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2013-05-06 06:25 | カテゴリ:歴史
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コンゴ民主共和国


今日は5月6日でゴ(5)ム(6)の日なのだそうです。
このゴムが、たいへんな事態を呼んだ。
それが以下のお話です。

「ザイール」という国名を聞いたことがある方も多いかと思います。
昭和46(1971)年にルワンダの支援を受けたコンゴの反政府勢力が打ち立てた国で、その後も内乱と戦闘が相次ぎ、平成9(1997)年5月に、再び国名が「コンゴ」になりました。
コンゴは、昨年4月にも、北キブ州で国軍を離脱した兵たちが武装蜂起して国軍と軍事衝突し、残念なことですが、いまなお様々な武装勢力が活動を活発に活動している、いわば危険地帯となっている国です。

けれども実は、15世紀の終わり頃まで、この国はコンゴ王国として、王制のもとに各部族が統一され、近隣諸国とさかんな交易も行われる、平和でたいへんに栄えた国だったのです。
それがなぜ、いまだに内乱の中にあるのか。
実はそこに植民地支配の恐ろしさがあります。

はじめにコンゴに、西洋人たちやってきたのは、1482年のことでした。
ポルトガル人がやってきたのです。
日本に西洋人がやってきたのは、1543年(1542年という説もあり)のことで、この年に鉄砲も伝来しました。
コンゴにポルトガル人がやってきたのよりも、約60年後のことです。
簡単にいえば、だいたい似たような時期に、ポルトガル人がやってきたわけです。

コンゴでは、最初にポルトガル人がやってきた2年後の1485年には、コンゴ王国とポルトガル王国との間で国交が結ばれています。
この国交条約は、双方の国が「対等な関係」にたつという内容のものでした。
ともに五分と五分のお付き合いをする。
ただし違うのは、ポルトガル宣教師によるキリスト教の布教を認めることが、条件となっていたことです。

コンゴはこれを承諾しました。
人の道を解く宗教であるし、これといって問題視することもないと思われたからです。
1491年には、ローマから宣教師も派遣されています。
そしてコンゴ国王のジンガ・クウは、自身をカトリックに改宗し、さらに自分の息子で王子のジンガ・ムペンパを、ポルトガルに留学させました。

ムペンパは、ポルトガルにいて学問を修め、1506年に父親の後を継いでコンゴ国王に即位しています。
そして彼は、積極的なコンゴの欧化政策を採りました。
さらに、多くのポルトガル人を受け入れ、コンゴの近代化に励んだのです。

と、ここまでは、悪くない話です。
ところが、そうした欧化政策と、ポルトガル人の招聘(しょうへい)のために、コンゴ国内にポルトガルの奴隷商人たちが、大量に入り込み出したのです。

奴隷商人たちは、人の売り買いをするわけですが、元手は、そこらへんで捕まえてきた黒人です。
多少の経費はかかりますが、元手はタダです。
そして奴隷は高値で売れます。
いまで言ったら、クルマを買うような感覚と考えるとわかりやすいです。
元手がタダの新車が、飛ぶように売れたのです。
ですから奴隷商人達は、またたく間にたいへんな金持ちとなりました。
そしてコンゴの国政を平然と壟断(ろうだん)しはじめたのです。

コンゴは、もともと貿易立国していた商業国でした。
それだけに、欧州経済をいち早く受け入れることができるだけの土壌も育っていたのです。

けれど、コンゴ人がコンゴで行う商売と、外国人がコンゴで行う商売は、その本質がまるで異なりました。
コンゴは歴史ある王国です。
ですからコンゴ王国の民衆も、自然の愛国心や、愛郷心が育まれていました。
しかも、身内が同じ国内にたくさんいるわけですから、当然のこととして、一定の規律は守られていたのです。

ところが、外国人であるポルトガル商人たちには、そうしたコンゴへの愛国心も愛郷心もありません。
あるのは、欲得だけです。
そして彼らは、あらゆる方法を使って自分たちの行いを正当化し、気がつくとコンゴ国内は、ポルトガル人の奴隷商人たちと、その下請けとなったコンゴ人達が、経済的政治的に多大な影響力を持つようになっていたのです。

事態を憂慮したコンゴ国王は、ポルトガル王に対し、奴隷貿易を止めるようにとの書簡を送りました。
けれど、ポルトガルは、コンゴ政府ではなく、コンゴ国内の治安維持に責任を持っているわけでもありません。
あたりまえのことですが、ポルトガルは、ポルトガルの都合で動きます。

ですから当然のように、コンゴ国王の書簡は無視されました。
そして本国政府が黙認することに自信を深めたポルトガルの奴隷商人たちは、ますますコンゴにおける奴隷貿易を盛んにし、ついにコンゴは、アフリカにおける最大の奴隷貿易の中心地となってしまったのです。

