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ああああああああああああああああああああああああああ
作者:.
ああああああああああああああああ
 高校二年生の冬、通学電車の中で俺は、同じ学年の女子のヤマグチさんに対して、幾度とスカートを軽くまくりあげては彼女の尻を揉んでいる。こういうことを痴漢、と言うのだろう。
 俺は猿のように性にガツガツして盛ってるわけじゃないし、彼女に好意を持っているわけでもない。
 ある日、ドア側に佇み釣革を握って背中を見せる彼女に、嗜虐的ないたずら心が芽生え――成り行き、だった。
 ブレザーの上から指で卑猥な言葉をなぞったり、肩を小突いて彼女が振り向いたところを、突き上げた人差し指で頬を突いたり、最初はそういう優しい、いやがらせだったのが、いつしか犯罪にエスカレートしていた。
 猫が電車に乗り込んで座席の上であくびをしていても誰も追い出さないだろう、朝のラッシュを少しでも過ぎてしまえば、ガラガラな車両にそんな平和的な空間が出来上がる。
 九時の本調子の太陽に横から透かされ、影になったドアの前で、ありふれたコンディショナーの匂いを嗅ぎながら、掌でじわじわと精査していくのは、そそった。
 同級生だというのに、悠然として大人びた印象を持ち、家に帰れば良き姉として弟に振舞っていそうな彼女に対して軽く劣等感を抱いていたのかもしれない。超えられない姉。自分に兄弟なんていないのに、たまにもし居たら、と考えてしまう。
 彼女はどんなにひどいことをしても怒らないし、声も上げない。「やめて」と一言、言えばいいのに、そうすれば潔く辞めるのだが。
 思えば、周知の事実とされているある一点を除いて、彼女の個人的なことについてはなに一つとして知らなかった。声を交わしたこともなければ、同じ教室ではないので、影の薄そうな彼女の情報は入ってこない。
 痴漢をし始めてから多少、彼女に興味を持ったが、もたらされる情報はすでに知っていることだった。
 それは彼女が目の見えない、メクラだということ。
 彼女は、オレを知っているのだろうか? オレの名前を、顔を、声を。
 もしもわっぱに繋がれて、警察の御用になっても誓って言えるのは、目が見えないことをいいことに彼女を痴漢していた、というわけでは決してない。
 ただ、障害者をいたぶることに愉しみがないかと言えば、嘘になる。

 ピザ食わね? と友人の秋月は突然家に上がり込み、
           何も知らない俺はありがたくそのピザをご馳走になって、
   それから秋月は退学処分になり、俺は無期限の停学を食らった。
 世の中は無理解で成り立っている、ときに俺はそう思う。
 秋月は学校に無断で宅配ピザ屋のアルバイトを始め、原付の免許を取得して乗り回し(これも無断)、雪がちらつくクリスマスの真夜中にピザL三枚と二十万円の売上が入った財布を持って逃走を図った。店長は「そんなに大金を持って、落としたらどうするんだ。金庫に保管しないか」と勧めたが、秋月は拒否した。面倒なことを厭うぐらいに仕事に頑張っているのだろう、そう店長は秋月を気遣った。
 その気遣いとは裏腹に、あいつはその時すでに逃走を決めていたのだろう。
 そして、あいつと一番仲の良かった俺に、ピザのおすそわけと共に最後の挨拶をしに来た次第だった。
「こんな遅い時間になんだよ」
「さっきバイトが終わってさ、ピザ持ってきたんだよ」
 秋月はサンタクロースのポップな衣装に身を包んでいたが、浅黒い手と顔は、まるでクリスマスに馴染んでいなかった。
「本当かよ。食わせろよ」 
 何も知らずただピザが食べられるとうきうきしていた自分が、秋月のやったことのすべてを知ったのは、冬休みを終え登校日になってからだった。
 校門の前では学生服に身を包んだ黒々とした集団を、動物の雄雌を見分けるような目付きで教師が等間隔に並んでいた。
「気合入ってるな」
「エスピーじゃないんだからさ」
 周りからどっと笑いが漏れる。
 はだけた学生服のボタンを締め直すやつ、逆に腰パンをもっとひどくさせて教師に向かっていくやつ、校門に近づくにつれ周囲は慌ただしく衣服や頭髪を整え出した。
 俺も形だけ服装を改めた。
「おい、そこのお前」
 青いジャージの体育教師が大声を張り上げながら、荒々しい剣幕で俺に向かってきた。
「なんスか」
「なんですか、じゃねーぞ!」
 恐喝のような一歩も前に進まないやりとりを二三度続けていると、学生は俺を遠巻きにしながらささめき合い、校門にいた教師陣はいつの間にか俺を囲っていた。
「まあここじゃなんだから、ね。サッカ君」
 一度も口を交わしたことのない教頭が俺の名前を呼び、両肩にぽんと手を押さえて教室とは反対側の、職員室の方へと導かれた。
 物々しい雰囲気にただ事ではないと思ったが、予想以上だった。
 職員室で、何人もの教師と持ち回りで事情聴取が行われ、何度も「あいつと一緒にピザを食べただけなんです」というこれ以上ないバカな弁明を終始余儀なくされたが、誰も信じてはくれない。
「隠してもいいことは一つもないんだぞ」
「あいつのやったことは許されない、犯罪なんだからな」
 大人を納得させる言葉はなに一つとして浮かんでこなかった。職員室の窓からは始業式を終えて教室を出て行く学生が見えていた。
 上手い言葉も言えず、長い時間、ただひたすら一貫して同じことを言い続けていると、
「もしそうなら、今回のことは『事故』だと思って諦めたほうがいい」
 教師はそういなした。
 その『事故』によって、両親は学校に呼び出され校長に謝罪し、俺には無期限の停学処分というお沙汰が下った。

