この春、最後の「分子組み立て職人」が引退する。東京・荒川の町工場で、56年間にわたって分子づくりに取り組んできた作山政幸(74)さんだ。手作りでひとつひとつ分子を組み上げる技術を持った、最後の職人。顕微鏡と指先の感覚だけをたよりに、ひとつひとつ原子をつなぎ、分子を組み立ててゆく。超微細作業をやってのけるそのテクニックは、海外でも「神業」とまで呼ばれ、高く評価されている。

 作山さんが郷里・岡山の高校を卒業して、この工場に入ったのは1956年。手先の器用さを見込まれて現場に抜擢、先輩にみっちりと技術を叩き込まれた。

「あたしらの頃はね、有機化学なんて学校では習わない。全部工場での耳学問ですよ。でもね、難しい軌道論なんてわからなくたって、この分子のここにこのパーツはくっつきたがってる、なんてのがちゃあんとわかりますからね」

 高度成長期にはあちこちからの注文がひっきりなしに舞い込み、寝る間もなく働く日々が続いた。思い出深いのは、製薬企業から注文された中間体の仕事だ。

「シクロプロピル、つまり炭素が3つ輪っかになってるやつだね。ここにこうフッ素が生えている。これは有機合成ではどうしてもできない、作山さんにお願いするしかないってえんですからね。これはもう、何日も徹夜して必死に組み立てましたよ。何しろ患者さんの体内に入るもんだ、構造を間違えましたじゃ済まないですからね。最後は眠気と疲れで指先が震えて、うまいことフッ素がくっつかなかったが、必死に頑張り抜いた」

 だが、80年代後半から、徐々に作山さんへの注文は減ってゆく。有機合成化学の発達が大きな理由だ。分子は大工場で大量に作られ、出荷されていくものになっていった。そしてどうしても手作業でないとできなかった、不斉点を持つ分子、芳香環同士の結合といったかつては難しかったものさえ、次々にフラスコ内で生産が可能になってゆく。

「もうね、今やフッ素でも何でも、触媒反応で入れられちゃう時代でしょ?あたしらはかないませんよ」

 若い世代は、フラスコで分子を作る有機合成に流れ、作山さんの技術を受け継ごうとする者はいなくなった。反発の大きいN-N結合、N-O結合などを手探りでくっつけることができるのは、もう作山さん一人になってしまった。

 だが、職人として譲れない部分もある。今でいう、グリーンケミストリーの部分だ。

「あたしらの分子組み立てはね、保護基なんてまだるっこしいものは使わない。溶媒だのシリカゲルだの、そんなもののお世話にもなりませんよ。そういう意味じゃ、あたしらの技術はずっとね、今でいう”エコ”なもんだと思いますよ。まあしかし大量生産の時代には合わない。これはもう、仕方ありませんね」

 56年の仕事人生はどうだったか。

「まあね、いい時代に生まれたんだと思いますよ。きついこともあったけど、昨日まで世界になかった全く新しいものを作り、何かしら世の中の役に立つものを、世間様に提供できた。いい人生だった、と思いますよ。まあ引退しても、『ああ、この分子はどこからどう作ろうかなあ』と相変わらず夢に見ちまうとは思いますけどね」

 目に光るものを拭いながら語る作山さんの瞳は、最後の職人としてのプライドに満ちていた。一人のマエストロが、また現場を去ってゆく。



※例によって全部エイプリルフールの冗談ですので、本気にしないようお願いいたします。