平成20年2月1日 永代経天璋院篤姫〜 日蓮正宗富士大石寺の信仰に励んだご信徒たち 1 〜 |
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今月からしばらくは日蓮正宗富士大石寺の信仰に励んでいた歴史上の方々のことを学びます。私たちの先輩には歴史上の著名人も少なくありません。ことに今年は、テレビのドラマで天璋院篤姫のことが取り上げられております。しかし、ドラマですから脚色された部分もあることと思います。脚色された部分が真実であると思われるのも困りものです。そこで今回は、総本山五十一世日英上人が書きとどめてくださった「時時興記留」を拝して、天璋院の信心の姿を学びます。そして、脚色された部分に執われることなく、信心の眼で見るならば、有益なものとなるでしょう。 ただし、日蓮大聖人様の教えからすれば、将軍の夫人であっても一般庶民であっても成仏の功徳を受けることにおいて違いはありません。無名の人々がいて富士大石寺の七五〇年を守ってきた事実は変わるものではないのです。ですから、ここで取り上げる意味は、日蓮大聖人様の仏法を広く社会に弘める上で、このような人も日蓮正宗の信仰をして功徳を頂いている現証があります、と伝えてゆくことが大切だと考えるからです。 ことに池田大作を破門以後、真の法華講衆が日蓮正宗富士大石寺の話をすると、必ず「なんだ池田大作のお寺か」といわれます。残念なことに、世間的には新興宗教である池田教の総本山としか思われていない面があります。そのような人々に、「日蓮正宗の総本山である富士大石寺は、新興宗教ではありません。七五〇年前か富士の麓にそびえ立ち、日蓮大聖人様の教えを正しく伝えているお寺です」と胸をはっていうときに、「過去にはこのような人たちも御信徒でお題目を唱えて功徳を頂いております」と実例を挙げれば、なお一層安心感を相手に与えることが出来るからです。 ですから、歴史を学ぶことは折伏の上からも大いに意味があることなのです。また、これらの方々も、平成の法華講衆である私たちが、信心の手本としてその名を語り継いでくれることを喜びとされていると思います。折伏の修行を重ねてゆく私たちもやがて歴史の中の一人となります。封建社会の人々とは違い、個人名で語られることはないでしょうが、折伏の功徳を受けることにより、未来に「平成の法華講衆」として記憶され、天璋院たちと同じように、「平成の法華講衆は第六天の魔王である池田大作と正々堂々と闘い魔王に魅入られた心を打ち破り富士大石寺の清流を守った」として語られることは間違いありません。 そのためにも今日の精進が大切です。ともに御本尊様の御照覧を信じ、寒さに震える中にあっても、背筋を伸ばし顔を上げて、真っ直ぐに進みましょう。功徳は真っ直ぐな信心に具わります。春はすぐそこに来ております。 〔総本山五十一世日英上人御説法 「時時興記留」〕 (万延元年一八六〇年十月 於 常泉寺)
〔解 説〕 この文は総本山第五十一世日英上人がお書きになったものです。当時、日英上人は向島の常泉寺に滞在されており、その年のお会式にされたお説法の一部です。平成十七年の夏期講習会のテキストに掲載されておりましたからご記憶の方も多いと思います。「時々興記留」と名前が付けられており、品川の妙光寺に伝えられております。この御文が書かれたのは、万延元年(一八六〇)十月とされております。 引用いたしましたところは、徳川十三代将軍家定の正室であった天璋院について触れられたところです。天璋院は薩摩二十八代藩主島津斉彬の養女となり、さらに近衛忠煕の養女となってその後に将軍の正室として輿入れをしております。養女からさらに養女となる複雑な経緯を経て、初めて将軍家に相応しい身分を整えることが出来たのです。このことからも、江戸時代の身分制度の厳しさが伝わってきます。 さて、その天璋院が、「不思議の御因縁」で日蓮正宗富士大石寺の信仰をするようになったことも記されております。入信の動機はどの様なものであったかは想像をする以外にありませんが、おおよそのことは推察することが出来ると思います。 それは、天璋院の曾祖父が薩摩藩二十五代藩主島津斉宣(なりのぶ)です。その斉宣の弟に八戸南部藩へ養子に入り九代藩主となった南部信順(のぶより)が既に入信をしていたという事実があるからです。天璋院からすれば、大叔父にあたるのでしょうか。そのような縁があっての入信だったことは間違いのないことと思われますです。薩摩からはるばる江戸に出てきた篤姫を見て、江戸城の大奥という特殊な社会に身を投じようとする健気な篤姫に接し、正しい信仰を持たせてやりたい、そして役目を立派にはたすことができるようにという心から、信順は折伏をしたに違いありません。 天璋院にしてみれば、将軍への輿入れという未知の世界に足を踏み入れる不安は想像を絶するものがあったことでしょう。まして外様大名の島津家の出であれは尚更だったと思われます。近衛家の養女という身分になったとしても。またこの年に、実父の島津忠剛が四十九歳で死去していることも強い縁となったものと思います。