◆継承する「挑戦」の志
二代目後藤磯吉の後を受けて次男の康雄(63)が、社長に就任したのは一九八六(昭和六十一)年。三十七歳だった。戦後の混乱の中から会社を育ててきた磯吉から経営を引き継いだが、「先代とは違うことをしたい」といった思いが大きなプレッシャーになった。
「まだ自信がない」と康雄は、先代に打ち明けた。磯吉からは「私は二十七歳で社長になった。できないはずがないだろう」と檄(げき)が飛ばされたという。
「三代でひとくくりと考えて経営すればいい」。そう考えると、肩に入っていた余計な力が少し抜けた。それ以来、「挑戦」することで時代の変化に対応するという先代の思いを支えとしてきた。
康雄は社長就任の二年後、社名を「はごろもフーズ」に変更。缶詰以外の商品や容器の開発にも取り組む総合食品メーカーを目指した。大仕事となったのが、缶切りを使わなくても空けられる「イージーオープン(EO)缶」の本格的な開発だった。
六〇年代から、シーチキンの販売拡大の原動力は、全国各地に置いた特約店だった。併せて、EOの飛躍のきっかけは、七四年に東京都江東区豊洲に第一号店を出店したコンビニエンスストアのセブン−イレブンにEOが並んだことだった。
シーチキンの原料となるマグロの加工作業=焼津市のはごろもフーズ焼津工場で
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一部の商品をEO缶で製造しており、「コストは少し高かったが、商品を定価販売するコンビニのセブン−イレブンが扱ってくれた。コンビニとしても、スーパーの商品と差別化できるものを売りたい希望があった」と康雄は振り返る。
快調な受注に自信を付けて、はごろもフーズはEO缶詰を多くの商品に広げていった。「失敗していたら今、わが社はなかった。(イトーヨーカ堂の)伊藤雅俊名誉会長が理解を示してくれたおかげだった。セブン−イレブンには感謝している」と明かす。EO缶を使用することで商品の幅が広がり、新たな食材を提案するステップにもなった。
この時期、東南アジアでは、タイを中心に缶詰製造が成長期を迎えており、六十年前に缶詰輸出で栄えた清水のようだったという。太平洋とインド洋に面して豊富なマグロ資源にも恵まれているタイは、今ではスペインや米国を抑えて缶詰生産で世界一に躍り出ている。
はごろもフーズも九一年、タイの缶詰メーカーに出資。インドネシアでも合弁会社を立ち上げて、日本への輸出用の缶詰を製造している。
国際化の中で、「食卓のメニューの提案」を続けて足場固めに力を注いできた。キムチ鍋用にトウガラシで味付けしたシーチキンや、おにぎりに適したサイズに切った海苔(のり)。さまざまな料理に合わせて細分化した専用商品を充実させている。商品ラインアップは千四百種類にのぼる。同社は「特別新しいことではなく、ちょっとした切り口を考えて商品開発していく。まだ攻め切れていない市場は多い」という。
二代目後藤磯吉による「挑戦」の遺伝子は今に引き継がれている。シーチキンの缶詰こそ画期的な商品開発や販売戦略によって時代を乗り越えてきた「はごろもフーズ」の生きた証しといえよう。
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