 学校、家、友達。
 三ヶ月前、その全てに対してそっぽをむかれ、拒絶された。
 最初のふたつは別にこちらから迎え入れるつもりもなかったが、どんなに大悪人になろうと、秋月が目の前から居なくなるのは辛かった。
 あいつは俺に似ている。
 自分の体の中にある赤々とした血が暴力に飢え、滾っていることを知っている。そして、それからは目を逸らせない。
 生まれつき、暴力性向という負の性質を持った人間なのだ。
 いつも何かにイライラするし、それを抑えるのに必死に神経を集中させている。
 秋月が居なくなり学校へ行く理由はさしてなかったが、自分が本物の不良というわけでもなく、進学校でも底辺校でもない、没個性な集団のひとりに所属している時点で、それに縋るしかなかった。
 ただ、自棄だった。
 勉強や運動ができるわけじゃない、かといって何の才能もない自分をとっとと退学処分にしろ。
 無期限の停学処分が決まってからも、家で神妙に謹慎するわけではなく、学校へ向かう。
 通学時間をずらしていつもなら遅刻となってしまう一限の時間に間に合うよう電車に乗る。反乱分子は他の生徒を教化してはならない、と教師がよくわからないことを言っていたからだ。
 一日ならず、毎日同じ電車に乗り合わせるヤマグチさんに興味を持ったのはその頃だった。
 薄皮一枚で秘部を守り続けるパンツと、若く湿った地肌がグロッキー状態の俺に勇気を与えてくれる。
 電車を降りてから学校へ向かう通学路の途上、俺は残り香を手の平で嗅ぎながら目の前を行く彼女の背中を目で追い続ける。