コンゴの民衆も怒りました。
当然だろうと思います。
ある日突然、家族が、子供達が白人達に追いかけ回されて網ですくわれ、拉致され、奴隷、つまりモノとして勝手に売買されてしまうのです。
それでもコンゴ人達は、敬愛する国王を信じ、事態が必ず解決し、いつか拉致された人々も国に戻れる日が来ると信じました。
そして、そんな日が来ないまま、コンゴ国王が永眠してしまったのです(毒殺されたという話もあります)。

国王が亡くなると、コンゴの民衆は、ついに暴発しました。
民衆は反乱し、暴動が相次いだのです。

ところがその頃のコンゴには、もはや民衆の暴動を鎮圧できるだけの力は残っていませんでした。
博愛主義を説くキリスト教によって、コンゴ国王の武力は否定され、コンゴ国軍は、ほとんど解体状態となっていました。
しかも適齢期の若者達は、男女を問わず奴隷狩りにあって、その多くが連れ去られています。

それでも、コンゴ国王は、なんとか暴動を鎮圧しようとしました。
国内の平和と安定は、国王としての使命だからです。

そんなところに起きたのが、1568年のジャガ族の襲来です。
これまた「やらせ」だったという話もありますが、ジャガ族という無法者集団が、コンゴ国内に攻め込み、一部の奴隷商人を襲撃し、さらにキリスト教施設を破壊したのです。

コンゴ国王は、やむなくこの鎮圧のために、同盟国であるポルトガルに、鎮圧のための軍事支援を要請しました。
すでにコンゴ王単独で武装集団を退治するだけの国力が、コンゴ王室になかったからです。

要請を受けたポルトガル軍は、またたく間に、ジャガ族を鎮圧しました。
けれど、事態はそれだけに終わりませんでした。
すでに国軍が衰退していることを知ったポルトガルは、ここにきて、コンゴ王国との関係を、対等な関係から、主従関係へと変更することを要求してきたのです。

圧倒的な軍事力を持ったポルトガルに、武力のないコンゴ王は従わざるを得ませんでした。
こうしてコンゴは、ポルトガルの従属国となったのです。

属国となっても、コンゴ王国は、細々と存続し続けました。
けれどそれは国として存続したというよりも、国王を名乗る家がコンゴ地方内に存続していた、というだけの情況というべきものでした。
国は荒れました。
ほとんど無政府状態で、武装した奴隷商人達がほしいままに闊歩し、贅沢な暮らしを満喫し、コンゴの民衆はひたすらそれにおびえながら、極貧生活を余儀なくされる状態となったのです。

こうして300年が経ちました。
この情況に変化が起きたのは、1885年のことです。
ベルリン会議の決定によって、ベルギーが、コンゴの新たな支配者となったのです。

ベルギー国王のレオポルド2世は、コンゴを「コンゴ独立国」とし、自身でコンゴの元首となり、コンゴを自由貿易の国としました。
ただし、カタチは自由貿易の独立国であっても、コンゴは、土地も人も一切合切、レオポルド2世の私有物です。

ですから、ベルギー領となったコンゴの政府は、コンゴにはありません。
コンゴ政府は、ベルギーのブリュッセルに置かれました。
レオポルド2世も、コンゴへは足を運んでいません。
コンゴへは、総督が派遣されました。

実際には私有地、私有財産にすぎないのに、カタチだけは独立国、ですから英国人達は、これを揶揄して、コンゴのことを「Congo Free State(コンゴ自由国)」と冷笑しました。
いまでも当時のコンゴのことを「コンゴ自由国」と呼ぶ学者がいますが、酷いことです。

コンゴを私物化したベルギー国王は、1830年にオランダ(ネーデルラント)から独立したばかりでした。
その親元の国であるオランダは、世界中に圧倒的な植民地を持ち、巨富を得ていました。

ですからベルギーからコンゴに派遣された総督の任務は、ベルギー初の植民地(私有地)であるコンゴから、一日もはやく経済的利益をあげることでした。
しかしこの頃には、奴隷貿易はすでに下火になっていました。
しかもコンゴ独立国建国当初はインフラ整備に経費がかかり、さらにコンゴには奴隷以外に主たる産業も産物もなかったことから、コンゴの経営はたいへんに苦しいものでした。
当初の状態は、むしろベルギー政府の持ち出しの方が大きかったのです。

ところが、その頃から事情に変化があらわれます。
英国で、1887年に、自転車用のゴムタイヤが発明されたのです。
これはたいへんな技術革新でした。
そしてその技術が自動車のタイヤにも応用されるようになったのです。

