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海に出るつもりは無かった
第13話  難破船のシグリ
「オウッタル様は、皆様と一緒に離れててください。私が行きます」
 マチルダがそう言いながら、剣を吊ったベルトと鎖鎧を外す。武具を着けてがしゃがしゃと音を立てていては、相手を一層怯えさせるだけだ、という判断だろうか。女らしい体の線が露わになり、男たちの誰かから野卑な歓声が上がった。

「静かにしろ、阿呆」
アルノルがその男を軽くどやしつける。
「男の胴間声なんぞ聞こえるとますます怯えるだろうが」

 マチルダが船倉の中に上半身をねじ込んだ。暗がりの中で胴着の短い裾から覗く、彼女の白い太腿だけが浮かび上がって見える。

「小さな娘よ、出ておいで」
(イヤ!嫌い!)
狭い船倉のさらに奥へ逃げ込もうとでもいうのか、ガタガタと何かをかき分けるひどい音がした。
「私たちは略奪者や奴隷商人ではない。心配しなくていい」
懸命に宥めるマチルダの声に、恨めしげな子供の声がかぶさる。
(かあ……さま……母様、どこ?)
かすれた涙声。

「私たちはアンスヘイムから出航してここまで来た。あなたの村はどこ?」
(……スネーフェルヴィク)

「もう泣かなくていい、村へ連れて行ってあげる。寒かったでしょう、温かいものをあげようね」
 そうマチルダがいうと、いっそう弾けたような泣き声が子供の喉からほとばしる。身をよじりながら後すざりして出てきた彼女は、10歳ばかりの女の子を抱いていた。
「火を起こして下さい、だいぶ弱ってます」


 女の子はシグリと名乗った。擦り傷の出来た手足の末端には、アザラシかセイウチのものらしい脂が塗りこまれてはいたが、それでも足には注意深く治療してやらねば指を失いかねない程度の凍傷を負っていた。
 ひどく飢えていて、出されたものは何でも物凄い勢いでむさぼり、あわててマチルダが制止しなければならなかった。服の腰の辺りは尿で汚れてひどい匂いがする。男たちの目を避けて、女二人が物陰で懸命に彼女を着替えさせ、体を拭き、乾いた毛皮で包んでやっているうちに、シグリはとろとろと眠ってしまった。


「可哀想に。一人であの船で漂流していたと見える」
 ホルガーが何か許しがたい理不尽を目撃したといった口調でぼそりとつぶやいた。従妹の身にでも引き比べて憤っているのかもしれない。シグリは疲れもあってか熟睡している。しばらくは起きそうにもない。
 それにしても、どういうわけで人為的にもやい綱の切り落とされた船で、子供がたった一人流されていたものか。彼女は船倉の暗がりで「人殺し」と叫んだ。どうやら何か、ただならぬ事が起きたのだ。

「スネーフェルヴィク、か。聞いたことあるか?」
「ああ、確かアンスヘイムからは大きなフィヨルドを三つほど通り過ぎた、南にある村だった、と思う」
男たちが焚き火を囲んでそんな話をしていた。そうすると、意外なことが分かった。
「うちの女房の、お袋の実家がある」
一斉に皆が注目を向ける。靴職人のロルフだった。

「じゃあ、場所は分かるんだな?」
ホルガーがぎろりとロルフを見つめて訊いた。
「分かる。あそこへの航路ならケントマント(水先案内人)の役だって務めてみせる」
「なら決まりだ。アンスヘイムへ戻ったら、今度はスネーフェルヴィクまで航海だ。仲間の縁者のいる村の子供を、帰さずにおくわけにもいかん」


 船はほとんど空だった。壊れた樽の破片にたまった雨水か雪解け水、わずかな平焼きパンと干し肉に、シグリが包まって寒さをしのいだ古い毛皮。積荷らしきものはそのくらいしか見つからなかった。

