残酷な描写がありますのであらかじめご了承ください。
追記:情景描写を一部変更しました。(4月23日19:30)
日が落ちると、雪は一層激しさを増した。帆布に、索具に、次から次へと吹き付ける雪の結晶が積み重なって凍りつき、明らかに船体のバランスを損ない始めていた。
「これはいかん!帆をたたまないと転覆してしまう」
オウッタルは川獺号の船員を指揮して、自ら縮帆の作業に取り掛かった。アストリッドとマチルダの二人も、その美しい顔に厳しい表情を貼り付けて作業に加わる。クナルの乗員はロングシップよりも少ないので、こういった緊急時は分け隔てなしだ。
酔いつぶれていたヨルグもようやく、足元をふらつかせながら甲板に出てきた。目をしばたいて状況を悟ると、オウッタルに向かって叫んだ。
「オウッタルさん、鉤竿は載せてるかい?」
「ある。船倉の隅、右舷側に掛けてあるはずだ」
オールと同じくらいの長さの、棒の先に鉄のフックのついた、ちょうど江戸時代の火消しが使った鳶口のようなものが二本、備え付けてあるのだった。ヨルグが俺をうながして船首へ移動し、鉤竿の一本を俺に手渡した。
「でかい氷がぶつかったら、舵を持っていかれる。そうなったらちょっと狩どころじゃなくなる。右舷へ行きそうな大きな氷があったら、こいつで引っ掛けて左舷へ流してくれ」あんまり身を乗り出しすぎるなよ、落ちるぜ。そういい残すとヨルグは、俺が処理し損じた氷を遣り離すために、舵柄の前方に陣取った。
帆の収納が終わり、乗組員のうち8人がオールについての、よたよたした櫂走がはじまった。時折氷にオールがぶつかってリズムが乱れがちになる。ゆっくりと押し寄せる流氷をかわして進むのは、恐ろしく面倒な仕事だった。
船首で掻き分けられた海水が白く泡立つ中に、明らかな固体がきらきらと混じっているのが夜目にも分かる。少し離れた海面には、ぶつかり合って角の丸くなった、小さな氷の破片がハスの葉のように浮いている。
(パンケーキ氷ってやつだな。あれは誰のエッセイだっけ)昔読んだ日本の作家の文章を思い出す。オホーツクの海岸に流氷が到達する日時を、賭けの対象にしようと目論んだりなど、おかしな事ばかり書かれていたが、どの作品も自然描写がとにかく美しかった。
だが今この状況は美しいなどとはとても言っていられない。パンケーキ氷の中に時折混ざるひときわ大きな氷塊が、クナルの外板に衝突して恐ろしい音を立てた。ぶつかる音、他の氷と外板にはさまれてひずみ、中に含まれた気泡の空気を吐き出しながらつぶれる時のすすり泣くような音。そうこうするうちにまた、前方に大きな氷が迫る。
鉤竿で引っ掛けてささやかに向きを変え、左舷へ向けて流す。船首が反作用で少し右舷へぶれ、それを操舵手が舵柄をひねって修正する。俺が今そらした氷塊のすぐ後に続いた塊が、左に振り戻した船首をかすめて右舷へ流れた。
「ヨルグ!そっちへ一個行った、頼む!」
「ああ、しょうがねえなぁもう!」
ヨルグを振り返ったついでにはるか後方、鎖蛇号のあたりを凝視する。すると、思いのほか近くに接近してきていることが分かった。オールが多い分速度が速いのだ。向こうの船もとっくに帆をたたんでいて、船首に二人ほどが鉤竿を持って待機しているらしいのがぼんやりと見えた。
この分なら当面はぐれることはないだろう。ホルガーたちは海のプロだ。吹きさらしのロングシップの上では髭まで凍りつくだろうが、氷山に衝突でもしない限り死者を出すようなこともないはずだ。
たとえばそう、こんな氷山に――
「ってうわあああああ!」前方へ向き直った途端に巨大な氷山が視界いっぱいに広がり、俺は悲鳴を上げた。
「落ち着け、まだ遠い!」
マスト近くに立って船員を鼓舞していたオウッタルが応える。はっとして少し下のほうを見ると、確かに船数隻を連ねたほどの距離、船首から氷塊までの間に波逆巻く黒い海面が広がっていた。
