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簡易宿の宿泊料金表(大阪府簡易宿所生活衛生同業組合蔵)

 

 西日本最大の日雇労働者である大阪市西成区の「釜ヶ崎」には、古くから簡易宿が軒を連ねていました。これは、偶然ではなく、「宿屋営業取締規則」という法律が1926年10月に改正されたときに、簡易宿の前身である木賃宿の営業許可地の一つに「釜ヶ崎」を指定されたことが主な理由だったのです。もともと木賃宿には、単身の日雇労働者ばかりが寝泊まりしていたわけではなく、夫婦や子ども連れもたくさん生活していて、日ごとに宿を変えるというよりは、何日も、さらに何ヶ月、何年も生活拠点にしている場合がほとんどだったのです。やがて法律が改正されるころには、好景気の波にのって「釜ヶ崎」に単身の日雇労働者が多く住むになり、木賃宿といえば単身の日雇労働者の宿という意味合いも強くなり、宿の経営や宿泊人の生活さえも次第に規制の対象となっていったのでした。 部屋代を支払うのではなく、食事の煮炊きをする木炭の代金を支払うところから木賃宿の名で知られていた簡易宿は、もともと宿によって料金がばらばらでしたが、その料金も1926年11月1日をもって統一されることになりました。相部屋で20〜30銭、一間貸しだと40〜60銭となり、日雇労働者の日当がおよそ2円13銭(全国平均)であった時代にけっして安くはない金額でしたが、月払いの借家などにくらべると、日々の支払いで済むため、労働者にとってふところ具合がよかったわけです。  この1926年の統一料金の導入は、さきほどの「宿屋営業取締規則」の改正にともなうもので、規則の改正では同時に、木賃宿から簡易宿へ名称を変更することも義務づけられました。改正点は、このほか、客室1人あたりの面積を2uに限ること、客室番号を明らかにすること、宿泊人名簿の作成を徹底すること、さらに炊事場所を確保することなどが盛り込まれました。  アジア・太平洋戦争の時代には、この時ぞとばかりに安宿がたくさん建てられていったのですが、戦争末期の空襲で、「釜ヶ崎」も一面焼け野原となりました。高度経済成長をむかえた1960〜70年代には、簡易宿は鉄筋コンクリートづくりものへと徐々に衣替えし、バブルが崩壊して格差社会がひろがりつつある現在でも、安価で宿泊できる宿として定評があります。また、高齢者や障害者が生活保護を受けるための重要な生活の場所となっているほか、野宿生活をせざるをえない人たちが自立して生活するための福祉型マンションとして経営している簡易宿も増えてきています。

 

 

 


 

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