 春が再生の季節だと実感できたのは、桜のつぼみが咲ほころび、やがて散りかけて、担任の教師から一枚の書類を受け取ってからだった。
「もう面倒事は起こすなよ。次はないぞ」
 頭を軽く下げ、職員室を辞する。
 ひやり、とした耳鳴りが起きそうなほど静けさに満ちた廊下をゆったり歩いていく。春休みの校舎には時折、運動部の元気な掛け声が入り込んでくるぐらいだ。
 書類をくしゃくしゃにして、差し掛かった便所のゴミ箱に投げ込んだ。
 内容は一度読んだだけで十分だった。
『サッカ ヨシユキの無期限停学を本日付で解除する』
 だいたいそういう内容だった。
 明日には学年の変わる春休み最後の日に、謹慎の終わりを告げるとはなんて心が篤い学校なんだろう。
 他の学生とは接触できないように別教室に隔離され、その時間は授業のない教師に監視されながら自習をし、毎日反省文を書かされる。
 そして、奉仕作業。
 この謹慎がもし意味を成さなかったらと考えては生殺しの毎日に震えていた。
 退学処分になっていたら……、教師のひとりやふたり、ヤっていただろう。
 停学が終わったからといって溜飲が下ったわけじゃない。学校は俺をツーアウトまで追い込んで「次はないぞ」と警告するが、果たしてどうかな。
 舐めて貰っちゃ困る。
「あ、サッカくん。……どうだったの?」
 校舎の曲がり角でばったり同じクラスの生野に出会った。
 両手に軍手を嵌めて、いつもは下ろしている髪を、ヘアピンで後髪を結んでいた。右手にはザルを持っている。
 これから俺と生野は校内の草むしりに出るが、別に生野は罰を受けているというわけではなかった。
「来年から三年。学校は退学にならずに済んだ。そんなこと別にどうだっていいけど」
「よ、よかったー」
 口に手を当て、気持ちがいいぐらいに顔を綻ばせて喜ぶ。整った顔の美人というよりは、少女のように丸々としたパーツを持った可愛げのある女子だった。
 思い返せばこの三学期、学校で一番会話を交わしたのはこの生野かもしれない。これは自分でも意外だった。
「どうせ内申点目当てにボランティアしてるだけなんだろ? それとも落ちこぼれの面倒を見る優しいワタシを見てって感じにしかオモエネー」
「そんなことないよ」
「じゃあ哀れなワタシだ」
「もう!」
 小さな体に、小さな肩を怒らせて前を行き始めた生野の顔は、それでも笑っていた。
 無理をしすぎな善の結晶、生野女史。その姿を見ていて痛々しく、ほろ苦い。
 二年の秋の生徒会選挙で、前生徒会長の応援演説というお膳立てがあったのにも関わらずわなわな震えて、頭の中からなに一つ正確な文脈を探り出して声に出すこともできずにいた生野は結局、両手で顔を抑えておろおろ泣き出した。
 見かねた教師が壇上から彼女を引き下ろして退場になったが、生正直な演説よりも聴く者の心を揺さぶられ、しばらくの間選挙どころではなく、どこか浮わついた空気が体育館を流れていた。
 生野ちゃん、嘔吐してたね。いや失禁してた、って――
 馬鹿な男子達の噂は、毎夜、人工衛星のように天を突いて打ち上げられ、生野には交わることなく静止軌道上を滑っていった。
 生徒会選挙に落選し、不信の目に晒された彼女は専門委員会にも所属できず、今はどこかの委員の末席にかろうじて、在籍しているらしい。
 結局、どれだけ慈愛に満ち溢れて優しかろうと、人の信を集めて、まとめ切ることはできない。
「西田先生、おはようございます」
 中庭の松の木立の影で腰を下ろして背中を向けている生臭坊主に生野は声をかけた。
「おおう、おはよ、よーきたなあ」
 立ち上がっても俺の胸あたりに頭が来る小男が、無期限停学中ずっと奉仕作業に付き添っていた。
 西田は、教師でいて、坊さんだ。平日はスーツ姿で、休日は原付に乗りながら法衣。世間では聖職だと見なされるこの二つを二重に受け持っているのは、貪欲でずるいんじゃないだろうか。
 そして今は、短く刈り上げた頭に麦わら帽子を被り、タオルを肩に掛けている。
 こいつは農家でもやっていけそうだ。
「そうかそうか、退学にならんでよかったなー」
「やっぱり、そうですよね」
「それで、先生なにしてんだよ」
 話の矛先を元に戻した。長々と自分の話をされては、ぞっとしない。
「芝の目砂を入れてるんだよ」
 さらさらと白い粒を掌から地面に落として、これが芝を元気にするんだと言った。
 中庭にある堆く積まれている土嚢を指差し、今日はあの目砂を全部撒き終わらせようと言い、当然のことのように生野は作業に入り始めた。
 それを見て、俺は軽く舌打ちした。
「おいおい、ちょっと待てよ。まともにやっていたら日が暮れるだろうが」
「みんなでやれば早いよ」
 屈託のない笑みを浮かべて生野が口を挟んだが、無視して西田を睨んだ。
「用務員にでもやらせればいいじゃねえか」
「あん人達はグラウンドのほーで忙しいから、おれらに任せられた」
 そんな勝手知るかよ。捨て台詞を吐いてから、二人に背を向けた。
「ええんかー?」
 呼び止める西田の声がしたが、馬鹿馬鹿しくて足さえ止めることなく中庭を後にしようとする。
 今日という一日を終わらせればこれっきり無償の奉仕をしなくてもよいのだから、我慢して言う通りにしていたほうが後のことを考えると楽だった。
 だが、しばしば不意に自分の怒りはゆうに沸点を超えることがあった。
 寝不足だったり、お腹が減っていたり、何かに不満を持っていたり、そういう単純なことですぐに身を崩してしまうのだ。
 今回もなぜ自分が使役させられているのか、自分の犯した罪から逆算して、いいように遣われていることに納得がいかなかった。
 精神的に幼いのだろうか。だが、その謗りを受けても、怒りに任せて暴力を振るうような真似は絶対にしないと肝に銘じていた。
 そういう時が来たら、逃げる。
 逃走してしまえば、自由になれる気がした。大きな羽を手に入れてどこまでも飛び立てる気がしたし、羽を持たない人間を地を這うことでしか生きられない人間だと嘲ることが出来た。
 問題に直面したとき、逃げるか、暴力を奮うか、その二つしか選択肢は無かった。
 俺にとって、暴力は、もっと実際的な解決方法の一つだった。
 だから、腫れ物のように扱われてきたのだろう。
 ええんか――?
 新緑を纏った並木のさざめきの中から、西田の声が、もう一度聞こえた気がした。
 その言葉には、いまにも引き千切ることのできそうなほどに脆弱だが、こちら側へなんとか留めようとする一本の短い糸が括りつけられていた。
 きっとそれを跳ね除ければ、退学はないにせよ、もう二度と”人間”でいられなくなるような、そんな、予感がした。
 坊主の言葉だからだろうか。
 いや、お為ごかしだ。
 もしも檀家を辞める、と言われれば、たいていの坊主は死に物狂いで引き留めにかかるだろう。そして、今までいた場所がまるで素晴らしい場所のように語られる。まやかしだ。
 校門から一歩外へ踏み出すと、体がすっと軽くなるのを感じた。
 閑静な住宅街が目の前に広がり、散歩やジョギングに勤しむ人の姿が見られれば、普段の日常がそこにはあった。生野や西田が中庭で目砂を入れている現実が、まるで元々存在しなかったような気さえする。
「サッカ君?……どこいくの?」
 二歩目が、重かった。
 いつの間にか、生野に学生服の袖を引っ張られていた。
「そっとしておいてくれよ」
 無垢な細い指を強引に振り払おうとした時、生野は言った。
「逃げたところに極楽浄土なんてないぞ」
 は?――
 って、先生が。
 生野は、言下にそう付け加えた。
「秋月のことは、残念に思っとるよ。でも、おまえは秋月じゃないだろお」
 いやいやしながら作業に参加し、しばらく三人は奇妙な沈黙を守っていたが、それを破って西田が口を開いたのは、説教めいたことだった。
「センセイには、俺達の何が分かるんですか?」
 無視してやろうと思ったが、いい機会だと質問で返してみた。
 誰だって、何かの理解者になりたいのだ。そりゃ物分りのよい態度を取っていれば、人あたりが良く包容力があると、そいつの心がデブだという欠点を世の中は誉めそやしてくれるからだ。
 もしくは理解した気にならなければ、俺や秋月が真顔でいきなりナイフを突き立ててくるような異形に思え怖くて怖くて仕方なくて、あらぬ病理や心理学を持ち出し、自分の理解の範疇になんとか納め、自分の現実を安定させたいのだろう。
 坊さんなら、尚更、極楽浄土があるとされるお花畑の世界線で、杓子定規に話を合わせてくるに決まってる。
 無理解に苦しめられてきた俺達は、そういう輩が嫌いだった。
「よお分からん。分かりたくもない」
 帰ってきた言葉が意外だったので、作業の手を止めて西田の顔をまじまじと眺めてしまった。
 薄く毛の乗った金柑頭に、太陽――いわゆる後光が照らされ、ガマガエルのような顔についた目は糸も通さぬほど細められているのに、神々しさはまるで感じられない。
「知るっていうのは辛いことばっかりだよ。知ることを求めれば、我勝ちに知ろうとして、どんどん泥沼に嵌って行く。知ってしまえば、そこから目を逸らすことはできない。その点おまえは、知りすぎている」
 頭に被った麦わら帽と肩にかけたタオルが生活の疲れを感じさせるのに、口から紡がれる言葉は説法で、失笑しか出なかった。
「知りすぎている?――俺は勉強も、世の中のことも、何もかもまだ十分には理解してないですケド」
 ここはあえて謙遜する。
「『人の己を知らざるを患えず、人を知らざるを患う』。それとも、おまえの場合は『知らざるを知らずと為す是知るなり』か? どちらも、孔子のコトバだが」
 ここで他人のコトバを借りて捲し立てるのは、ふんぞり返った大人がよく使う――逃げの常套手段じゃないか。
「はぐらかされて、よくわかんないっすね」
「つまり、あー、おまえは、物事を上手く判断できる理解力がある余りに却って、他人に同じだけの理解を求めてないか?」
 その言葉は心へジャブした。
 的確に心境を言い当てられて、俺は地面に目を落としてしまった。
「求めてないです。むしろ、諦めています。それでもたまに世間は俺に向けて無知蒙昧なのに、いかに理解があるか誇ってくるのがムカつくだけです」
「ほう」
「難しい話してますねー」
 さっきまで遠く離れて砂を撒いていた生野が手を休め、会話に割って入った。木漏れ日を受けて顔に斑点を浮かばせながら、目を細めて笑っている。
 太陽が眩しいのだろうか、一応女子だもんな、西田の被ってるそのダサい麦わら帽でいいから、生野に貸せばいいのに。
「難しくない、ない。『ジョ』じゃ、ええじゃ、『ジョ』だ。これさえおまえにあれば、あとはなにもいらない」
「ジョ?」
 女の口に心、それが恕。
 木の枝で湿った土を穿って書き示した。
「他人を受け容れ、認め、許し、その気持ちを思いやる。自分のことと同じように人のことを考える。そういうこと」
 受け入れる? 認める? 自分にとって、水と油のようにその考えには染まることができなかった。
 誰しもが許し合えていないから今この現実が構成されてあり、誰しもが力によって支配しつつされつつしているのに、それを認めらず上手い具合に目を逸らしている。
 交通標語のように「やろう」というだけで結局、達成日時未定の甘言なのだ。
「それはサッカくんに大事だね」
 渇いた笑いを立てて生野はおっとりと言った。
「うるせえよ」
 静かに見守っていた西田が口を開いた。
「とりあえず、サッカ。おまえ、新学期になったらオレの授業を選択せい」
「は? なんで」
 二年と三年の時に、文系クラスは、少人数でする公民科目の授業の選択ができた。
「ここだけの話なんだがな、おまえの行動を逐一職員会議で報告するために、おれが監視役になったんだーよ」
「センセイそれ言っていいのかよ。そんなこと言われても俺は気にしないけどさ」
「とんだ問題児だなあ。こっちも勝手にするけどな」
 先生の授業は倫理でしたよね、生野が言った。
 倫理か――、テストの成績は学年全体の中間層を走り、受験には大した興味がなかったし、文系の公民科目の中では一番楽で、易いとされる教科を受けるのに不満はなかった。
 だが、数学や物理と違って答えのないものに命懸けで答えをみつけようとする、哲学や宗教の凝り固まった解釈には吐き気のする思いだった。
 文系になったのはただ授業が楽だったから。
 静かな校舎にチャイムが鳴った。西田は腕時計を眺め、「ちょっとやっててなー」と言うと、麦わら帽と軍手とタオルを投げ出して、校舎へ飛んで入った。

