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【静岡経済 ヒットの系譜】

はごろもフーズ 「シーチキン」(上)

◆ツナ缶輸出で戦後復興

輸出用缶詰のラベルや、ツナ缶の大量生産のために開発された器具が並ぶ=静岡市清水区のフェルケール博物館で

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 昭和初期に米国への輸出用に開発されたツナ缶が、今では日本の多くの家庭のキッチンにある。はごろもフーズ前会長の二代目後藤磯吉が世に出した「シーチキン」。輸出向けツナ缶の普及とともに、国内の家庭に浸透した。同社の歩みは、静岡のツナ缶の歴史そのものだ。

 富士山を望む清水港(静岡市清水区)。その周辺に、ツナ缶の製造工場が並ぶ。国内のマグロの缶詰の約八割が、同区と焼津市で生産されている。

 清水港から車で五分ほど北に走ったところにある「末広鮨(すし)」。磯吉が長年通ったすし店だ。主人の望月栄次さん(71)は、生前の磯吉の姿を今でもふと思い出す。「相手の地位に関係なく、気配りの人だった。自慢話は一度も聞いたことがない」。口数は少なく、経営が苦しい時にも愚痴一つこぼしたことはなかったという。

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 一九一九(大正八)年に神戸市で生まれた佃康平(後に二代目後藤磯吉)は陸軍経理学校を卒業後、戦中は船舶司令部に配属された。サイパンが陥落して戦局が悪化すると、硫黄島での戦闘に備えて下田港に入港。ここで四五年八月十五日の玉音放送を聞いた。

 将兵たちは終戦の五日後に清水港に撤退した。康平らを迎えたのが、後藤缶詰所の創業者後藤磯吉(初代)が団長を務める地元の警防団だった。

 磯吉は戦争の残務処理をする康平の世話をするうち、次第に康平の人柄にほれ込んだ。康平も磯吉にひかれていった。康平は、自著「終始一誠」(非売品)でこう記す。「短期間ながら先代と向かい合っているうちに、これまでのことを全て忘れ去って、生きた手本である先代に仕えてみたいと思うようになっていた」

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 〇六(明治三十九)年、茶の米国輸出とともに栄えた清水港。この港についての資料などを集めたフェルケール(ドイツ語で交通の意味)博物館の椿原(ちんばら)靖弘学芸部長は「静岡茶は、紅茶の代用品としてミルクを入れて飲まれたが、はやらなかった」と明かす。ツナ缶は茶の後継となる新たな輸出品として開発されたのだった。

 終戦後、ツナ缶輸出が再開する直前の四六年一月、磯吉が脳出血で倒れた。康平の自著によると「口がきけないほどの重体だったが、一言『後を頼む』と言ったことだけは、本人(磯吉)の表情や雰囲気から感じ取れた」という。ツナ缶業界を長年取材してきたツナ近代史研究家の春日主計範(かずのり)さん(69)は「先代は康平の真っすぐな性格と経理の能力を買っていたようだ」と振り返る。磯吉が五十歳で亡くなった四カ月後、康平は後藤家へ婿入りした。二代目後藤磯吉を継いだ。

 地元の製缶工場の協力もあって、清水港で水揚げされたマグロを使った缶詰を量産できた。戦後の食糧不足の中、ツナ缶は瞬く間に生糸に次ぐ輸出品となり、外貨獲得の手段として戦後復興を支えた。後藤缶詰所も二代目磯吉の営業力と、その人望に引かれて集まった有能な人材の活躍で成長軌道に乗った。清水食品、清水水産と並ぶ「缶詰ご三家」と呼ばれた。

 五〇年には生産量が戦前のピークの二倍と大幅に伸びた。空襲で一時は壊滅的な被害を受けたツナ缶工場は、再起を果たした。ツナやミカンの缶詰をフル生産する多忙な時期だったが、その中でも「創意工夫」を口癖にしていた二代目磯吉。その頭には、新しい自社ブランド商品「シーチキン」の構想が浮かび始めていた。

(敬称略)

 

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