者たちの集り、会合、会衆」という意味の『エクレシア』になったものです。
実は、エクレシアという言葉は、クリスチャンたちによって用いられ始める
ずっと前から、『古代ギリシャ都市』の『議会』の呼称として広く用いられており。
この古代ギリシャの議会が、現代の『民主主義』に通じる議会であったことは、
良く知られている事実です。
また、使徒の働きの著者ルカは、パウロがエペソにおいて騒動に巻き込まれた時の暴徒たちを、エクレシアと呼んでいますから、
このような呼び方が。ごく一般的であった事がしのばれます。(使徒の働き19:31)。
初代のクリスチャンたちは、当初、自分たちのことを「弟子たち」(使徒2:41)とか「この道の者たち」、あるいは単に「信じた者」とか「聖徒」と呼んでいたようです。
また、ユダヤ的背景の強いヤコブ書では、一度だけですが、教会がユダヤ教の会堂を意味する「シナゴグ」と言う言葉で呼ばれています(2:2)。
これは初代の教会が、ユダヤ教の会堂の形態から発展してきたことを伺わせると共に、そのようにも呼ばれていた時期があったことを示すものです。
初代の教会の歴史を記している使徒の働きで、エクレシアという言葉が、『教会』という意味で、最初に用いられているのが、
5章11節である事からも推測できるように
一般のクリスチャンたちが、自分たちの集りあるいは交わりを、エクレシアという言葉で表現するようになったのは、
少なくても、キリストの昇天後しばらくたってからのことだったと思われます。
また、彼らが『エクレシア』という言葉を選んだ経緯には、
多分、当時のクリスチャンたちの一大決意があったのではないかと想像されます。
なぜなら、それはギリシャ都市の一般の議会や、町内会の集まり、
あるいはわけもわからないで騒ぎ立てるだけの暴徒など、
様々な人々の集りと混同される危険がありましたし、
当時70人訳が広く読まれていた事実から、
イスラエルの会衆と間違われる危険もあったからです。
それにも拘わらず、彼らが敢えてこの『エクレシア』という言葉を選んだのは、
教会の本当の姿が、
まさに「召された者たちの会衆」と呼ばれるに相応しく、
その他の言葉ではどうしても、教会の全体的な姿を表現できなかったからでしょう。
そのように考えると、初代のクリスチャンたちが自分たちの集り、
つまり教会について語るとき、
最も大切なこととして認識していたことは、
「召し出された者たちの集りである」という事実であったと考えられます。
たぶん、これが最も簡潔な教会の定義であると言えるでしょう。
ついでながら加えますと、『教会』のことを英語では「Church」 と言いますが、
これは「主のもの」という意味のギリシャ語「キュリアコン」から来たといわれています。
この言葉は、新約聖書では主の晩餐と主の日にそれぞれいちどずつ用いられているだけで(Iコリ11:20、黙1:10)、『教会という意味では』『一度も用いられていません』。
この言葉が『教会の集会場所』を指すようになったのは、
使徒時代以降のことと考えられています。
日本語の「教会」は、教会の本来の姿を幾分かは表現しているとはいえ、
「教える」という意味が強すぎて、
個人的には好になれませんが、
他に適当な言葉があるようにも思えません。
あえて言うならば、「召会」でしょうか。
私たちの教団名は、英語のアッセンブリーズ・オブ・ゴッドという名前をそのまま用いていますが、
「神の集会」いう意味で、教会の本来の意味をよく伝えていますし、
「集会」を複数形にしているのも当然とはいえ、
なかなか良いと思います。
これを漢字にして「神召会」と訳したのは、
まさにエクレシアより傑作ですが、
残念ながら、教会という名が定着した後であり、
またひとつの団体の名前としては、
意味不明と言われそうで、
いくつかの個教会の例を除いては、
団体名としては残らなかったようです。
ただし、台湾や香港の私たちの姉妹教団では、立派に「神召会」で定着しています。
ただし、英語でアッセンブリーズ・オブ・ゴッドの前に、定冠詞の「The」が入っているのは、いささか独りよがりの感がしないでもありません。
B.新約聖書の「召し」という言葉
新約聖書は、教会が召された者であるという意味で、
カレオーの変化した形の言葉を60回ほど用いています。
日本語では「召し」あるいは「招き」、
さらにはそれらの動詞の形に訳されています。
召しという概念は、教会の中でしばしば誤解されて用いられてきました。
多くの場合、召されるという言葉は、伝道者として召される、
牧師として召される、
説教者として召される、
あるいは宣教師として召されるというような意味合いで用いられてきました。
しかし、これは新約聖書が強調する召しとはまったく違うものです。