こうなると、ゴムの需要がうなぎ上りです。
そしてゴムの木は、他に産業らしい産業のないコンゴの、国中のいたるところに、自生していたのです。

コンゴにやってきていたベルギー人達は、ゴムの採取に目を付けました。
そしてコンゴ人達を使って、徹底的にゴムの採取を行ったのです。
おかげで、コンゴのゴムの生産高は、20世紀のはじめには、世界全体の生産高のほぼ10%を占めるに至りました。
ベルギーは、コンゴ産ゴムによって、経済的にたいへんに潤うことになりました。
苦労してコンゴを入手したベルギー国王が喜んだことは、いうまでもありません。

ところが、そうした生産高を上げるために、現地で何が行われていたのか。

そのために何が行われたか。
ゴムの採取を強制するために、黒人たちから女子供を人質にとり、仕事を効率よく進めるための鞭打ちでコンゴ人労働者を死に至らしめ、さらにノルマを達成できないと、その人質にとった女子供らの右手を、見せしめとして切断するという罰を与えたのです。

手を切られたコンゴ人
マーク・トウェイン「レオポルド王の独白 彼のコンゴ統治についての自己弁護」p.40
コンゴ自由国


ここまでくると、コンゴ人達も黙っていません。
中には集団で徒党を組んで反乱を組織するコンゴ人も出てきます。

こうした反乱ゲリラを鎮圧するために、白人達が何をしたかというと、周辺に住む未開の部族達を徴用し、公安軍を組織したのです。
この「少数民族を利用して現地の人々を統治する」という手法は、植民地支配では、ごく一般的に行われてきた統治手法です。

未開の蛮族達による徴用兵たちは、白人以上に恐ろしい残忍さを発揮しました。
徴用兵たちの任務は、ゴム採集のノルマの達成管理です。
その中には、未達者に対する手首斬り落しの強制執行も含まれていました。

徴用兵達の給料も、利益に基づく歩合性でした。
そのうち、蛮族たちが任務を果たしている証拠として、懲罰のために切り落とした手首の数によって昇級や賞与の額が決められるようになりました。
すると村人たちは、この取立から逃れるために、他の村人たちを大量殺人して、手首を集めてくるようになりました。
こうして手首は、それ自体が価値を帯びるようになり、一種の通貨にさえなったといいます。

コンゴが、ベルギー領コンゴとなったのは1885年のことです。
そしてコンゴが、ようやく独立を果たしたのは、昭和35(1960)年のことです。
その間、わずか75年の間に、コンゴで虐殺された人の数は、1000万〜1600万人であったといわれています。
コンゴが独立したときの人口が1400万人であったことを考えると、これは恐ろしい数です。

しかし、せっかくのコンゴの独立も、独立からわずか1週間で、内乱とベルギー軍の介入によって崩壊してしまう。
こうして始まったのが「コンゴ動乱」です。

「コンゴ動乱」は、国連が支持し、民主化を促進しようとするムルンバ大統領派と、ソ連やキューバに後押しされたコンゴ国軍が対立するという構図となりました。
さらに国内を二分しての民族紛争がこれに重なり、コンゴはこの後約5年間、動乱に継ぐ動乱の時代となったのです。
そしていまもなお、コンゴは戦場の中にあります。

今年は2013年です。
自主自存の国家だったコンゴの崩壊の引き金となったのは、1568年のジャガ族の襲来事件でした。
この事件のときに、コンゴが自前の防衛力を保持していたら、つまり強力な軍隊を自前で保持していたら、おそらくジャガ族の襲来もなかったし、ポルトガルに援軍を要請する必要もなかったし、結果としてポルトガルの従属国となることもありませんでした。
それどころか、奴隷商人たちの跋扈そのものを、自前の強力な軍隊の出動によって防ぐことができたかもしれません。

「そのとき軍隊が弱かった」
たったそれだけのことで、コンゴは国を崩落させ、それからいまにいるまで445年、いまだに内乱と戦火の中にコンゴはあります。
コンゴで、これまでに戦火や奴隷、ムチ打ちや私刑などによって、いったいどれだけの人の命が奪われたのでしょうか。

大事なことは、どんなにご立派な講釈を垂れたとしても、力なき正義は正義になれない。それどころか多くの国民の不幸を招く、ということです。
現実に日本は、どんなに立派な法的根拠、歴史的根拠を並べ立てたとしても、武力を背景にした他国による領土の占有の前に、なにもできていません。
国民を拉致されても、政府には何もできていません。

自衛隊はあります。強いです。
けれど専守防衛をうたう以上、他国は日本に対していかなる不条理を押し付けたとしても、その国が日本から攻められる可能性は皆無なのです。
いくらカツアゲしても絶対に反抗しない、それどころか「暴力だけはふるわないで」と、欲しいだけカネを出してくれるお金持ちで腰抜けのボンボンがいまの日本です。
「平和を愛する諸国民の公正と信義」と日本国憲法前文に書かれていますが、公正な国ってどこでしょう?信義ある国とは、どこの国を指すのでしょう?
日本が平和を愛し、公正と信義のある国となるためには、日本が強くなければなりません。
でなければ、日本は4百年前のコンゴになってしまう。

