晩秋の川は水温が低く、お世辞にも気持ちのよい物ではない。それにヴァイキング船のマストが下を通過できたことから考えると、橋脚の高さは15mを超える。
ダッフルコートの前が開いていなかったら、着水の衝撃で命を落としていたかも知れなかった。そのことを考えると未だに俺はぞっとして落ち着かない気分になる。幸いにも川下からの風がコートを微妙に膨らませて、落下にわずかながらブレーキをかけた。
それでもかなりのスピードで頭まですっかり水に沈んでしまい、俺はあわててつま先を水面へ向けて曲げ川底への衝突を避けた。以前立ち読みした何かのマンガで、そういうサバイバル技術が紹介されていたのをとっさに思い出したのだ。こういう脈絡の無い知識を長期にわたって覚えていることだけは、昔から得意だったりする。
水面は河川敷の照明のおかげでほのかに明るい。濡れた冬服がまつわりついて動きにくかったが、とにかく水を蹴って水面へ向かった。
「Hann fe'll u't i'vatn」
「hja'lpa honum」
「Ef til vill heimskur」
ガヤガヤと船上から声が聞こえる。必死で手足をばたつかせて船に近づくうち、やがて俺の指が船べりに届き、同時に誰かに襟髪をがっしと掴まれ、引き上げられた。
息を切らせ半ばえづきながら、濡れた甲板に手をついて幅5mほどの船上を見回す。何かの油――多分魚類のだと思うが――が染み付いていて指先がべたついた。
彼らが話しているのは何語だろう。可能性の高いのは古ノルド語だ。現代のノルド系言語ではアイスランド語がもっともその痕跡をとどめているそうだが、さすがに音声的には相当変わっているらしい。アイスランド語の楽曲はそこそこ聴いてきたが、どうにもこの現物は聞き取れない。
他の言語はどうだろう? 彼らが本物なら遠方まで交易に行くかもしれないし、試してみるか。
少し考えて、俺は手始めにこう呼びかけた。
「シュプレッヒェン・ジー・ドイッチュ?(ドイツ語を話しますか?)」
リーダー格らしい男が間近まで来て俺の目を覗き込んでいたが、訝しげに首を捻り、ややあきらめたように後ろの仲間に何か話しかけた。
(うん、やっぱりダメか)
とあるSF小説家の作品で妙に頻出するフレーズだったが、記憶する限り一度たりとも相手に通じている描写が無かった。コミュニケーションを試みる際の失敗フラグとして追加してもいいかも知れない。
男たちの総勢は20人ほど。時折舷側越しに川岸にちらちらと目をやり、微妙に怯えているような様子が伺える。全体的に緊張が漂っていて、何か友好を示す手を打たないと、最悪、殺されてしまうのではないかと思えた。
ゆっくりと立ち上がる。船が揺れ足場がよろしくないが、慎重に、慎重に。手は指を開いてオープンハンド……いやオープンフィンガー?何も武器を持っていないことを示すため肩付近の高さに掲げて手の平を彼らのほうへ向けた。
一呼吸おいて静かに腹の前辺りに両手を下ろし、おもむろに人差し指を自分に向ける。
ライブでメンバー紹介をするときのような、最高のいい顔を作れていることを祈りながら名乗りを上げた。
「トオル。トオル・クマクラ」
「トール?」
あ、なんだか最初の子音がthに置き換わってるような気がする。男たちが顔を見合わせて「トール」「トール?」「トール!」
口々に言い合ってこちらを見ては笑っているのにはさすがに腹が立った。どうやら俺が名前負けしている、的なことを言っているのではないかと思えたのだ。トール(Thor)と言えば北欧神話の雷神の名前だ。
リーダーがなにか単音節の短い単語を発して彼らを黙らせ、こっちを向いて人差し指を自分の鼻に向け
「ホルガー・ルムアフニェ」と言ったように聞こえた。
どうやら当面、意思の疎通には苦労しそうだ。
「びぇっくしょい!」
濡れた服をそのままにしていたために体が冷えたらしく、酷いくしゃみがでた。生活廃水が遠慮なしに流れ込んでいる川でもあるし、体調を崩せば感染症のオンパレードに見舞われそうだ。
そんなことを考えていると、肩を軽くつかまれて揺さぶられた。さっきのリーダー、ホルガーよりもやや小柄な、黄色い髪の男だ。
口角を吊り上げて大げさに微笑み、自分を指差して「アルノル」と言った。そして手に持った皮袋を示すと、中からごわごわした厚手のウールでできたシャツめいたものを取り出した。俺の体とその服を交互に指差し、どうやら着替えろ、もしくは交換しろと言っているようだ。まあ助かる。
