宮城・南三陸町で後継者として奮闘する青年漁師に密着しました。
ニュースJAPANは、震災直後から宮城・南三陸町の復興の様子を追い続けてきました。
町の人口は、5月末の時点で1万5,000人を切り、人口の流出が止まりません。
そんな中、ある青年漁師に密着しました。
午前4時前、日の出前の南三陸町袖浜漁港。
静まり返った港から、1人、船を出す青年がいた。
菅原 学さん(32)は「(朝はこれぐらいの時間に?)そうですね。出荷するときは、このぐらいに行かないと、間に合わないので...」と話した。
誰よりも早い海仕事は、震災後を漁師として生きる強い決意の表れだった。
震災から2年3カ月がたち、町の魚市場は活気を取り戻した。
近くの共同作業場では、漁師や家族が早朝からカキむきの作業に追われていた。
2012年の秋、カキの出荷がようやく再開した。
しかし、町のカキ養殖は今、深刻な問題に直面していた。
志津川地区カキ養殖漁師・遠藤 進さん(68)は「カキの船もなければ、人もね、後継者もいないということで。うちの息子、役場に勤めてるもんですから、役場の防災庁舎で今回、津波で亡くなったんですよ」と話した。
後継ぎを津波で亡くすなど、震災がもたらした後継者不足。
志津川地区には震災前、45人のカキ養殖漁師がいたが、現在、およそ30人に減少した。
後継者がいなくなり、船の再建に多額の費用がかかるカキ養殖を廃業する漁師が、今後さらに増えるという。
こうした中、後継者として奮闘する青年漁師がいる。
あの菅原 学さんだ。
菅原 学さんは「カキ処理場の裏に行ったら、うちの船が横たわっていたんですね。なんかの縁なのかなって思って...」と話した。
一家で、長年営んできた民宿と、築8年の自宅を津波で失った菅原 学さん。
残ったのは、父・啓一さん(61)のカキ養殖船「第八薬師丸」だけだった。
しかし、啓一さんは、震災後、筋肉の病気が進行し、海での再起を断念した。
長男の学さんが後を継いだ。
学さんの父・啓一さんは「わたしがこういうふうな体になったから、(息子が)やる気になってやってくれてるから、ただ今後、どうなるか、海(漁師)をずっと続けるかどうかね」と話した。
復興を担う若い世代の流出が続く中、町に残り、27人の仲間と共同で、カキ養殖を始めた学さん。
その姿に先輩漁師・久保田 俊行さん(63)は、「息子みたいなもんだね。まだ先が見えない状態なんで、例えば後継者がいる人でも、『帰ってこい』って、大きい声ではたぶん言えないと思うんですよ。俺もその1人なんだけどね」と話した。
厳しい復興の現実。
学さん自身の生活もまた、先が見えない状況が続いている。
仲間との共同化により、学さんの月収は15万円程度。
収入は、震災前のおよそ3分の2に落ち込んだ。
妻と小学生の2人のわが子、そして両親との生活再建のめどは全く立っていない。
菅原 学さんは「自宅を再建する人たちもいれば、家業っていうか、民宿を再建する方もいたりとか、本当に今やってること(漁師)は、自分の家族のためになってるのかなって...」と話した。
震災から2年がすぎ、募る将来への不安。
カキの共同作業を終えた学さんは、休む間もなく再び海へ。
旬を迎えたアナゴやカレイの漁などを、生活再建に向け1人で行っている。
日の出前から夕方まで、1日およそ13時間。
全てを奪った海と向き合う日々が続く。
菅原 学さんは、南三陸の海について、「宝の海ですよね。漁をすれば、捕れてお金になる。そして、種を入れれば、実になって、それを収穫してお金になる。『お前、漁師ってもうかるぞ』って、自信を持って言えるような、海を作ってやるというのも、1つの夢ですね」と話した。