「少し古いが立派な船だ、どうします?捨てていくのは惜しい気がしますが」
 焚き火の向こうに黒くうずくまった漂着船を見ながら、オウッタルが言った。
「鎖蛇号で曳航しよう。スネーフェルヴィクに返せれば一番いいが、船材がだいぶ古い。竜骨だけ使い回すことになるだろうな」
ホルガーが思案げに答える。
「なるほどね、確かに」
 良い木材で出来た竜骨は貴重品で、しばしば造船のコストを減らすために再利用される。
ばらして検分しない限りはっきりしたことは分からないが、20年もった船の竜骨はまずもって申し分なかろうというのが彼らの概ね共通した見解だった。



 漂着船をロープで牽引して、船団は再び帰路をたどる。シグリは女奴隷二人になついたようで、オウッタルの川獺号に乗る事を選んだ。暖かなキャビンもあるし、子供にはそのほうが好ましかっただろう。
 彼女の手足は慎重に治療が施された。たった今も、アストリッドとマチルダが二人がかりでシグリの紫色になった小さな足を、下腹部や胸元に抱き取って暖めている。激しい痛痒さが少女を苛んでいるはずだが、シグリは唇を噛み締めて耐えていた。足ほどではないにしても、手も関節のいくつかがぱんぱんに腫れ上がっている。

「血の巡りが完全に戻らないうちにむやみに動かすと、治らなくなる。じっとして」
アストリッドがシグリに言い聞かせるのが聞こえた。こうしてみていると、戦死者にかしずくワルキューレのようにも見える。
 いやいや、縁起でもない。シグリは生きているし、村に帰ってこれからまた幸せに暮らすのだ。そうに決まっている。

 楽器がないのがもどかしかったが、俺は即興で歌を歌った。不思議とどこからともなく言葉が湧いて出た。


 俺は謂れもなく故郷を憎み 

 シフの髪を夢見て 異国とつくにを流離った

 今では腕は萎え足取りも覚束なく

 波越える馬に乗り合わせ 成り行き任せ

 故郷は煙吹く山の裾 

 草は青く水は澄んでワインの如く――


「止しやがれ、馬鹿野郎。このヘボ詩人め」
船員の一人が震え声で怒鳴った。
「酒がまずくなる」
 そういいながらも、彼の目元にはうっすらと光るものがあった。漂泊の思いは誰の胸にも隔てなく巣くうものなのだろうか。

 まあ不興を買っては続けるわけにもいかない。
「済まなかった。歌はやめよう」
だが、その時シグリが声を上げた。
「もっと歌って、おじさん。でも勇ましい歌がいい」

「勇ましい歌、ね」
 おじさん、といわれては少々鼻白むが、彼女から見れば俺はまあ、確かにおじさんだろうな。
 軽く咳払いをすると、俺はまた即興で歌った。といってもこれは、往路で語った「リョースとマウニュズのサガ」と、元ネタは同じものなのだが。


 光る鎧を身にまとい 彼は武器の嵐の只中へ歩み出る

 血の氷柱持たずに倒れれば 首吊る神の家は門を開くまい

 立ちて戦え 鴉の供応者よ奮い立て

 神と巨人の最後の戦いに

 酒よ、歌よ 魂に勇気を湧き上がらせろ――


 このケニング(代称法)というやつは、どうも詩句を冗長にしすぎるきらいがあって、俺には馴染み難い。だが北方人たちの荒っぽい、よく言えば素朴な心性には、この歌はしっくり来るものだったようだ。何人かの船員は拳を突き上げて、繰り返されるフレーズに唱和した。
 シグリは頬を紅潮させ、眼差しになにやら決然とした色を浮かべていた。故郷の村に戻るのに、なにか決意や覚悟が必要だったとでも言うように。



 アンスヘイムを出て7日目に、俺たちは村に戻った。往路で出会った吹雪は村にも少し影響を及ぼしたらしく、木道の雪掻きや壊れた板囲いの補修に立ち働いている村人が、そこかしこにいた。
 オウッタルは積荷を編成しなおして、海燕号に移乗する手はずを進めていた。スネーフェルヴィクを自分で見たいのだという。
「偶然とはいえ関わったことだ、最後まで見届けたいと思ってね」
 言い訳がましく説明するオウッタルの表情には、どこか普段の気さくで華やかな装いとはかけ離れた、ほの暗い翳りが付きまとっているようだった。