ところがダッフルコートを脱いだとたん、妙に満足げにこちらへ手を伸ばしてきた。さすがに彼の意図が交換だったとしても、このコートはおいそれと手放せない。スマホだの財布だの、貴重品がポケットに入ったままだ。……濡れてしまってるわけだが。
言葉がまるで通じていないのを盾に、俺はそのウールシャツを当然のごとく着込んでダッフルを羽織りなおし、濡れた綿シャツとキュプラ繊維のアンダーウェアを絞って水を切る。アルノルと名乗った男はあきらめた様にまた笑うと、舳先のほうへ足早に離れていった。
さてこの一幕の間、船は橋のやや上流まで風を受けて進んでいたのだが、いつしか風は止み、辺りに立ち込める霧は川面に淀んで、視界がさらに悪くなった。ホルガーが何か一声叫んで、男たちがどたどたと甲板上を動き回った。
霧にかすんで黒いシルエットになったマストが、号令とともにゆっくりと傾けられ、索具が解かれたらしく、何箇所か蛇がとぐろを巻いたようにロープ類がまとめられた。
そのあと横倒しになったマストは、帆桁と一緒に甲板上の、ちょうど物干し台のような構造物の上に固縛された。アルノルがまた近づいてきて、船の中央部に積まれた予備のオールから一本抜き出して俺に手渡す。漕ぐのを手伝え、ということらしい。
(本格的に櫂走に入るつもりだな)
だがどこへ向かおうと言うのだろうか。この時点でほぼ確信できていたが、彼らは紛れも無く「本物の」ヴァイキングだ。つまり、現代人の扮装やアトラクションの主役ではなく、何かの原因でこの21世紀の東京に現れた中世の北方人。
近世にさまざまな誤解からヴァイキングのトレードマークとなった、角つきの兜などはどこにも見当たらない。舷側に並べられた木製の大盾には、金属部分のあちこちに分厚い刃物で打ち据えられた傷がある。ほんのごく近い過去に、これらは「実際に」使われたに違いない。この川の流域をどれだけ走り回ろうと、彼らのあるべき場所へはたどり着かないのだ。
かなり突飛な状況に自ら飛び込んでしまった俺だが、この時点ではまだ踏みとどまって慣れ親しんだ21世紀の生活へ戻ることが出来るはずだった。川岸まではせいぜい100mも無い。
ところが、不意に遠くで地鳴りが聞こえた。水面に不規則な波が立ち、遠くからサイレンの音がする。耳慣れない音にヴァイキングたちは動転して腰を浮かせ、俺も周囲を見回した。どうやら春に起きた大地震の余波のようだ。桁違いのスケールの地震だっただけに、今後数年単位で余震が頻発する、とは言われていた。
足元がぐにゃりとゆがんで持ち上がるような感覚が押し寄せ、息を呑んだ瞬間。静寂が辺りを支配し、霧をすかして輝いていた川岸の灯火が視界から消えうせた。
霧はまだ周囲を覆っている。だが先ほどまで遠くから聞こえていた市街地のざわめき――自動車の通行音や人の声、普段は意識さえされずに聞き流されていたノイズが消え去っていた。逆に耳が痛いほどに感じる。
「これは……」
吸った事が無いような新鮮な空気だった。海の匂いがする。それに、先ほどまで日没後の夕闇の中にいたのに、今は霧がかかっていると言ってもなにやらほんのりと空全体が明るい。ホルガーが懐からちょうど携帯ゲーム機ほどの大きさの、水晶のような透明な塊を取り出し、空に向けてかざしてあちこちと角度を変えながら、何事かつぶやいていた。
(アレはまさか!太陽石『サン・ストーン』か?)
サガの中にしばしば言及される謎の航海道具で、長らく原始的な磁気コンパスの誇張された神秘めかした表現であろうとされてきたものだ。だが、最新の考古学的発見の結果、その実体は偏光性を有する方解石の巨大な結晶、「氷州石」と呼ばれるものだとされている。
石を通して二つに分光されたかすかな光を比較することで、雲を通しても太陽の位置を正確につかむことが出来るというものだ。実際に使われるところを見るのは貴重な体験と言えた。
アルノルはじめ主だった部下たちとひとしきり言葉を交わしたあと、満足そうに笑みを浮かべて船員たちに何事か大声で叫んだ。船全体から歓声がそれに答える。
やがて海鳥の鳴き声がこだまし始め、霧が風に吹き払われると、危険な岩礁を暗示する砕け波の奥に、黒々とした緑濃い針葉樹の森と、斧で断ち割ったような荒々しい風貌をもった灰色の岩壁が前方に姿を現した。
言葉の通じない状況でストーリーを進めるのは難しいですね。
文中にちょっと登場するヴァイキングたちの言語は、google翻訳でアイスランド語変換してでっち上げています。
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