 西田が去り二人が取り残されたから、心なしではなく、この場に蓄積していた頑強な意思と老いの臭いが散って、若く自由な瑞々しさが復活した。
「生野ってさ、」
 話しかけられ生野は、綾ちゃんでいいよ、と話を切ったが、俺は強引に話を通した。
「それで生野は、選択授業なんにすんの?」
 渇いた笑い、上下しない、一定のハのリズムの笑いを立てた後、「私も倫理にするよ」と言った。
「は、なんで? 生野はそれなりに頭もいいし、倫理なんて取ってもセンターや二次で、受験科目と合わないかもしれねーじゃん」
「二年のときに政治経済を終わらせたから、大丈夫だよ。それよりも、西田先生から大事なことを教われると思うよ」
 勉強熱心なことだ。しかし、あの坊主に何を教えてもらえるというのだろう。
 高校の授業は、どんなに素晴らしい功績をその偉人は残したかを歴史の時間に語ったところで、受験というシステムに取り込まれている以上、どこか気持ちの籠らない作業のように感じてしまう。
 使命感に溢れた教師に出会ったことがないからだろうか。
 そもそも、学校には何一つとして期待をしていないし、教えられることもないはずだ。
 ふと、西田が投げ出して地面に落ちていた麦わら帽を見出して、それを生野に差し出した。
「さっきから眩しいんだろ? これでも被れば」
 生野は両手でつばを抑え、また別の眩しさの笑みを持って、心から嬉しそうだった。
 そこには渇いた笑い声がなく、安心した。
「じゃあ先生いなくなったから、俺帰るわ」
「えっ!」

「おい、犯罪者」

 俺に虐められている奴。過去に俺を虐め、今では冷戦状態になっている奴。もしくは勝手に俺を逆恨みしている奴。
 クラス中のどこに顔を持って行っても、そのどれかに行き当たるのだから、どうしようもない。
 ああ、つまらない。つまらない関係性がすでに出来上がっている。
 頭が良ければ。北海道や九州とはいわず、特待生の待遇で他県の進学校に行けばいい。
 体力、正義感があれば。自衛隊にでも入って俸給を貰いながら体を鍛えればいい。
 お金があれば。海外のスクールにでも行けばいい。