日本にも16世紀にポルトガル人が来日し、鉄砲などが伝えられました。
けれど日本は、鉄砲をまたたく間に国内に普及させ、秀吉の時代には、日本は全世界の鉄砲保有数の約半数を持つという、すさまじい大国となっています。

けれど、鉄砲に使う火薬の原料となる「硝石」は、日本で産出しません。
あたりまえのことですが、火薬がなければ鉄砲はただの鉄パイプです。
ですから、日本の戦国大名たちは、こぞってポルトガル人達から火薬を買いました。
代金は、火薬一樽につき、日本人の若い女性50人が相場です。(徳富蘇峰、近世日本国民史)

日本女性が奴隷に売られたのです。
日本でも、コンゴで起きたことに近いことが、現実にあったわけです。

けれど日本がコンゴのように、ポルトガルの属国とならずに済んだのは、彼らの鉄砲という兵器を駆使する戦いに学び、これを吸収して自前の鉄砲隊を組成してしまったこと、それにより、日本がポルトガルを圧倒する強力な軍事力を備えたこと、さらに秀吉が奴隷売買とキリスト教を禁じ、日本人女性が奴隷として国外流出することを阻止することができたからにほかなりません。

幕末動乱も同じです。
日本は、外国からの圧力に対し、これを学び、吸収して、その外国以上に強靭な国家を造り上げました。

なるほど幕末に日本は外国との間に不平等な条約を締結しました。
けれど明治44年に、日本は完全に外国との関係を対等なものに修復しています。
それは、幕末の志士達が夢見た坂の上の雲に到達した瞬間でした。

もし、日本が過去においてそういう努力をしてこなかったら。
もしかすると日本人もコンゴと同様に奴隷に売られ、女性たちは旦那のために手首を斬り落され、通貨は小判や銀貨、銅銭などではなく、手首が用いられるような国になっていたかもしれません。
銭形平次の投げるのが寛永通宝ではなく、紐でつないだ手首だなんて、想像もしたくありません。

大事なことは、他国に支配されるということは、いかなる場合においても、自国民の幸せには絶対にならない、ということです。
もちろん例外はあります。
それは日本がかつて統治した国々です。
どの国もすべて発展し、なかには歴史上初と言って良い平和な時代を迎えた国もありました。
けれど、日本がそうしてきたからといって、他国も同じようにするなどということは、金輪際ないし、上に述べたコンゴのように、他国の支配を受けることは、これ以上ないといって良いくらいの国民の不幸を招くのが、世界の歴史です。

日本が、独立した国家でいられたのも、いま、私たちが平和に暮らして行けるのも、私たちの父祖、祖先が、それこそたゆまぬ努力を重ねてきたからに他なりません。

ところが戦後の日本は、GHQによって憲法を与えられ、逮捕拘留してあった共産主義者たちを解放させられ、それまでの国の中心であった愛国者たちを公職追放によって放逐され、間接統治のために特権を与えられた不逞朝鮮人が日本人からいいようにカネや財産を奪い、その状態という「歪み」がいまだに、続いています。

みなさんは、コンゴが動乱を終え、ほんとうの意味での平和を取り戻すためには、何が必要だとお考えでしょうか。
おそらく、誰もが口を揃えて、「それは、コンゴの人たち自身が努力するしかない」とお答えになるものと思います。

ならば、それはそのまま日本にもあてはまるのではないでしょうか。
日本が日本を取り戻し、真の独立と自存を取り戻すためには、なにより日本人自身が目覚めなければならない。
そういうことなのではないでしょうか。

そのためには何が必要でしょうか。
左前や反日にかぶれた人たちとの対話でしょうか。
そんなものが意味を持たないのは、誰もがおわかりと思います。
なぜなら、彼らは考えを変えない。そこに利権があるからです。

そういう人たちは、日本が変ったら、逮捕される人たちです。
ほっておけばいいのです。

それよりも、中庸と思っている人、まだ目覚めていない人、反日でも在日でもない、普通の日本人に、いかに目覚めてもらうか、そのために私たちひとりひとりに何ができるかが、問題なのではないかと思います。

そして日本を取り戻そうという意見が、我が国の本当の意味での主流となったとき、日本は、またたく間に変わる。
必ず変わる。

そのために、私たち自身が、自分できることを、ほんのちょっとずつでも続けていくことではないかと思います。
1日、たった1分の誤差が、4年目のうるう年となって、1年が一日長くなります。
たった一分の積み重ねが、4年でまる一日、24時間分になるのです。

ほんのちょっと、でも続けること。
遠回りにみえて、実は日本を取り戻す一番の近道が、そこにあるように思います。

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