海に出るつもりは無かった
第八話 彼と彼女の家の事情
「トールを船に引き上げたときは、てっきりフィンの貴人だと思ったな」角杯をあおりながらアルノルが述懐した。
「フィンはまあ解るが、貴人ってのは?」おそらく彼の言うのは、フン族などのイメージを漠然と含んだ、モンゴロイド系民族一括りなのだろう。黒髪、黒目。平べったい造作。
「あの外套だ。あんな縫目も見えないような、細かい針仕事は見たことがない。おまけにその見事な染色。フランクの王でも同じような物を持ってはいまい」
「そういうことか。だがあれは俺の国ではごく普通の品なんだ。どちらかといえば安い」
ははは、量販店で一着1万5千円だったよ。羊毛70%ポリ30%の、多分中国製。色はあまり見かけないダークブルー。
アルノルが心底あきれたと言う顔で、眉の奥の灰色の目をしばたいた。
「とんでもない国だな。まあ、あそこに迷い込むのは二度とごめんだ。ヘル(冥府の女神)の領土かと思ったぜ」
「まあ、長居はしないほうが良かったろうな。いろいろと」
21世紀の東京は環境汚染や彼らの免疫系が出遭ったことのない病原菌など、リスクで一杯だ。死の国というのもあながち洒落になってない。
「そうだな、よその連中に説明するときは『ずっと東の内陸部から来たフィンの公子』って事にしといてくれ」
「図々しいなあ。俺でもそんな法螺は気が引ける」
宮廷詩人って言い出さない程度には遠慮してるんだがね。
冬も終わりに近い3月。俺は村の一角にある長館の広間で、ヴァイキングたちの宴会に参加していた。
この数ヶ月、必死でフリーダやインゴルフに食い下がって学んだおかげで、どうにかノルド語で会話が可能になった。我ながら良くぞまあと思う。覚えなければまともに暮らせないとあれば、必死ではあったのだが。
「話は違うが、あの客人どう思う?」
どうも好きになれん、と、ゆでた肉のスライスを口に放り込みながら、アルノルは俺にだけ聞こえる声でぼやいた。
「同類に対する嫌悪ってやつかね?」
そう冷やかすと、アルノルがちょっと嫌そうな表情で、また杯を口に運んだ。
一昨日から村には珍客が訪れていた。ずっと北のほうから大きなクナル船で航海してきた、オウッタルと言う名の商人だそうだ。毛皮や羽毛、アザラシ皮のロープといった品を北に住むサーミ人から仕入れ、ここからさらに海を隔てた南の半島にある大きな交易都市まで売りに出るのだという。まだ年若く、はっとする様な秀麗な顔立ちをしていた。
にこやかな笑みを絶やさない、いかにも商売人然とした人物だが、目の奥は笑っていない。アルノルが時折見せるのと同じ、相手の奥の奥まで見透かすような鋭いまなざしを、快活な声と巧みな話術、大げさで優雅な身振りで常に隠している。そんな男だとアルノルが言う。
村の主だった男は総出で宴席に連なり、給仕は見目良い若い娘が数人で、忙しくテーブルの間を縫って蜂蜜酒やエールの角杯を、あるいは肉料理の載った大皿を運んでいた。フリーダもその中にいる。
数ヶ月の間におおよそ、この村とインゴルフ一家、それにホルガーを巡る事情が飲み込めていた。
アンスヘイムの村は今から40年ほど前、インゴルフの父の代にすこし南の村から分かれて移住してきた一団が拓いた。インゴルフは2代目の族長を務めたが、3代目にあたる息子、つまりフリーダの父は族長の座を受け継ぐ前に、流行り病で命を落とした。妻も一緒に。
ヴァイキングには傷病者を隔離して自力回復あるいは衰弱死の経過に委ねるという、苛酷な慣習がある。ろくな医療技術のないこの時代、感染症から共同体を守るにはやむを得ない。結果、フリーダは両親を奪った病魔からは逃れておおせて生き残った。
(狼の牙に噛まれた俺も熱のため数日隔離された。パンと水だけ与えられて戸外のテントで毛皮をかぶり、狂犬病に怯えてガタガタ震え続けたあの心細さは忘れがたい)
インゴルフがいよいよ老齢で身体が衰えてくると、族長の座を譲れる男子としては甥のホルガーしかいなかった。
当初は族長心得、とでも言うような立場で、村の長老グループからは厳しい監督を受けたものだが、ようやくこのごろその地位を不動のものにしたらしい。
ヴァイキングたちには姓がない。ホルガーは父の名シグルズに「――の息子」という語尾をつけてシグルザルソン、と名乗る。だがそういう呼び名では、ファーストネームも父の名も同じという他人同士が幾らでも存在しかねない。そこで、村の外で大きな軍勢に加わるときなどは、個々人の武勇に由来する二つ名を名乗ることになる。
ホルガーの二つ名は「膝砕き」だ。初対面のときには聞き違えていたが、「リューファフニェ」とでも発音する感じか。シリンゲシェアルの沖合いを航行中に遭遇した、こちらより優勢な海賊との戦いで、頭目の膝を斧で縦に真っ二つに割って勝利を飾った、というのが謂れであるそうだ。シリンゲシェアルと言うのがどこだか、俺にはさっぱりわからないが。
