蹴撃群雄伝. 第21回(最終回) / 伊原信一

  • 2013/06/22(土)

元・日本フェザー級、日本ライト級チャンピオン、伊原信一(目黒/伊原)
「どん底から這い上がった男」

伊原信一はキック史上最も波乱万丈な人生を送った男だ。人一倍のやさしさと厳しさを持ちながら、どん底から這い上がってキック界を代表する大物となった。
昭和26年(1951年)、宮崎県日向市生まれ。施設暮らしを経て16歳の時、ボクシングで稼ぐため上京するが、ジムでのケンカがもとで破門となり、テレビで観たキックに「オレに合った競技はこれだ」と確信し、目黒ジムに入門した。
昭和44年(1969年)1月デビュー。翌年には早くも飛馬拳二(横須賀中央)を破り、19歳で日本フェザー級王座を奪い、昭和48年(1973年)にはロッキー藤丸(西尾)を破り、日本ライト級王座に君臨。成人して二階級制覇も果たし、宮崎の施設に置いてきた弟と妹を引き取り、念願の兄弟揃った暮らしを始めた。
裕福な家庭に生まれながら、両親の離婚や父の死によって兄弟バラバラに親戚に預けられることを拒んだ伊原兄弟は、施設暮らしを余儀なくされていたのだ。王者になってもファイトマネーだけでは兄弟を食べさせるのは苦しかった。
しかし、王者の意地でキックで生計を立てた。
「当時は場所も相手も選んでいられなかったよ」
まさにハングリー精神。貪欲に試合をこなし、10キロ重い相手とも戦った。ケガを隠して出場し、月2試合以上の過酷なスケジュールもこなし、その一方で父親代わりとして、弟妹たちを学校へ送り出す責任を果たしていた。

伊原はリング上の技術面も優れていた。パンチも蹴りもスマートで強く、ハイキックも鮮やかだった。そのうえ、反則すれすれの頭突きや倒れた相手へ殴りかかる容赦ない荒っぽさでは、レフェリーを度々悩ませた。

昭和51年(1976年)、王座は矢田勝士(西尾)に奪われるも、伊原はまだ上昇気流に乗っていた。昭和55年(1980年)に500万円争奪オープントーナメントを制し、翌年には富山勝治(目黒)を倒して王者となったWKBA世界ウェルター級王者、ディーノ・ニューガルト(米国)戦に右手を骨折していながら出場し、判定で勝利する快挙を成し遂げた。

昭和58年(1983年)、伊原ジムを立ち上げるとともに、新日本キックボクシング協会を設立。低迷するキック界の荒波に船出する冒険だった。会長・プロモーター・選手の三役をこなす前代未聞の新たな活動を開始した。昭和63年(1988年)10月、伊原はミゲール・モレダ(米国)に3R・KO勝ちした試合がラストファイト。

昭和59年(1984年)に統合組織参加のため、新日本キック協会は休会していたが、14年の年月を経て、平成10年(1998年)に復興。キック創始者・野口修氏から興行運営を引き継いで大飛躍に挑んだ。現在は6人の日本王者を定期興行に出場させ、毎年12月、タイ・ラジャダムナンスタジアム興行も行ない、小笠原仁(伊原)に日本人史上2人目のムエタイ王座奪取させるなど、現役を退いても快挙を達成した。
数々の成功の陰で、伊原は「20歳の頃から沢村忠さんの付き人をやり、技術面から人への接し方まで教わった経験が大きかった。おかげで人との出会いを大切にし、仲間に恵まれた」と語る。その教えが今のキック界に生きた。
これを次の世代へ伝えられることがキック界発展につながるであろう。伊原信一の人生を懸けた挑戦はさらに続く。
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以上が、ナイタイスポーツ紙2002年7月頃のコラムです。

伊原氏の現役時代の試合は昭和40年代のTBS系列のキックボクシングを全国ネットで観ることができました。プログラムに写っている写真はロッキー藤丸(西尾)戦。昭和51年(1976年)頃と思います(田中有人氏撮影)。日本人対決も多く、飛馬拳二(横須賀中央)とは3勝2敗。ロッキー藤丸とも数度対戦しています。他に千葉昌要(目黒)と2戦、矢田勝士(西尾)など。500万円争奪オープントーナメントは初戦・田屋敏則(横須賀中央)、2戦目・スナイパー関(アローン)、準々決勝・千葉昌要、準決勝・金沢一夫(横須賀中央)、決勝・須田康徳(市原)を破っての優勝。昔10kg重い相手と戦ったというのもウソではなく、伊原氏に限らず、創生期から数年経ってもルールは過激で、頭突きあり、投げあり、倒れてもフリーノックダウン制で、テンカウントまで数えてKO。それでも堂々放映、スーパークラスの無い2階級違いの試合も多くありました。(頭突きは昭和51年9月から廃止)