ということはよほど大きいということじゃないか。
「鉤竿では回避できない、舵を!」
「オール仕舞えぇ!面舵(註1)いっぱぁーーーい!」
操舵手が舵柄をぐい、と左舷方向へ引き、舵板の先端が右舷へ向いた。川獺号はのろのろと左舷に氷山を見ながら右へ回頭していく。万が一回避がぎりぎりで船体を氷山にこすった場合、右舷に当たれば舵が失われるからだ。
ギザギザと尖った頭を水面高く持ち上げた巨竜のようなその氷の塊は、俺たちをあざ笑うように見下ろしながら船尾方向へと通り過ぎていく。崩れた雪と氷の巨大なかけらが何度か船との間の狭い海面に落ちて、雷と聞き間違えるほどの音を立てた。すぐ後に続いて激しい波と水しぶきが襲い掛かる。クナル船がぎしぎしと軋み、男たちの衣服は水をかぶっててきめんに濡れた。女奴隷二人がさすがに悲鳴を上げる。
恐ろしい経験だったが、そこが最大の危機だったらしい。その後は流氷は次第にまばらになり、パンケーキ氷が時折見られたものの、雪も次第に収まっていった。
「どうやら命拾いしたようだ」オウッタルがため息をつく。まさかこれほどの危難にあうとは予想していなかったらしい。船員たちは言葉もなく、死んだように体を二つ折りにしてオールに寄りかかって休む者、舷縁に背をもたれ足を投げ出している者と、疲労困憊の有様だった。
俺ももう腕が上がらず、ミトンに包まれてなお指の感覚がおぼつかない。鉤竿を落とさなかったのが奇跡のようだ。
「もう大丈夫だろう、進路を北へとって島へ向かうのだ」
オウッタルは船乗りたち一人一人に、手渡しで小さな杯にワインを満たしては与え、彼らの労をねぎらった。
「あの時宜を得た部下へのいたわりぶりは、なるほど賞賛に値するな」
そんなことを誰にともなくつぶやくうちにも、再びヤードが上げられ帆が広げられた。まだちらほらと粉雪が風に混じるが、それも次第に消えるだろう。
帆走を再開して二日。船団はその途中、名も知らぬ小さな小島に一度停泊し、危険な夜間の航行を避けた。鳥の足を模した爪のある、折りたたみ式の三脚鍋掛けを浜に設置して簡単なスープや粥を作る。鎖蛇号の男たちも合流して、その夜はささやかな宴になった。 ヨルグは相変わらず絡んでくるが、ともに流氷の危難を乗り越えたことでいくらかこちらを認めたらしい。
焚き火のそばの上座ではオウッタルとホルガーが並んですわり、アストリッドの手で注がれた酒をあおっていた。
「あとどのくらいだ?セイウチのいる群島まで」
「航路がだいぶ当初の予定と変わりましたが、おそらく明日の夕刻には島に上陸できるでしょう」
「営巣地を教えてもらったことになるが、今後も俺たちが狩りにきてもかまわんのか」
オウッタルはクスクスと笑いながらホルガーの当然の疑問に答えてこう言った。
「構いませんよ、私が自分で狩りに行く手間が省ける。そうですね、雄の長い牙を取っておいてくだされば高く買いましょう」
「おぬしは本当に底が知れんな」ホルガーが上機嫌で笑い、その合間に干した角杯に、アストリッドがまた蜂蜜酒を注いだ。
翌日の午後、洋上から陸地のねぐらへと向かう海鳥の群れを、目のいい船乗りが見つけた。合図が交わされ、船団はそちらへと進路を定める。
やがて、切り立った岩山3つに抱えられた形で荒波から守られた、静かな入り江と、外周部に岩浜をもつ島が近づいてきた。付近にも大小の島や岩礁が見える。石灰岩の地層があるらしく、崖の中ほどの壁面が氷雪とは違う白に輝いて見えた。貝がよく育つことだろう。セイウチにとっては、またとない餌場に違いない。