新約聖書が「召し」と言う場合、その90%以上が、教会がこの世から、
あるいは悪魔の支配から召され、
呼び出され、
神の国に招待されているという意味で用いられているのです。
すなわち、聖書の言う召しとは、
基本的に、救いと言う事実を神の側からの行為として捕えた表現であり、
救いそのものなのです。
例外のひとつは、使徒の働き13:2でバルナバと
サウロが召されたと言われているところです。
この場合は神が彼らのためにお定めになった「働き」への召しです。
それから、彼らがマケドニヤに渡るきっかけとなった
幻についての言及で(使徒16:10)、
彼らは、福音を語るという働きと、
マケドニヤという場所と、
マケドニヤ人という対象に対して、
特定の期間に限って召されたと信じたと言うことです。
また、パウロは独身の状態や奴隷の身分の状態を指して
「召し」と言う言葉を用いた例があります(Iコリ7:20)。
これは昔カルビニストたちが職業を「召し」と呼び、
それぞれの職業は神の召しであるから
それを変えてはならないと教えたり、
ある人たちが独身は召しであると主張したりする、
よりどころとなったものです。
また、神の働きの中での「聖職」に対する召しとしては、
ただ一度だけ、
ヘブル5:4で旧約時代の大祭司に関わって用いられていますが、
祭司職が失われた新約時代にこの用法を適用して、
牧師や宣教師という「聖職」への召しの根拠とする事はできないでしょう。
また、ロマ1:1あるいはIコリント1:1で、パウロが使徒として召されたと主張しているように理解できるところがあります。
しかし、これはそのような「聖職」への召しの存在を先入観として持っている、
翻訳者たちの訳の間違いだと考えられます。
文法的にはそのように訳す事も可能だと思いますが、
文脈からは違うと判断されます。
いずれの場合も数節後には、一般のクリスチャンたちに対して「召された」という同じ言葉をもって呼び掛け、
「共に同じ救いに与った我々」という意味を込めているのですから、
パウロは自分が使徒として召されたと言う事を言おうとしたのではなく、
召されて、使徒となった、
すなわちまず救いに与って、
それから使徒となったと言っているのだと判断されます。
パウロはIIテモテ1:9-11においても同様の言いまわしをしています。
このように、新約聖書は召しと言う言葉をもって救いという事実を表現し、
救いが人間側の努力や功績によらず、
神の側からの働きかけによるものである事を
強調しているのです。
救いに関する神のご意志と手段を、
人間の意思や手段に対比しているのです。
教会がエクレシアと呼ばれるようになったのは、
自分たちは自分たちの意思によらず、
自分たちの働きや功績にもよらず、
まったく、神の側の圧倒的な働きかけ、
抗しがたい神のみ心によって、
呼び集められた者の共同体であると
認識されたからに違いありません。
このような神の絶対の召しに対し、
人間の自由意志による選択、
あるいはそれに関連して、いわゆるカルビニズムとアルミニズムの論争があることは、
よく知られています。
聖書では『神の絶対主権』による選びと
召しが
強調されていると共に、
人間には自由意思が与えられ、
神の提供される救いの招きを受け入れる事も、
拒む事もできると教えられているからです。
カルビニズムとアルメニズムの論争はいつ果てることなく続いていますが、
この論争自体に大きな欠陥があり、
不毛な論争です。
それは神の絶対の自由を、人間の限られた自由と同じレベルに引き下して、
論じ合うという欠陥です。
神の自由と
人間の自由が
直接衝突してしまうのは、
神の自由と
人間の自由を
同じ高さ、
同じ線路に
置いて走らせるからです。
本来、神の自由は根源的な自由であり、
無制限の完全な自由です。
それに対し人間の自由は
あくまでも許されている
自由に過ぎず、
与えられている自由です。
それは時間と空間、
また、人間に与えられている
有限の能力というものによって、
必然的に制限された自由です。
神の自由と
人間の自由では
次元が異なるのです。
喩えて言うと、
人間の自由は
金魚鉢の中にいる金魚の自由です。
金魚は金魚鉢という場所と、
金魚が生きている時間と、
金魚の能力の範囲内で、
まったく自由なのです。
人間も、宇宙船地球号という金魚鉢のなかで、
許されている命が続くかぎり、
与えられた能力の許す範囲で、
まったく自由なのです。
自分の能力の限りに考え、
選択し、
創造し、
活動する自由があります。
与えられた環境の中で生きるという限り、
まったく自由です。
ひとりの人間として生きる長さがどれだけか、
あるいは人類として生かされる
長さが
どれほどかは不明ですが、