「交易はいいんですか? ヘーゼビューとか言う町へ行くのでは?」
俺がそうたずねると、オウッタルは憂鬱そうに頭を振った。
「川獺号と女傑号は先にヘーゼビューに向かわせます。どの途あの町が交易でにぎわうのはもう少し後の季節だ」
それきり黙りこんで、オウッタルは積荷の釣り合いを確認に船倉へ降りていった。




 ロルフは見たことも無いほど精気に満ち溢れて、樫材で刻んだ船首飾りのように、舳先に背筋を伸ばして立っていた。鎖蛇号は帆一杯に東風をはらみ、飛ぶような勢いで波立った水面を疾走していく。

「ロルフの奴、意外と背が高かったんだな」
「いつも縫い革の上に屈み込んで仕事をしていたから、分からなかった」

 仲間の男たちが小声で言い交わす。どちらかといえば偏屈な変わり者として認識されていた男が、今日は皆が認める知恵者を差し置いて、水先案内を買って出ているのだった。
「俺は知ってる。ロルフは仕事中の姿ほどに曲がりくねった小さな男じゃない」
アルノルがなにやら満足そうに腕を組んで、マストの下でうなずいていた。

 一日の休息を置いて牙や肉、皮の取り分を村に下ろし、鎖蛇号は速やかにスネーフェルヴィクへ向かって出航したのだった。今回は俺とヨルグもこちらに乗り込んでいる。ホルガーは船尾に腰を下ろし、傍らにシグリを座らせていた。

「シグリよ。お前があの船に乗せられたときのことを、話してくれぬか」
ホルガーが重々しくそう切り出すと、シグリがやがて辛そうに話し始めた。

「夜更けに母様が私を起こした。凄く怖い顔で、何かに怯えてるみたいだったの。残り物の平焼きパンと干し肉、それに寝床で使ってた毛皮を少し持っただけで家を出たわ」
「あの船に残っていたのがそうだな。それで?」

「風が南から吹いてた。村のあちこちで火が燃えてて羊の鳴き声がした。母様は私を、港のはずれの桟橋につないであった、古い船に乗せて言ったの。『周りが静かになるまで絶対に船倉から出てはいけないよ』って」

「どうやら分かってきた。スネーフェルヴィクは何者かの夜襲を受けたのだな」

「船のすぐ外で、何かを斧で切り落としたような音が聞こえた。そのあと、大勢の男の人の怒鳴り声と、母様の悲鳴が聞こえたと思う。私は怖くて耳を手で塞いでしまったからもうよく分からなかった。長いこと船が揺れて、寒くて怖かった。船がどこかに乗り上げたのが分かった後も、風がひどく吹いて、悲鳴みたいな音が聞こえて……なにか恐ろしいものが船の外にいるようで出られなかったの」

 そこまで話すと、シグリはその途方も無い心細さと恐怖を心によみがえらせたようで、自分の肩を抱き膝に顔をうずめてしまった。

「ヨルグ!」
ホルガーがヨルグを手招きした。
「はッ、はい」
「シグリの手を握っててやれ」
「俺が!?」
反論を許さない、といった形相で、ホルガーがヨルグをギロリと睨み付けた。
「年が近い」


「俺たちも無論、イングランドやフリースランドの無防備な村を襲うし、女子供をさらって売り飛ばしもする」
ホルガーは、シグリのそばから離れて立つと、舷側にいた俺に話しかけた。
「だが俺たちノースの民の本拠地まで、かの地の軍勢が追撃や報復に来たという話は、これまで聞いたことが無い」
フィヨルドの奥の、水深の浅い入り江にある村を襲うには、ロングシップでなければ不可能なのだ。
「とすればおそらく襲撃者は同じノースか、あるいはデーン。いずれにせよ北方人だ」



 意気揚々とケントマントを務めていたロルフだったが、スネーフェルヴィクの全景が目に入るようになると、彼の顎はだらりと垂れ下がり、目にも明らかな悲嘆の色が彼を塗りつぶした。
「なんてこった」
 アンスヘイムの三倍ほどの規模を持つ船着場には、焼き捨てられたクナルとロングシップが、食い散らかされた鮭の残骸そっくりの様子で漂っていた。

