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【憲法と、】

第3部 沖縄の怒り<下> 「普天間移設先の命 軽視」

 日本人の母親と米兵の間に生まれたミュージシャンの宮永英一(62)は、ウチナーグチ(沖縄語)しか話せない祖母に育てられた。それだけに日本人でも米国人でもなく、沖縄人という意識が強い。

 かつて「世変(ゆがわ)い」という曲を作った。

 ヤマト(日本)の世になって名前も変わった。あげく戦の世になりがれきの山となった。

 米国の世になって通貨が変わった。ファッションも食べ物もすべて変わった。

 (中略)

 祖国はどこなんだ。

 琉球の魂を取り戻そう

 (原詞はウチナーグチ)

 昨年五月十五日の沖縄復帰四十周年式典に沖縄県ロック協会の会長として招かれた。首相の野田佳彦(当時)ら来賓が祝いの言葉を述べるのをいらだちながら聞いた。「復帰すべきは、日本へではなく、薩摩藩に併合される前の琉球へだった」

    ■

 二〇一〇年四月二十五日、読谷村(よみたんそん)運動広場は九万人(主催者発表)の県民で埋め尽くされた。米軍普天間飛行場(宜野湾市)の県内移設に反対する県民大会。熱狂の中に大学院生の親川志奈子(32)もいた。

 一九九五年九月の沖縄米兵少女暴行事件から七カ月後、日米両政府は七年以内の普天間飛行場返還に合意。中学生だった親川は「すごい」と思った。合意から十七年が過ぎたが、返還は実現していない。

 大学生のとき留学したハワイは、かつて独立王国だったのに米国が併合。米軍基地が置かれ、ハワイ語が失われた。「沖縄と同じだ」と思った。

 米政府は一九九三年、かつてハワイの主権を奪ったことを認め、謝罪した。一方、文部科学省は二〇〇七年の日本史教科書検定で、沖縄戦で日本軍による自決命令があったとする記述に修正意見を付けた。「沖縄の人が親や祖父母から聞かされたことは全部うそだったというのか」

 親川は同じ憲法の下にある本土から、沖縄が差別されていると思うようになった。今、沖縄語の復興に取り組んでいる。

    ■

 普天間返還合意から間もなく、政府の辺野古沖移設案が浮上すると、当時知事だった大田昌秀(88)は辺野古の女性たちの訪問を受けた。

 「普天間は人口密集地で事故が起きたら多くの犠牲がでるから、わたしたちのところに移すのですか。わたしたちの命は普天間の人の命より軽いのですか」。返す言葉がなかった。米軍基地を押しつけられている沖縄と本土の関係を言っているようだった。

 沖縄戦で地獄を見て、生きる希望さえ失っていた大田は、本土から密航船で運ばれてきた憲法のコピーを無我夢中で書き写した。そこには、平和主義、基本的人権の尊重、国民主権が書かれていた。

 沖縄で徐々に独立したいという機運が強まる中でも、大田は憲法に光を見いだし続ける。「沖縄県民は憲法を求め、憲法に書かれた権利のひとつひとつを勝ち取ってきた」との思いがある。今も手にした権利は十分ではなく、その営みは道半ばだ。「改憲されたら沖縄の戦後の苦労が消えてしまう」 =文中敬称略

 <米軍普天間飛行場返還問題> 1995年の沖縄米兵少女暴行事件を機に日米両政府が協議を始め、96年、移設して返還することで合意。2005年には名護市辺野古地区への移設で合意した。09年に誕生した民主党政権は県外移設を模索したが10年に断念。地元の根強い反対がある中で沖縄防衛局は今年3月、県に辺野古沿岸部の埋め立てを申請した。県はまだ結論を出していない。

  (この企画は、飯田孝幸が担当しました)

 

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