上陸した俺たちは、何人か身軽なものを中心に、セイウチの群れを探すことになった。遠目には小さく見えた島も、上陸してみればたやすく全体を見渡せないほどには広い。岩山の裾に張り付いたささやかな緑と見えたものも、間近に寄ってみれば腰の高さを超える荒々しい潅木の藪であり、斜面に沿って這うように枝を伸ばした針葉樹の大木もあった。
セイウチの営巣地としてもさることながら、ここはヴァイキングが悪天候を避ける避泊地にぴったりだと思える。……なんだか俺もすっかり彼らに染まってしまったようだ。
入り江は直径500mほどで、波打ち際まで雪と氷に覆われていた。夕刻のオレンジ色に染まった氷塊にブルーグリーンの影が落ちて、不思議な印象だ。物音を立てないよう注意しながら歩き回り、視界をさえぎる岩や段差をそっと覗き込んで獲物を探す。ねぐらへ戻る海鳥の群れが時々羽音をたてて頭上を通り過ぎた。
20mほどの距離連なって視線をふさぐ、雪をかぶった岩に手を掛けて登ろうとした、その手の間近に、新鮮な鳥の糞がべったりとこびりついていて俺をうんざりさせた。
「たまらねえなあ、畜生」
そうつぶやきながら、衣服を汚さないよう気をつけて手がかりを選び、体を岩の上に引き上げる。すると、出し抜けに視界が開け、岩の向こう側に隠れていた大きな群れが目に入った。
(おおっと!危なく声を立てるところだった)
凄い眺めだ。ざっと見ただけでも30頭はくだらない。大きな個体で4m近い巨大な塊。肥満した中年男のように転がって口元に鰭足を伸ばし、安心しきってくつろいでいる。その口元にはなるほど、象牙に見まがう大きさと白い輝きを誇る牙が、脅威を感じるほどの長さに鋭く伸びていた。
俺は一瞬、言葉を失い思考も停止していた。あまりに強烈な生命の存在感とでも言うのか、圧倒的なその質量と数に、ショックを受けたのだ。
(これを狩るのか)少しめまいがした。
気を取り直して岩からそっと降りる。近くにきていたヴァイキングに手振りで(音を立てるな)と合図をし、そばに駆け寄った。
「もしや、見つけたのか」
「ああ、見つけた。凄い群れだ、みんなに知らせなきゃ」
またしても日没が近い。迅速に行動しなくては。
船のところへ戻ると、幸いほとんどの捜索メンバーがいったん戻っていた。群れの発見を告げると低いどよめきが上がり、ホルガーの言う「長い手の男たち」が投槍の準備を始めた。
皮袋に入ったなにか青臭いどろどろの液体を、持つ手を傷つけないよう注意しながら、槍に塗りこんでいる。
「見るのは初めてか?トリカブトの毒さ」
と、いつの間にかそばに来ていたアルノルが説明してくれた。フィヨルドに迷い込んできた鯨を狩るときにも、同じものを使うという。疲れて砂浜に乗り上げるまでロングシップで追い回し、毒槍で弱らせて仕留めるのだ。
「海に逃げられては毒槍も効果が薄い。鎖蛇号を使って入り江から陸へ追い上げよう」
ホルガーが方針を決めた。
ドオン
ドオン
オールの調子をとる太鼓の音が入り江に響き、岩山に反響して返ってくる。得体の知れない外敵の侵入に、セイウチたちはたちまちパニックに陥った。算を乱して四方へ散り散りに逃げ出すが、重量のある体躯が災いして、ろくに距離を稼げていない。おまけに海から攻められたことで、彼らは上り坂に追い込まれていた。
浅瀬に対して横ざまにつけた船から、槍使いたちが飛び下りた。逃げ惑うセイウチに向かって軽く助走をつけ、見事なフォームで槍を投擲する。
ブン!、と重い風きり音を立てて槍が宙を切り、放物線を描いてセイウチの群れに降り注いだ。例のオーラブは両手に2本持っていちどきに投げていた。あとで知ったのだが、ヴァイキングにとって武器を左右に持ち替えて戦うことは優れた戦士のたしなみで、この技を用いて相手の盾のない側を攻めたり、武器を片方から片方の手にすばやく移して惑わせたりするのだそうだ。 オーラブは「長腕の」と異名をとる、やはりアンスヘイム近隣の槍投げチャンピオンだった。
