長野県町教会の礼拝は自己弁護の場
空虚なお話
六月二日の日本キリスト教団 長野県町教会 早天礼拝での小出牧師のお話は、前回に続き、空虚なものでした。高戸二三男が病気だからと考える、と納得できるかもしれません。
わたくしが空虚と考えるのは、そのお話が正しいとか理解が浅いとか言うものではありません。
自らについて語っていないからです。
伝道を行っていないからです。「罪人に対し、罪人のラベルを何枚も張る」、「悩みの中の人に対し、一層の災いを届ける」のです。自らは清い者として、上から眺めています。
礼拝を自ら行った戒規の正当性を宣伝する場としております。
ですから、私高戸二三男は、その折、「自己宣伝をしてはいけない」と、声を上げました。「戒規は認めていないのですから、無効です」とも、発言しました。
一人の宣教者の信仰が、このような言葉が届けられました。
何かが流れ出たという感じを持たずに講壇をおりた牧師で、かつて本当の説教をした人はいない。もし、われわれが人を助けようとするなら、われわれ自身を費やす覚悟がなければならない・・・
身ぶるいするような嫌悪で見ている。人間をそのように見る者は決して人々を助けることができない。
最近のコメント