この信順の入信については、「八戸法難」の時にお話を致したいと思いますので今日は詳細を申し上げません。 大叔父の折伏を素直に聞き入れ、晴れて日蓮正宗富士大石寺の信徒として、日蓮大聖人様に見まもられての輿入れが、安政三年十一月十一日でした。翌十二月十八日に家定と婚儀を整えております。ところが、結婚後わずか一年半後の安政五年七月六日に家定は病気のために死去いたしました。この時には養子として迎えていた十四代将軍家茂は十三歳でしたから、天璋院の悲しみ、苦しみは深く、一般庶民とは別の次元での思いがあったことでしょう。 さらに、翌安政六年には江戸城本丸御殿の焼失があり、さらにまたその翌年、万延元年には三月に桜田門外の変が起こり、騒然とした世上がますます混迷を深める様相でした。 このような状況の中で、日英上人に御祈念を願い出られたのです。嫁いでからの年数も浅く、年若い子を抱え、さらに外様大名の娘という身分、不安な社会情勢等々。このような状況にあった天璋院にとっては、頼りとするところは御本尊様しかありませんでした。このときの天璋院の心の中を、日英上人は、「厳しく御祈祷申し上げる可く御旨仰せを蒙り」というお言葉でお示し下さっていると拝します。つまり、将軍家の夫人が下々の者と同じような悩みを抱え、日英上人に御指南を仰いだ、とはお書きになれないので、厳しく御祈念を申しつけた、と表現されるのです。実のところは、深い悩みや辛い苦しみの心中を吐露されたということです。そして、日英上人はその願を聞き届けられ、三月十四日から閏三月を経て四月五日までの五十一日間、朝四時間、昼四時間、夜四時間の一日十二時間唱題をされたことがここに記されております。つごう六百十二時間の唱題行になります。日英上人は「必至の御祈念」と仰せです。天璋院の願を受け、日英上人が懸命に祈って下さったのです。『祈祷抄』には、 「祈りも又是くの如し。よき師とよき檀那とよき法と、此の三つ寄り合ひて祈りを成就し、国土の大難をも払ふべき者なり」(御書一三一四) とあります。よき師とは、日蓮大聖人様のことです。今日では、大聖人様より唯授一人の御相承を御所時遊ばされる代々の御法主上人がよき師のお立場です。ですからこの当時のよき師は日英上人、よき檀那は天璋院になります。そしてよき法である本門戒壇の大御本尊様に御祈念を申し上げたのですから願が叶わないはずはありません。まさに「願として叶わざるなく」(本尊抄文段・日寛上人)の現証として、「不思議の御利益を以て追々世上穏やかに相成り御互いに有難きことにあらずや」と、天璋院も不思議な功徳を受け、また世の中も平穏になる御利益があったのです。この大きな功徳の現証は、私たちの信心の第一の手本とすべきものです。「不思議な御利益」については次の語句の意味に書いておきました。目を通してください。 〔語句の意味〕 ○温恭院−徳川幕府第十三代将軍徳川家定 ○薩州斉彬−薩摩藩十一代藩主島津斉彬 ○近衛−近衛忠煕をさす。幕末の公家。近衛忠煕(このえただひろ)は第二次大戦中に首相になった近衛文麿(ふみまろ)の祖父。 ○比翼連理−「比翼の鳥」と「連理の枝」を略して熟語にしたもので、共に男女の仲の良いことを表す言葉。「比翼の鳥」とは雌雄同体になった中国の想像上の鳥。「連理の枝」は、別々の枝が合わさって一本の枝になること。 ○若君様−家定の養子となった第十四代将軍徳川家茂のことと思われる。家茂はこの時十三歳。 ○去年御炎上−一八五九年(安政六)焼失した江戸城本丸御殿のこと。 ○抽− ちゅうし 選びだす 抜き出す ここでは、心より、との意。 ○不思議の御利益−この年の三月三日に桜田門外の変が起こった。幕府権力の象徴である江戸城の門前で、時の大老が暗殺されるという前代未聞の大事件であり、徳川幕府の威信失墜が露わになったものといえる。そして、一挙に倒幕の動きが顕在化する恐れもあった。また、国内情勢の混乱は、ヨーロッパ諸国やアメリカなどの列強による、日本植民地支配の引き金にもなりかねないものでもあった。このような緊迫した社会情勢を和らげるために、さらには、弱体化した幕府を立て直すためにも「公武合体」という考え方が出てきても不思議ではない。天璋院は、前の御台所として「公武合体」を積極的に支持し、天皇家や近衛家に働きかけたものと思われる。年表によれば、延元元年四月に、幕府は孝明天皇の妹である和宮の降嫁を願い出ている。そして、六月頃には内々の同意を得、十月に天皇の許可が下りている。このようなことを考えあわすと、不思議の御利益とは、公武合体が実り、国内の和平の瑞が見えたことをさしているのではないかと思われる。次下の「追々世上穏やかに相成り御互いに有難きことにあらずや」との御文は、政治が安定することにより、国民も平穏な心をもつことが出来る上から、お互いに有難いことではないか、と仰せられたのであると拝する。 〔天璋院略年表〕
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日蓮正宗向陽山佛乗寺