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【憲法と、】

第3部 沖縄の怒り<上> 光届かぬ島から問う

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 沖縄の怒りは頂点に達していた。一九九五年十月二十一日、米兵による少女暴行事件に抗議する県民総決起大会が宜野湾市の海浜公園で開かれた。知事(当時)の大田昌秀(88)は開会直前に中国・福建省から那覇空港に戻ったが、道路は大会に参加しようとする人々の車で大渋滞。急きょ、高速艇で海から会場に向かった。

 「沖縄は絶えず基地に足を引っ張られてきた。戦後五十年を変わり目にしたい」。会場をぎっしり埋めた八万五千人(主催者発表)を前に訴えた。

 学徒動員された沖縄戦で、友達を大勢失った。五二年のサンフランシスコ講和条約発効で、日本は国際社会に復帰したが、沖縄は米国統治下で軍事基地化が進んだ。沖縄が「捨て石」にされてきたという思いを抱きながらも大田は、平和憲法のある日本への復帰を望んだ。しかし「七二年五月十五日に復帰したのは憲法の下ではなく、日米安全保障条約の下だった」。

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 当時、米国・ロサンゼルスを拠点に音楽活動していたロックミュージシャンの宮永英一(61)は、北米沖縄県人会の知人から、少女暴行事件や決起大会について知らされた。

 「あの時と同じ。たまりにたまった怒りが爆発したんだ」。あの時とは七〇年十二月二十日未明。米国統治下のコザ市(現沖縄市)で自然発生的に暴動が起こった。

 コザには沖縄の矛盾が凝縮していた。米兵と日本人女性から生まれたハーフの宮永は、米兵相手の店で演奏していた。「米兵はさげすむような目で沖縄の人たちを見ていた。演奏が気に入らなければ、ビール瓶や灰皿を投げつけられた」

 六四年に米国のベトナム介入が始まると、死におびえる米兵は、コザの歓楽街でありったけの金を使い、戦地に向かった。バーで働く人らがその金に群がった。彼らは基地を憎みながら、依存していた。米兵の怒りを買うようなことは避けてきた。米兵がらみの事件では泣き寝入りすることも多かった。

 しかし、あの夜は違った。米兵が起こした人身事故がきっかけで、暴徒と化したコザの人たちは、七十台以上の米兵車両に火を放ち、嘉手納基地に突入した。混乱の中に宮永もいた。「みな打撃を受けることは分かっていた。でも、止まらなかった」

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 琉球大大学院生の親川志奈子(32)は小学五年のときに那覇市に引っ越すまで、沖縄市で暮らした。嘉手納基地を発着する米軍機の騒音で学校の授業はたびたび中断された。

 少女暴行事件への激しい怒りが残る九八年、沖縄の高校生を米国に留学させる国費留学制度ができた。親川はこの制度を使ってルイジアナ州へ。「アメとムチのアメですよ」。基地問題を訴えようと気負って渡った米国では「沖縄どころか、日本がどこなのかも知らない人が多かった」。 (文中敬称略)

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 国土面積の0・6%しかない沖縄に、在日米軍施設の74%が集中する。圧倒的な負担の不平等を解決するすべも見つからぬまま、永田町では改憲論議が盛り上がる。年代も立場も違う三人の目から見た憲法の光届かぬ島の姿を追った。

 沖縄米兵少女暴行事件 1995年9月4日、沖縄県に駐留する米兵3人が12歳の女子小学生を強姦(ごうかん)。県警は米軍側に容疑者の身柄引き渡しを要求したが、起訴前の引き渡しを米軍側が拒める日米地位協定を盾に拒否した。米兵3人は後に起訴され、有罪判決が確定した。

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