 だが、そのいずれにしても、親あっての子供のうちは、他の子供と不完全な関係を結ばなければならない。
 不完全だからこそどこに居ても、いじめは絶対に起こる。自分が所属している、平和な、どんぐりだらけのエセ進学校の中でも。
 そこからは絶対に逃げれられず、もし逃げたのなら、悪い大人に騙され、傷つけられ、運が悪ければ命を落とすことになるかもしれない。少年十字軍よりもっと悲惨な運命が待ち構えているのは足りない頭でも気づいていた。
 カラスヤイルカ、クマだっていじめはする。哺乳類なら、どんな生き物でもいじめは起こるのだ。いじめを無くす――動物が動物の本能を解消しようとすること自体、傲慢ではないだろうか。
 一七○センチをやっと掠める俺の背筋に乗ったただ重いだけの西瓜の中では、いつも神経がショートしたようにヒリヒリして、理由もないのに何かを焦っている。
 そういう時に必ずくだらない奴らが、くすくすと薄っぺらな笑みを浮かべて挑発的な態度を俺に向けてくる。
「お前、俺に喧嘩売ってんの?」
「事実だろ。いいじゃん、停学だけで済んでさあ」
 話しかけてきたのはこの学校の弱小バスケットボール部の副主将で、線が細く、体に骨が浮かび上がって案山子のようにふらふらで羸痩のような体つきくせに、背の高さに相まって態度も大きい。
 その後ろにこいつの仲間が何人かで俺を面白そうに観察していた。
 注意・停学・退学、いわゆるツーストライクに追い込まれる前のオレなら、今の言葉に痛み入っていた。
 こいつは俺が手出しできないと思っているのだろう。すぐに手を出すことも出来たが、今はそんなつまらないことよりも机の上にあるものが、疑問と好奇心をくすぐった。
 手元には点鼻薬のようなものが、ある。
 昨日の奉仕作業の合間に、生野が落としたものだった。生野が鼻炎だとは聞いたことがない。
 生野が次の授業の準備で西田から呼び出され教室から出払っているうちに、この点鼻薬を返そうと思っていたのだが、邪魔が入った。
 ラベルから商品説明まで全てが英語でプリントされ、何に使用するものか読み取れない。
「おい無視かよ、人の話きけよー。秋月はどこに居るんだよ、お前唯一の親友なんだろ? 知ってるよな、言えよ。 それなんだよ。お前鼻炎なのか?」
 俺は歯を剥いて笑顔を作って、答えた。
「吸うか?」
 大男も侮蔑の眼を湛え頬を緩ませてから、後ろを振り返って仲間と爆笑した。
「吸うわけないだろ」
「ビビりだな」
 俺の言葉に大男は顔を歪ませる。
 ここまで全て反吐が出るほど予定調和だった。
 俺はこの男の煽りに屈せず、平常心で居られている。それは、誰がどういう立場で行動しているか理解できるからだ。
 ここに暴力は発生しない。
 この男は、俺を馬鹿にして虚栄心を満たし、自分の存在を誇示したいだけだ。
 部活に入っている連中は揉め事を起こしたがらない。俺もツーアウトの立場から揉め事を起こしたがらない。こうして今、答えのないつまらない問答が起きている。
 皆、自分の立場を演じているのだ。それが分かりやすくて、児戯的で、おもしろくない。
「吸えよ。俺が吸わせてやろうか?」
 そして俺はその立場を、演技を崩すのが好きだった。
 逆に相手を挑発して喧嘩に巻き込むのは、不確定要素を生み出して混乱へと誘いたいからだ。
 人は何かの欠点を持った時、失ったままではなく、その穴埋めのために何かを得る。目が見えなければ音感や触覚に冴え、足がなければ腕力に富む。
 心も同じだ。俺は生まれながらの暴力性を補うために、人並よりの判断力を得、その判断力を持って暴力を行使し、それを楽しんでいる。
 椅子の頭を右手で掴んで、強く後ろに押し流す。大きな音が立ち、クラス全体の視線が立ち上がった俺に向かう。
「やるのか?」
 大男が声を上げる。
 それに応えず、俺は笑顔のまま相手の目をじっと見つめ続ける。
 人間には逃げるか、戦うかの二極しかない。
 自分から足元にタックルすれば、マッチ棒如き押し倒し必ず勝てる勝負だったが、二人は一歩も引かずじりじりと睨み合いを続け、やがて時間切れを告げる始業のチャイムが鳴った。
 大男は集中の糸が切れたように、悪態を一つつき、逃げ去った。
 偉そうに自己分析しても、俺は今すぐに生身で学校を追い出されたらどこにも行き着くことのできないであろう貧弱な高校生だった。
 暴力に飢え戦いを求めて野に帰らず、秋月のようにグレて社会から睨まれるようなこともしない。
 だが不意に、自分が奇怪なもの、曖昧な物言いだが"怪物"に変質する予感を持っていた。
 それは暴力、暴力を体現した暴力そのもの。

 いつの間にか左手で握りしめていた点鼻薬を鼻に当て、軽くノズルを引いみた。
 鼻に溢れたのは甘ったるい、ガムシロップにコンデンスミルクをぶちまけたような、理想に理想で塗り固めた国を思わせる、心の芯まで溶けそうになる自分には到底そぐわない臭いだった。

 前進する人の群れを逆行して図書室へと向かっていた。西田の倫理の授業は図書室で行うらしい。
 少しして後ろから生野から着いてきたが、気にも止めなかった。
「授業一緒だね」
 普段通りのおっとりとした口調を俺の背中に投げかけてくる。この女の周囲だけ一秒が二振幅分あるのではないかと思うほど、人に合わせず逆に自分のペースで話をする。
「俺は好きで選んだわけじゃねーし」
 選択授業の倫理の授業が図書室で行われるのは、受講人数の少なさに加えて、教科自体重要視されていないからだった。
 倫理は理系が片手間にするものだ。この学校の文系クラスの多くの生徒は、多かれ少なかれ無力感に陥り国公立ではなく私立志向へと流れて、受験科目にはあまりない選択の幅を狭める倫理は選ばれない。
 じゃあ、なぜこんな教科が選択授業にあるのかと問われれば、まあ、俺のようなアウトサイドの落としどころなのだろう。人気のない、定年間近の教師の穏やかな授業に抑え込んでいれば。あとはなんでも。
 図書室の扉の横に、知った顔の男子生徒が壁にもたれていた。
「あー、まだいたのか」
 《すえ》陶だ。こいつとは以前、自宅近くのコンビニで深夜に二三度顔を合わせたことがあった。
 高校入学したての頃、タバコに嵌ったときがあって真夜中無性に吸いたくなりコンビニの前で燻らせていると、いつの間にか隣に立ってジャージ姿で菓子パンを食べて居たのがこいつだった。クラスが違い話すこともなく、小さく挨拶を交わしたあと何を見るでもなく遠くの暗がりに目を凝らしていたが卒前独り言のように、
「なんでタバコ吸わねえの」と俺が切り出すと、
 少し時間をかけて「逆にどうして吸うんだ?」と返して、
 えらく波長の合わないやつだな、とその時は思った。
「もしかして前に会ったっけ」
「会った。夜のコンビニで」
 なんでお前ここにいるんだよ、という目で陶の薄い笑顔を浮かべた堀の深い顔を見やる。
「文転したんだよ」
 理系クラスから文系クラスへと鞍替えすることは珍しいことではなく、学期の終わりに命からがらの面持ちで国境を渡ってくる物は大勢いる。大半は落伍からの懊悩、というより勉強からの開放で澄み切った顔をしていた。やがては酸っぱいぶとうの如き、理系クラスを馬鹿にし始める奴らだ。
「落ちこぼれた、ってわけじゃないんだろ?」
「自分から落ちこぼれた」
 これには、はてなと思った。
「あっちの授業はつまらなくてね。自分のペースで勉強したほうが善いと思った」
 つまり、文系クラスに移ったのは、授業中に自分の勉強をする<内職>をするためらしい。
「まあ精々頑張れよ」
 陶の顎元を横切り図書室のドアを引く。
 すでに着席していた四人がすぐにこちらを向き、俺の顔をみるや嘔吐する寸前のガチョウのような顔を浮かべたが、すぐに奴らは体を寄り添い小声で会話を始めだした。
 蛇蝎の如く俺のことを嫌い、そのくせ追い出すこともできず、毒を吐いているのだろう。そんな弱者の陳腐な湿った姿勢は心底どうでもよかった。
 ただ、そこに混じらなかった一人に目が行った。
 長い髪をぴんと伸ばした背筋に沿わして、余裕を感じさせる態度で机の上に手を重ねていたのは、盲目のヤマグチさんだった。
 それを見た瞬間、心臓の鼓動が強く胸を叩いた。
「どうしたの?」
 立ち止まった背中を後ろから生野が突く。
「なんでもねえよ」
 胸の中に鉄の芯が刺さった具合に冷たくぞくっと戦慄いた心を押さえつけて、あえて上手い具合に一つ空いていたヤマグチさんの隣に腰を下ろした。
 痴漢をしていた男が気づかない内、清潔な顔をして隣にいるという気色悪さ。もしこの女がそれに気づいたらどんな顔をするだろう、そう考えるだけで愉悦と恐怖で薄い皮膚が粟立ちそうになる。
 ここで、彼女を避けるよりも、そっちを選んだほうが楽しいに決まっている。
「ヤマグチさん、だよね。何かあったら言ってね」
 二人でヤマグチさんを挟む形で席に座り、生野が言った。
「うん。分かった」
 初めて聞いた、濁りのない透き通る声。不健全な交渉では聞くことのなかった声だった。
「握手、握手」
 生野が当然のように両手を差し伸べ、手をがっちり捉えて満面の笑みを浮かべる。
「こっちがサッカ、サッカヨシユキくん。サッカくんもしようよー」
 握手した手をそのまま俺の方に向けてきたから、ぞっとした。
 薄く開かれた目が俺を射るように見ていた。その瞳は黒豆のように健常者と同じ黒だ。日本史の資料集に載っている北斎の描いた座頭や瞽女のように、妖怪じみた白子のような目ではなかった。それでも彼女の目は不具で、戯画や架空の世界でよくある『千里眼』を持っているのではないか、という幼稚で行き過ぎた観念が頭をもたげていた。手を触れれば鋭敏な感性で痴漢をしていたのが俺だとばれてしまうのではないだろうか。
「いい、いいって」
 ぷい、と逃げるように机に伏せた。
「おい、サッカぁ。寝るんじゃないぞー」
 すぐに顔を上げると西田のガマガエル顔が頭上にあった。
 もう少し早く来てくれれば、寝たくて寝はじめたわけではないのに。