その中で自由です。
しかし、人類の生きる長さも無限では
ありません。
神が許される範囲の中で無限なのです。
したがって、神の自由な選びと
召しが
人間の自由な選択と
衝突する事は
あり得ないのです。
人間は
まったく自分の自由意思で、
神が提供される救いを選びますが、
その人間選択は
神の選びと
召しの中にあって
行なわれるのです。
C.この世から召し出されたもの
教会とは召し出されたものです。
教会は
この世と
呼ばれる世界から、
神の選びにしたがって
呼び出されたものです。
この世とは、悪魔の支配する世であり
神の支配である神の国に対峙するものです。
それは生まれ出るすべての人間が、
一度は必ず生まれる闇の世であり、
そこにおいて人間は、
心の望むままに生きる自由を持ちながら、
悪魔にしたがって
罪の奴隷として生きる自由だけしか
持ち合わせず、
生まれながらに
怒りを受けるように
定められ、
罪と罪過の中に死んでいたものです(IIコリ4:4、エペソ2:1-10)。
ところが教会は、そのような中から神の絶対のご意志によって選ばれ、
召し出されたのです。
もはや悪魔の支配を受けて『罪』を犯し続けるのではなく、
悪魔の支配と
罪から解放されて、
神の支配である神の国の中に入れられ、
良い行ないができるように造り変えられ、
神の子としての身分を与えられ、
永遠の命を与えられ、
神の国の国民として、
やがて完成される神の国を目指して、
まっしぐらに進もうとしているのです。
教会はいまだにこの世に生きていながら、
この世に属してはおらず、
寄留者として旅人として生きているに過ぎません。
D.神の国に召し入れられたもの
神の召しには、召し出されるという意味合いと同時に、
召し入れられる、
あるいは招待されるという意味があります。
教会が神の国に召し入れられたという、
聖書の直接の言及はIテサ2:12に一度だけあるだけですが、
悪魔の支配する
この世から召し出されたということは、
悪魔の支配に対峙する、
神の支配の中に召し入れられたと言うことであると、
容易に推測できます。
また、キリストがお話になった神の国のたとえからも、
それは充分に可能な考え方です。(マタイ13:1―52)
あるいは「召し」という言葉が、
キリストの交わり(Iコリ1:9)、
平和(Iコリ7:15)、
自由(ガラ5:13)、
一体となる(コロ3:15)、
清潔(Iテサ4:7)、
キリストの栄光を得る(IIテサ4:14)、
永遠の命(Iテモ6:12)、
永遠の資産の約束(ヘブ9:15)
暗闇から光り(Iペテ2:9)、
キリストと共なる苦しみ(Iペテ2:20,21)
祝福を受け継ぐ(Iペテ3:9)
などという表現と共に用いられている事実は、
召しとは神の国への召しであると語っていることがわかります。
神の国とは、
単純に「神の支配」のことですが、
非常に大きな概念で、
キリストの教えの中心であり、
使徒たちの宣教の核心でした。
この神の国を、キリストは今この世界で私たちが現実に体験するものでありながら(マタ12:28、13:1-52、23:13)、
やがて来たるべきものとして描いています(マタ25:1-46)。
それはパウロも同じです(Iコリ4:20、Iコリ6:9-10、15:50)。
今この世で体験できる神の国は、
癒しなどの『奇跡』をもって
悪魔の支配に『勝つ』事や、
正しい行ないによって
人間の生活の中に働く
悪魔の力に『勝利』して行く事、
あるいはそのように『勝利』できるようにされた人々の、
人間関係の中に現されて行きますが、
あくまでもまだ不完全なものです。
その内容においては正真証明
神の国の現れであっても、
まだ、神の国の力が完全に現れているのではなく、
いわば前味のように、
あるいは手付金や保証金のように、
後に現れる完全なものへの保証として現されているのです(エペソ1:13-14)。
神の国に召し入れられた者は、
また、神の国に生まれた者、
上からあるいは再び生まれた者であり(ヨハネ3:1-10)、
神の霊がその人を宮として住んでくださる者です。
こうして、悪魔の支配のもとで
神に敵対して生きていた者が、
神と和解させられて(ロマ5:1)
神の支配の中に入れられ、
神の霊に住んでいただく
新しい存在となるのです(IIコリ5:20)。
聖書は『神の国』のこのような二重性が、
たとえば救われること、
子とされること、
贖われること、
聖められることと
同じであると教えています。
私たちはすでに救われているのですが、
やがて来る『完全な救い』を待ち望んでいます。
すでに子とされているのですが、
やがて子とされることを待ち望んでいます。
すでに贖われていながら、
贖いの日を待望しています。