 村は文字通り、全滅していた。焼け跡に雪がかぶさり、目立ったものは何一つ残っていない。村を見たシグリが悲鳴を上げて倒れた。重苦しい沈黙が船団を支配する。気の進まぬ足取りで何人かが上陸し、村の中を捜索して回った。
 ロルフはもうすっかり気が触れたようになって、おぼろげな記憶を頼りに義母の家へと向かったが、そこでも見つかったものは燃え残った廃材だけだった。

「こんな無茶なことを、誰が――」

「心当たりがある」
手がかりを求めて焼け跡を歩き回る一行の中で、ずっと無口だったオウッタルが、不意に口を開いた。
「ノルウェーを統一すると称して、オスロの南西から征服の軍を起こした男がいる。名を『蓬髪のハラルド王』と呼ばれていた。英邁だが容赦の無い男です」
「王だと? このちっぽけなフィヨルド沿いの集落しかないような土地で」
一同がどよめいた。

「すでにいくつもの豪族が彼によって制圧され、抵抗した者は土地を没収されている。この村を襲ったのはハラルドの軍勢か、さもなくば敗れて逃亡する途中の豪族ではないかと思います」
たぶん敗残兵のほうでしょう、と付け加える。
「ハラルドの軍勢が訪れて服従を求めてきたら、手向かわないほうがいいですよ」
血の気の多い数名が怒りの声を上げたが、ホルガーが制止した。
「ここで見るべきものは見た。アンスヘイムに帰ろう。シグリは誰か引き取れる者を探すしかあるまい」

 列から離れ一人歩くオウッタルに、俺は後ろから駆け寄り、耳元でささやいた。
「オウッタル、貴方はどうなんだ? どう思ってるんだ?」
「何をです?」

「彼らのような自由農民が王に服従を強いられること、追い出された豪族が近辺を荒らすことを――」
「私は商人です。交易が平和と安定の元で行われる保障が得られるなら、王の支配も歓迎すべきことだとは思いますね」
 きっぱりと言い放つオウッタルに、俺は黙り込むしかなかった。略奪と交易が継ぎ目なしに営まれるヴァイキング活動は、決して安定した社会と経済を約束するものではないことを、21世紀人の視点で理解していたからだ。

 だが、そうやって新しい社会の枠組みを打ちたてようとする、「英傑」と呼ばれるような人間の偉業がある影に、シグリのような孤児が生まれる。それがなんともやるせない。

(いつまでもアンスヘイムのお世話になって、安閑と暮らしているわけにはいかないかもしれないな)
 俺のような柔弱な人間に何が出来るかはわからない。21世紀人の俺が何か事を起こせば、歴史におかしな影響が出るかもしれない。
 それでも、この世界で自分に出来ることを何か成し遂げなければ、結局21世紀にいるのと同じく、自分はゴミクズで終わってしまう。そんな焼け付くような焦燥感を、俺はこの時代に来て以来初めて、胃の腑のあたりに重苦しくわだかまらせていた。




 鯨の路に迷い出て凍えた娘よ

 俺もお前と同じ 風の気紛れに

 無情に弄ばれ 雪嵐にまぶた塞いだまま



 船縁で泣きじゃくり続けるシグリを、ヨルグとロルフが懸命に慰めている。オウッタルは「次はヘーゼビューで会いましょう」と言い残して船団とともに去った。

 川獺号で吟じかけていた即興歌に続ける形で、シグリの悲しみに共感をささげる、ごく個人的な歌を、俺は誰にも聞こえない小さな声で、つぶやくように口ずさんでいた。



 ――恨めしく胸のうちに繰り返す

 "海に出るつもりは ついぞ無かった"



最近なろう作者の皆さんの素晴らしい作品を拝読しておりまして、へこむ一方ですw
考えてることの半分も文章で表現できない悲しさ。この辺が限界なんでしょうかね。

さて、第2章はこれにて幕、次回からは舞台を移し、交易都市ヘーゼビューでの若干の買い物と冒険が繰り広げられます。少し投稿の間が開くかもしれませんが、気長にお待ちください。

5/15 追記
文章のおかしいところちょっと修正。帆にたっぷり風を受けて走ってるのに水面が穏やかなわけがなかったw
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