 初日の授業ということもあって、哲学という言葉を生み出したという西周の出自から始まり、聞き飽きた孔子の「恕」という言葉の意味へと流れ、ソクラテス、そして神話へと移っていくが、どれも退屈なものばかりだった。
 結局、ソクラテスも思想も蟻に殺されてしまった。
 横目で陶を見ると、最前席だということを気にすることなく平気で単語帳と格闘している。
「見るからに退屈そうだなぁ」
 西田がなにやらトランプのようなカードを何枚も持ち、それをシャッフルした上でしゃくしゃくたる顔で一番上のカードを取れと言った。
「なんだよこれ」
「表は見ちゃだめでー、今お前が開いてる教科書のそこから好きなのひとつ思い浮かべや」
 ゼウス、ヘーラー、アテーナ……ギリシア神話の神々が胸像の写真と概要と共に載せられ、この中から一つ選べと言っているらしい。
「じゃあゼウスで良いよ」
「お前なあ、もうちょい謙遜せえよ」
 西田が机の上に置かれたカードを表にすると、そこにはプロメテウスという名前が白亜の彫刻と共に載せられていた。
 プロメテウス?
 教科書に再び目を落とすと、『先見の明を持つ者』『火を人類に与えた者』とされてある。たしかに自分には相応しいもののように感じたが、他者から見ればどうだろう、戦の神アーレースや強さの象徴であるポセイドンを認めた方がしっくりくるはずだ。
 ヤマグチさんにエピメテウスが、生野にはヘーラーが当てはめられた時、そこでやっと西田が何かイカサマをしていることに感づいた。シャッフルだけなら何かの作為を加えることぐらい簡単なはずだ。
 ひとつ引っ掛けてやろうという悪戯心がむくむくと湧き、陶の番が巡ってきた時に丁度いいと、「今度はディオニューソスだろ?」と横槍を入れてやった。
 西田が笑いを堪えた顔でちらりとこちらを伺い、「さすがプロメテウスだのう!」と誉めそやした。(誤魔化してきた)
「良くわかったね」と、何の疑問も持たず手放しに喜ぶ生野の声を遮り、「どうなんだよ」と西田に立ち向かった。
「人は誰からか役割を与えられ、それを演じている――先生はそう言いたかったんよ」
 俺はなにか言い返したかったが、そこでチャイムが鳴った。