伊原氏の現役時代の試合は荒っぽい試合が印象的ですが、計算された頭脳プレーが得意のオールラウンドプレーヤーでした。気が短いディーノ・ニューガルトには怒らせる戦法で、おとなしい須田康徳には、相手の出方を計算に入れて攻め、ポイント取ったら焦らせて逃げ切り勝利。格下には威圧的に攻め、テクニシャンにはテクニックで対抗。フットワークが速く、ハイキックが綺麗で勝利に導いた試合も多かったようです。

昭和58年(1983年)の新日本キックボクシング協会の設立に至る経緯も、当時香港で起こったキックブームによる遠征が絡む影響があって国内とのバランスがとれず、苦渋の決意だったようです。国内では一興行のみで統合団体に吸収されましたが、伊原ジム興行は定期的に行なわれ、日本キック連盟時代は「世界大戦」という興行タイトルでアメリカ、香港、タイ、韓国などの選手を呼んで興行を打っていた時期がありました。前身の日本キックボクシング協会を経て、1998年5月に新日本キックを復興し、設立当時とは違い、多くの加盟ジムを従えて、より一層大きなイベントを実現させていきました。

「新日本キックが老舗を継承している団体」という意味は度々耳にする、キック創始者・野口修氏が常々「伊原、君しかいない」という直接的な言葉にもあります。WKBAと東洋連盟代表に任命されたのも野口氏が伊原氏に夢を託した願いのひとつでした。
伊原氏がキックのジムを始める際、目指した設備がガラス張りの設計。かつての目黒ジムがガラス張りだったことからそれを目指したという。現在も中目黒に地下一階と地上一階はジム設備が整っていて地上はガラス張りになっています。

蹴撃群雄伝は主に昭和50年代後半のキック低迷期に絡む人物中心に集めたもので、テレビレギュラー放映あった隆盛期の選手には触れませんでした。伊原氏はその隆盛期の人としての括りで当初予定に入れてありませんでした。また2000年6月から36回に渡り毎週、同紙で伊原氏の「ダイアモンドは俺が獲る」というタイトルでコラムが掲載されていたことで、すでにキック人生御紹介済の人物だったという理由もありましたが、隆盛期の選手時代からプロモーター業と業界一筋の長きに渡った数々の活動と武勇伝の多さで、「締めには適任者では」という意見があったことで、蹴撃群雄伝第21回、“メインイベンター”に選ばせて頂く事になりました。

昔、伊原氏が「笑っていいとも」の前身「笑ってる場合ですよ」に出演したことがありましたね。キックを指導するコーナーで、島田紳助さんに「蹴ってみろ」と言って蹴ってきた瞬間、スネブロック。紳助氏は「スネで避けるんだもぉん!」と痛そうにうずくまっていましたが、女性タレントには反面優しくミットを蹴らせてウケていました。「オープントーナメント中量級チャンピオン」という肩書きが画面に流れていました。まだ他にも出演番組はあったと思います。
また古いこと、武勇伝、心温まる話、書ける度胸あったら触れてみたいと思います。

蹴撃群雄伝はこれで終わりです。テレビで観れなくなった時代の方々には楽しめたかと思いますが、拳論での再掲載は8年掛かってしまい申し訳ありませんでした。遠慮しないで一気にやってればよかったと思いますが、また別企画できたらやってみたいと思う、言うばかりの出不精でした。
(画像は上書き、追加致します。堀田 6.22.1:10/No.23)

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読み応えがありました。

キックに頭突きありとは知りませんでした。
投稿者: むぅ 2013/06/22[編集]

    はい、昔TBSと大沢昇などがいたNTV系のキックの選手との対抗戦がありましたが、NTV系の選手は頭突きに慣れていないので、TBS系列の選手の圧勝でしたね。伊原はリング外の新聞沙汰で社会面を賑わしたことも有ったが、パンチだけでも結構いけた。当時ボクシングの野口ジムと練習場が一緒だったので、よくボクサーとスパーをやっていたがヒケを取りませんでしたね。ただ、タバコを吸っていたのには少しがっかりしましたが・・・。おお、写真は「ライトアッパー」の石川アナ、懐かしいですね。
    投稿者: 鈴木 2013/06/22[編集]

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