彼の家のほうはといえば父親が掠奪行の最中に戦死してしまい、母親が家政万端を取り仕切っている。フリーダには伯母に当たるこの女性が、行き届かないインゴルフを補佐して、料理や機織など女のする仕事全般を教えたという。
「私が誰かに嫁ぐときは」と、フリーダは若い娘らしくうっとりとした表情で語るのだ。
「伯母様の介添えで、母様の形見の亜麻のケープを着て――それはもう、とても素晴らしい織物なの、そして、お爺様の作った鞘に入った剣を、花婿に贈るのよ。……ねえトール、聞いてる?」
「……ああ、素敵だろうね」
まったく、今も昔も女の子が結婚のことを夢見るのは変わらないと見える。
「ひどい、手抜き!心こもってない!ケニング(註1)教えたじゃない。そういうときこそ使ってよ!」
えー。あんな難しい修辞法を、ノルド語習い始めて半年以下のひよっこに要求しないでいただきたい。まあやってみるけど採点はお手柔らかに。
「ん……じゃあ
これに過ぎたる幸い、世になからん
樫の長の枝より落ちし 竜の褥に輝く林檎を
館の乙女と成し 迎え抱くは誰ぞ
戦の葱は 傷つける枝の臥所に収まり――」
「ひぎぃッ」
顔を真っ赤にしたフリーダが非人間的な悲鳴を上げて、俺の前からすっ飛んで逃げ出したのはいつのことだったか。なんか卑猥な意味になる言葉でもあったのだろう。
まあとにかく、苛酷な時代の常として多くの欠員を出した一族の、数少ない生存者。その中でも年若いホルガーやフリーダは、ことさらに婚姻について真剣に考えている。特に、フリーダには「誇るに足る」持参金を用意してやらねばならないと、ホルガーは一心に思いつめていた。
俺が連れてこられたとき、フリーダはホルガーが奴隷を手に入れてきた、と思ったらしい。遠出の出来なくなったインゴルフに代わって家事や羊の番をするのが辛く、寝てもさめても奴隷が欲しい奴隷が欲しい、と念じていたそうだ。道理でホルガーに向かって不機嫌そうにしていたわけだ。
「あの男は旅の途中で拾った、奴隷ではない」と説明するのにホルガーは必死だったらしい。
結局のところ、俺は今ホルガーの客分であり同時にインゴルフの家臣もしくは奉公人という、いささか微妙な立場に置かれている。粗略には扱われないし、ホルガーの船のメンバーとも対等な立場で話してよいが、インゴルフとフリーダに対しては従属する。タダで飯は食えないのである。そういえば、俺が狼と戦う羽目になったあのときは、ちょうど長く飼っていた牧羊犬が老衰で死んでしまい、近隣の村に譲渡の依頼を出していたタイミングだったのだそうだ。俺は犬代わりを務めたわけである。
実は今、その請われてやってきた犬様が俺の足元にいる。スピッツっぽい体型の賢そうな犬で、喉の辺りに白い毛があるのを除くとだいたいチョコレート色をした、ようやく子犬の時期を過ぎた位の若いオスだった。春になったらこいつの訓練がてら、冬の間に生まれた子羊で膨れ上がった群れを、主に俺が放牧に出すことになるのだろう。
投げてやった羊の腿の骨を嬉しそうにかじっているが、牧羊犬に羊食わせて大丈夫なのかという、迂闊に回りに訊けない疑問を、俺はエールの杯を干してこっそり胃の腑に納めた。
「――で、いかがでしょう、族長ホルガー。腕の立つ者を、強くしなやかな狼の関節(手首)を持った、風切る毒蛇(投げ槍)の使い手を、何人か借りられれば幸いなのですが」
主賓の商人オウッタルが、ホルガーに人員の貸与を求めて掛け合っていた。
「何日くらいかけるのか知らんが、あまり長くなれば村から出す補給物資の負担も大きいし、流氷も動き出して危険だ。気が進まんが――」いったん言葉を切って、ホルガーが広間を見渡した。
「船一隻分の帆布を謝礼にと言われれば、断るのは愚かというものだ。そうだな、お前たち!」
ホルガーの渋面をよそに、宴席に集まった戦士たちから、どっと歓声が上がった。
(註1)ケニング
ノルド語の特徴的な修辞法で、一般的な名詞に代わって用いられる迂言法。「代称法」ともいう。主に古ノルド語やアイスランド語の詩に用いられた。神話にちなんだものや連想から来るものなどの比喩表現、言い換えによって婉曲さや奥ゆかしさが表現される。一歩間違えると中二病。
トオルが使っているケニングもどきは一部正しいものもありますが、作者が適当にでっち上げたものもあります。剣と鞘は婚姻関係における男女を象徴するものなので(お互いに剣を贈りあったりする)、シチュエーションしだいではかなり恥ずかしいかも。
資料のリサーチが出来て構想がまとまったので、早速投稿です。
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