 早く卓上の教科書を片付けて購買部に行ってパンを買う予定だったが西田が帰りしな、授業で使ったホワイトボードを片付けておいてくれと言われ、げんなりしながらスポンジで水性ペンの書き後を消していると、
「サッカ君」
 突然ヤマグチさんに目の前で声をかけられ、声を上げて驚きそうになった。
「なに、えーと」
「ヤマグチ」
 知っている、とぼけたふりをしているだけだ。
「それで何?」
 ヤマグチさんはするりと手を伸ばし俺の制服の袖を掴むと、 
「あの子、なにかおかしいよね」
 彼女は上気しそうなのをやっと堪えている俺に向かって、そう言った。
「あの子?」
「生野さん。凄く、凄く、無理をしてて」
「そういう風に見えるかな」
 袖から軽く手を離した。
「いつも話し終わった時に声が震えてるから」
 この女は普通の人間が気にならない見過ごされるような音まで感知しているのだろうか。そうだとすれば感じやすいという能力においては俺と同じだ。
 これは誇るようなものではなく人間の嫌な面ばかりが目につき、なんとか一時でも他のことで気を紛らわせようとする理性は孤独を選び、感性は解決を求め、その間の子は混乱し暴れだす……。
 もしかすると、この女は俺がどういう人間なのか気づいているのか?
 これは予想に過ぎないし、今はまだ無害な善人らしく薄ら笑いを浮かべていた。
「それでどうして俺なんかに?」
「あの子と仲がいいんだよね」
「は?」
 どうして俺があいつの面倒を見なければならないんだ、あいつは別にそういう関係でもなければ、友達というわけでもないのに。
「君があまり乗り気じゃないのは分かるよ。でもあの子は君に気があると思う」
「俺に気はないから」
 率直な気持ちだった。
「面倒なのはあの子、生野さんが君に良くないことを起こすだろう、ってこと」
「どうしてそんなことが分かるんだ?」
 俺の胸元に向けてぼそぼそと話していた顔が急に持ち上がり半月のように薄く開かれた目が俺に向けられた。
「分かると思うけどね。君は乱暴で。あの子は純粋な気持ちで不幸な人を幸せにしたいと思っている。そして一等不幸だったのが君だったってこと」
 乱暴だと気づいているのか。
「貧乏神すねぇ」
 でもどうして、そんなことが分かりきったように言えるんだ?――話の流れに合わせて聞いてみると、君たちある意味で有名だもの、と呆れた口調で返してきた。
 思えば問題児と、生徒会選挙に落選した負け犬は、その逆よりも悪い意味で映えるのかもしれない。
「君はお侍さんに生まれていればよかったのにね」

 自分の教室へ戻っていこうとする陶を小走りで呼び止め、ポケットから生野が落とした点鼻薬を持ち出してこれがなんなのか聞いた。
「物知りなんだろ?」
 それを受け取ると面白そうな表情で点鼻薬をころころと手の中で転がしながら精査し、何度か軽く首を縦に振った。
「分からない」
「あてにならないな」
 俺がそう冷やかしても涼しい顔で、「いまは分からない」と付け加えて、ポケットから携帯端末を取り出した。
「ああ、そうすればよかったな」
「蒙を啓くのが俺の仕事じゃないけど」
 嫌味を一つついて、端末の画面を俺の顔に押し付けてきた。
「オキシトシン、だってさ」
「オキシトシン?」
 下垂体から分泌されるペプチドホルモンで、分娩時の子宮収縮や陣痛促進剤、子宮収縮薬に使用される――と記されていた。
「妊娠、その線はないよな」
「他に……別名『愛情ホルモン』だそうで、他者への愛情や信頼に重要な役割を持っているらしい」
 どうした、らしくないな、薬で人間好きにでもなろうとしているのか?
 陶のからかいを無視した。それほど今の俺は当惑していた。腋の下の当たりで感じる熱を持った腫れたような感覚は大きな異形の生物に飲み込まれるような、想像を超えたものを目にし感じたときの恐怖から来ていた。
 愛情は、薬の力で如何様にもできる。安定剤や不安剤で人格改造が当たり前になっているこの世の中では不思議ではないことだ。嫌な現実から目を逸らしてきたのかもしれない。
 中流家庭で親からそれなりの愛情を受けてきた自分には、人工の愛情というものが気持ち悪くて仕方なかった。
 生野はこれを吸っていたのだろう。だがどうしてこれを吸う必要があるのか。
 放課後になり、西田が伸び始めた芝の手入れをするため居残るように命じられていたため、面倒くさそうにしながら中庭で生野が来るのを待ちわびていた。
「おぉーちゃんとおるのう」
 呑気な声を出しながらのっそりとやってきた西田に連れ立ち、生野がやって来た。
「サッカ君えらいねー」
 芝刈りは得意だ。
 機械を使うよりも鋏で刈り取る方が好きだ。反復作業に手の握力が無くなりかけるが、仕事をした気になる。
 芝の良い刈り方とそうではない狩り方の違いが分かり始め、ゴルフ場や野球場、本場である西欧の芝がどうなっているのか知りたくなっていた。情熱のやり場がこれでいいのか悩みどころだが。
 生野、そして西田から作業を褒められ、また西田が、芝が綺麗だと他の教師に褒められたことを俺に話したが、嬉しくはなかった。これは俺の芝で、誰かに見せるためにしているわけではない。
「小学校の頃にピーピー豆って、あってね……」
 同じ場所の雑草を刈りながら、生野は一方的に俺に話し続ける。
 時折、生野の横顔に目を向けた。こいつは俺が何もしらないと思っているのだろう。
 生野の尖った鼻も、澄んだ目も、赤みを帯びて膨らんだ頬も、全てが虚構に思えて仕方がなかった。では純粋な愛情とは何なのか。
「な、生野」
「やっと話しかけてくれたー」
 大きく目を見開いて微笑みかけている。
「あの点鼻薬ってなんなんだ?」
 生野は顔を曇らせるどころか、穏やかな表情を浮かべながら、風に靡いた髪を手で抑え軽やかに言った。
「あれはね……。サッカ君にだけは言える、気がする。そのね、あれを使えば優しくなれるんだよ」
「いつもは優しくないのか?」
 首を大きく振って「違う」と言った。
「あれは幼い頃から使ってるから、自分が優しいとか、優しくないとか分からないの」
「親にやらされてるのか?」
 こくり、と小さく頷いた。
「自分のことなんだから辞めればいいだろ」
 頭の中がひりひりする。他人に言うは易く、自分ではどうすることもできず積んだままに成されている問題を抱えているくせに、そういうことがつい口をついてしまう。
「長く続けていたことを変える、って怖いことなんだよ」
 そこで結論づけられ自分から心を固く閉ざしてしまった生野に向かって、なんと語りかければいいのだろうか。
「辞めろよ」
 不器用にも力加減などできず、強引な言葉しか見つからなくて、殻を割るにはいつも強い衝撃ばかりを与え中身までぐちゃぐちゃにして後悔する。
 このままだと、生野の心は砕けるだろう。
「じゃあ、サッカ君……。今度、デートしてくれないかな」
「デート?」
「そうすれば、私はあれを使うの止めてもいいと思う」
 突然の交渉だった。俺には関係のないことなんだから勝手にしろよ、と生野を突き放したかったが、その気持ちに反して俺の中の反骨心が心臓の鼓動と共に誇大化し、叫びを上げ、喉元が焼けるように熱くなっていくのを感じていた。
 なぜ子供は親のすべてを受け入れ、従順しなければならないのか。
 そしてこいつは何の疑いもなく、なぜそれを受け入れているのか。
 子供を産めば誰だって親になれる、それだけのことなのに。
「分かった。デートしてやるよ」
 生野は睡魔と戦う猫のように一糸を通さぬほどに目を細めて、よかった、と言った後もしばらく春の陽気の中で、その相好を続けた。
 脳裏に焼き付く秋月の姿が、俺に戦えと言っているような気がした。