身軽な子供や若い雌がかろうじて、浜を回りこんで海へ逃げたようだったが、逃げ切れなかった大きな個体を襲った運命は悲惨なものだった。厚い脂肪を貫いて毒槍が背中に突き立ち、血が噴出す。雪と氷を真っ赤に染めてのたうつ獣の巨体が、やがて毒のために動きを止めていく。
何人かはまだ動いているセイウチに走りより、斧の背で頭部を強くたたいて絶命させている。
「トールも頼む、斧はあるな?」
ホルガーに言われて、俺ものたうつ獣に近づき、斧を振るった。硬いものが皮膚の下でつぶれる鈍い感触とともに、先ほどまであれほど生命感を放射していた肉体が、不意に力なく緩んだ肉塊に変わった。槍の刺さった部位の肉は食えないので、ナイフで抉り取って捨てる。
(南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏)思わず口の中で唱える。まごうかたなき、これは殺生でござる。一次的に肉を手に入れる行為とは、こうもヘビーなのかと呆然としたが、ぼんやりしているわけにも行かない。
(もう一頭……!)
少しはなれたところでうごめく、ひときわ大きなセイウチが目に入った。斧を担いで走りよる。その途端に――
「ヴゥオロロロゥン!」
ぐったりして見えたセイウチが、激しい噴気音と一つになった咆哮を響かせ、大きく伸び上がったのだ。次の瞬間、白く長大な牙が俺に振り下ろされた。すんでのところでよけ、そのまま尻餅をついてしまう。
(げぇっ、まさかここで死ぬのか、俺は)
恐ろしく長い牙だ。群れのボスかもしれない。恐怖に凍りついたその瞬間、走りこんできたオーラブが槍をもう一本突き立てる。オーラブのほうへ首をひねったセイウチに、俺は後先考えずにインゴルフの青い斧を渾身の力でたたきつけていた。
それで力尽きたのだろう。巨獣はごろりと横ざまに雪の上に崩れた。
「大きな雄には槍が3本いることもある。慎重にな」
オーラブが低い声で物憂げに告げた。
「ありがとう、助かった」
体の震えがしばらくの間止まらなかった。
やがてすっかり日が落ちると、焚き火の明かりを頼りにセイウチの解体が進められた。牙が頭骨ごと外され、皮が剥がれて、分厚い脂肪層を乗せた肉が切り出されて油をとるために煮られていく。多くの大型狩猟動物がそうであるように、セイウチにも捨てるところはほとんどない。
切り取ったばかりのセイウチのゆで肉を勧められ、俺も少し食ってみたが、それ程うまいものではなかった。とはいえ、航海中にセイウチを狩る機会があれば、よい気晴らしと栄養補給の機会になることは間違いない。今回の狩りで得た肉は、せいぜい心がけて食うようにしないと罰当たりというものだ。
約束どおり、俺も雌の短い牙を一本もらった。これだけでも売ればかなりの資産になるということだが、俺の頭にはもう、この牙をナットに使った美しいアコースティックギターの姿が、次第に鮮明になる幻となって浮かんでいた。
(註1)面舵
この時代の船は舵輪ではなく舵柄をつかって操縦します。この場合、船首を右に向ける(面舵)操作には、舵柄を左舷方向へ動かさねばなりません。
英語だと舵輪の普及までは舵柄を操作する方向で命令していたので、面舵にあたる「starboard」という言葉は船首を逆に左へ向ける操作を指示していました。どう表記するか悩みましたが、とりあえずこの小説では、面舵=船首を右舷へ、取り舵=船首を左舷へ、と考えてください。
正直自分でも書いてて頭がこんがらかりそうでした。
さて流氷を乗り切り首尾よくセイウチの牙を手に入れた一行ですが……
帰路にとあるハプニングが起こります。
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