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【静岡経済 ヒットの系譜】

はごろもフーズ 「シーチキン」(中)

◆斬新CM ブランド確立

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 戦後復興が軌道に乗り「岩戸景気」と呼ばれ、日本が高度成長期の入り口に立った一九五八(昭和三十三)年。後藤缶詰(現はごろもフーズ)は、国内の家庭向け商品「シーチキン」を世に送り出した。プロのデザイナーが手掛けたモダンなパッケージに横文字。業界からは好奇の視線が向けられたが、二代目後藤磯吉は、この商品に社運を託す覚悟を決めていた。

 後藤缶詰は自社ブランドを育て、輸出向け「缶詰パッカー」から食品メーカーへの飛躍を狙っていた。当時はツナ缶の輸出の全盛時代。磯吉の次男で、現はごろもフーズ会長の後藤康雄(63)は、「輸出するだけでもうかった時だった。国内販売に移行する際、関係者からぼろくそに言われたようだ」という。

  ◇   ◇

 輸出のツナ缶が当たった秘密は、ツナがサンドイッチやサラダに日常的に使われていた米国人の食生活と密接に関連している。それは戦後、米軍の占領下にあった沖縄県がツナ缶の消費量日本一となっていることにも象徴される。

 ツナ缶の主原料、ビンナガマグロは身が白く、淡泊な食感が持ち味。米国のブランド「チキン・オブ・ザ・シー(海の鶏肉)」を参考にして名付けた。日本ではツナ缶が「マグロの油漬け」と呼ばれていたが、油まみれを連想させる名前を捨てて主婦にアピールする狙いもあった。

 ただ、日本人には、耳になじまず、原料もよく分からない「シーチキン」という食材をどう使うかがカギだった。販売は約十年間も伸び悩んだ。

 転機は、「奥さま、今晩のおかずにシーチキンはいかが」という文句で始まる料理のレシピを提案するテレビコマーシャル(CM)だった。磯吉は自著「終始一誠」で、「テレビ宣伝に大金をつぎ込んだが、さほど利益を出していない状況だっただけに、下手をすると会社の命取りになるかもしれない」と、眠れない日が続いた心境を振り返っている。

 六七年に名古屋市を中心に放送されたCMは、カラーテレビの普及を背景に全国に拡大。名古屋からシーチキンが売れ始めた。

 「はごろも缶詰」に社名を変えた磯吉は、さらに主婦向けの販売拡大を仕掛ける。缶詰のふたを送ると景品が当たるキャンペーンを打ち出し、知名度はますます高まった。

 高度成長の真っただ中、シーチキンの好調とともに、はごろも缶詰の業績は右肩上がりに伸びた。

  ◇   ◇

 そんな中、世界経済を驚がくさせた「事件」が起きた。七一年八月のニクソン・ショックだ。ベトナム戦争の激化で、ドルの海外流出を防ぐため、米国のニクソン大統領がテレビ中継で突然、金とドルの交換停止を表明。円は一ドル=三六〇円から三〇八円に切り上げられて急騰。その後、変動相場制へ移行する大きな転機となった。輸出缶詰の競争力も落ちこんだ。ただ、シーチキンが家庭の食卓に浸透しており、会社への打撃は最小限で済んだ。

 康雄は後年、磯吉に「ドルが変動相場制に移行することを知っていたのか」と尋ねた。磯吉は「それは分からなかった」と答え、こう続けた。「一ドル=三六〇円の時代が長く続くとも思わなかった。いつまでも輸出頼みではいけなかった」と明かしたという。

 絶頂期にあっても、時代の潮目を先読みして新しいことに挑戦する。磯吉の理念が、経営の危機を克服する原動力だった。難題を乗り越えるたびに会社は成長して、社員は育っった。磯吉は八六年、四十年間勤め上げた社長を息子の康雄に譲った。

(敬称略)

 

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