「そうすれば、私はあれを使うの止めてもいいと思う」
 突然の交渉だった。俺には関係のないことなんだから勝手にしろよ、と生野を突き放したかったが、その気持ちに反して俺の中の反骨心が心臓の鼓動と共に誇大化し、叫びを上げ、喉元が焼けるように熱くなっていくのを感じていた。
 なぜ子供は親のすべてを受け入れ、従順しなければならないのか。
 そしてこいつは何の疑いもなく、なぜそれを受け入れているのか。
 子供を産めば誰だって親になれる、それだけのことなのに。
「分かった。デートしてやるよ」
 生野は睡魔と戦う猫のように一糸を通さぬほどに目を細めて、よかった、と言った後もしばらく春の陽気の中で、その相好を続けた。
 脳裏に焼き付く秋月の姿が、俺に戦えと言っているような気がした。



 ブラウンのスカートが軽い風に靡かれて、その度に膨らみを変えていく。
 潮風だ。
 新緑が桜の隙間を縫って芽吹く、散り際の桜並木の下を生野と肩を並べて歩いている。
 その並木は高台へと続き、桜は綺麗だがデートをしているという感慨に浸れず、まるで登山のような思いでぜいぜい軽く息を荒げていた。
「うあー、橋が見えるよ」
 湾曲した開けた場所から、巨人のような白い鋼鉄の塊が海の上を横たわり本州の方へと向かっていた。
 空の青へ突き進むように大橋の上をトラックが軽快に滑り、その下をタンカー等の大型船が行き来している。
 天に聳え立つ二本の橋桁が、人の足のように彼方と此方の岸に足をついて陸を繋げている風景は正に超自然的としか言いようがないのだが、生まれたときからずっとこの光景を見ている自分にとって、この風景こそが自然だった。
「こんなに高いところまで来たのか」 
 台地になった頂上へと登り上げ、展望台からしばらく自分たちが辿ってきた道を呆然と見据えた。
 ミニチュアのような世界で、貴族が没したり、決闘が行われたり、いくつかの戦争があったりというのが嘘のようだったが、この磯の匂いが鼻にこびりつく潮風にあたると、それらはこの場所に封じ込まれた夢のようにも感じられた。
「あっちから来たんだね」
 生野がはしゃいで海峡の向こうを指差し、自分の家がないか目で追っている。
 自分の家が見えたら、うれしいのだろうか。俺にはその気持ちがわからない。この世界の一隅にある忘れかけれそうなほど微細で矮小な存在に手を差し伸べる理由が分からないのだ。
「あ、あれかなあー。あの赤い」
 何度生野が説明しても、俺には見えなかった。その家は日本のどこかにある、一年中クリスマスの町のログハウスを参考にしているらしい。
「お前の親はどういう奴なんだ」
 両親共に小学校の教師だと生野は言った。
「幼い頃から優しい子になりなさい、って言われて」
「それがオキシトシンなのか」
「人のために何かをする」
 裁断された大切な手紙を一つにつなぎ合わせるように、彼女は一字一句を噛みしめるように言葉を紡いだ。疲れた笑顔ではにかみながら。
 そうすれば思いは人から人へと渡り歩き、やがては世界中を駆け巡り世界中の人が幸せになれる、そう教えられてきたのだという。
「それで誰かを幸せにできたのか?」
「ううん……分からない」
 海峡に浮かぶ白々とした波濤が現実的な、冷めた感情を呼び起こしていた。
「使うの、辞めろよ」
 生野の顔を見ずに、言った。
「どんなに善く生きようとしても、世の中は何も変わらない」
 生野がどうなろうと構わなかったが、誰もがこいつの善意に漬け込み、こいつはそれを善いことだと履き違え、それは小学生の時によくやった、いじめられっこが俯せになりその上に幾人がのしかかる遊びのように、または大量のランドセルを担がされる少年のように、誰もそれを止めずむしろ愉快に見守っているのが我慢ならなかった。
「変わらないかもしれない。でも、目の前にいるサッカ君を救うことはできる」
 生野はポケットから点鼻薬を取り出して俺の目の前にかざした。
「これを使ってよ」

 生野がデートに誘ったのはこのためだったのか。
 俺に同じ罪を贖わされるために。
 てらてらと光った糸を口で編む狡猾な蜘蛛の姿が頭をよぎったが、現実としてそこにいるのは、無垢な笑顔を晒した無力で、極端にどじな少女の姿だった。
 どんなに努力をしても、結果が伴わない女。
 触れればすべてのものを腐れてしまう女。
 同情してはいけない。かわいそうだと思ってはいけない。
「分かった」
 しかし、そう答えてしまった。
 俺はこいつを、かわいそうだと思ってしまった。
 俺は、生野の空気を伝って腐ってしまったのだろうか。
 その手から点鼻薬を受け取りノズルを鼻先に近づけると、甘い臭いが鼻中に溢れ、あの理想の国の入り口に立ってしまった。
 変わることへの恐れと、人間の根源的な感情に取り込まれ赤子戻りする安心感、いつもは気を張っている俺が愉悦に身を任せている姿を見て誰かが笑っていないかという恥ずかしさがないまぜになり、混乱が俺を襲った。
 これでよかったのだろうか。
 そういう感情も全て海食され、いつか、これでよかったと思わされてしまうのだろうか。
 心が溶けていく。
 城壁を取り払い敵も味方もすべて愛していけるという自信が生まれ、がっちりと極めるように心に絡みついていた。
 沈んでいくことに温かさを感じ始めたが、それも悪くなかった。
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