すでに神との和解を得ていながら、
さらに和解を待ち望んでいます。
聖くされていながら、
完全に聖なる者とされる時を待ち焦がれているのです。
これは、救われること、
子とされること、
贖われること、
あるいは聖くされることなどが、
神の国に入れられるという大きな霊的事実の、
様々な局面であることを示しています。
私たちは悪魔の支配から
神の支配の中に招き入れられたのですが、
まだ、「この世この代」においては完全な神の国の現れを待って、
悪魔と『戦い続け』なければならないのです。
しかし、私たちの主イエスがすでに完全な勝利を取っておられるために、
私たちの『勝利』もまた、
確実なものとして『約束』されているのです。
私たちは来るべき栄光を『待ち望んでいる』のですが、
すでにその栄光の中にいるのです(Iペテ5:10)。
E.共同体に召されたもの
神の国に召されるということはまた、
キリストの体と呼ばれる共同体にバプタイズされる事です。
(Iコリ12:13、コロ3:15、ヨハネ17:11-23)
救いを受けたすべての人、
すなわち神の国に召されたすべての人は、
例外なく、このキリストの体といわれる共同体に、
召し入れられているのです。
しかもバプタイズという言葉が示唆するのは、
単に繋がれる、
結ばれるというような弱いものではなく、
水の中にどっぷりと漬けられてあらゆるところに水が浸透するように、
キリストの中に浸りきるような強い繋がりです。
事実、パウロはこのキリストの体の繋がりを、
人間の体の有機的な繋がりと同質なものとして説明しています(Iコリ12:12-27)。
召されたものは、
ただ単に神の国の中で
一個の個人として
生きるのではなく、
新しい共同体を形成して
生きるのです。
悪魔の支配の中で、
それぞれが
それぞれのために、
わがままに
自分勝手に
生きていながら、
一致して
悪魔の意思に
従って生きていた者が、
神の和解を受けて、
また、あらゆる人々とも
互いに和解させられて、
すべての相違を超えてひとつとされて生きるのです(エペソ2:12-22)。
したがって、本来、この共同体に繋がっていないクリスチャンはあり得ないはずです。
この繋がりは普遍的教会との霊的繋がりというような、
ほとんど実態のない理念上の観念的繋がりではなく、
具体的な個々の地域教会の交わりの中で、
実現されて行くものです。
誤解を避けるために言い直すならば、
普遍的教会との霊的な繋がりという崇高な理念は、
具体的に地域教会の交わりの中で具現化され、
実現され実行されて行ってこそ、
はじめて霊的事実として認められるのです。
ですから、具体的に、地域のクリスチャンたちの交わりの中で実際に活動していないクリスチャンなどというものは、
本来存在してはならないし、
存在できないはずなのです。
それにも拘わらず存在しているというのは、
たとえその個人がどれほど『人格』に優れ崇高な人物であったとしても、
まさにぎりぎりの最低のレベルで、憐れみの神に存在を許されているに過ぎません。
これまでの神学に教会の理解が不足しているのは、
また不足している事に気付かずにここまで来ているのは、
共同体というものをネガティブに捕えて来た
近代欧米個人主義と民主主義の哲学を下敷きにして、
キリストの教えを解釈し、神学を構築してきたためです。
キリストがこの世に来て下さった目的は、
十字架で贖いの業を完成させるためであったことに
疑いを挟むものは、
少なくても福音派を自称する人たちの中にはいないでしょう。
しかし、福音派の人々がいま真剣に理解しなければならないのは、
キリストはご自分を信じる者たちをひとつにまとめ、
教会という共同体を建て上げるためにも来て下さったという事実と、
その事実の重要さです(マタイ16:18-19)。
教会は、神の国に招き入れられた人々が作り出した任意の団体ではありません。
偶然に、自然の成り行きで出来たものでも、
だれか優秀な人間の創造性による創作でもありません。
あくまでも、キリストがお建てになったものであり、
神の永遠の御計画によったものです(エペソ1:4-14、IIテモ1:9)。
ですから、神の国に招き入れられたものは、
教会に加入すべきかどうか迷うべきではなく、
加入させられているという霊的事実を、
最も良い形で具現化して行くには、
どのようにすべきかと考えるべきなのです。
また教会の指導者たちは、
自分たちの教会員としてふさわしいかどうかと、
救われた人々についてあれこれと詮索をするのではなく、
その人が神によって教会に与えられたという事実を、
まず謙虚に認め、受け入れるべきなのです。
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