エピローグ ローズ(8)(後の1)
「ヒルダ、呼んだ?」
「ああ、ローズ、すまないな、休みなのに」
日曜の朝、ローズとヒルダは、町外れのカフェで落ち会った。カプチーノとブレックファストティーを前に、宝塚、あるいはトップモデルクラスの美貌とスタイルを持つ二人が向かい合って座っているだけで、ウェイトレスの女子高生がざわざわと色めきたつ。
一口カプチーノを飲んでヒルダは口を開く。
「実は、アンティゴネのことなんだが……あの娘(こ)に、少し魔法の稽古をつけてもらいたいのだ」
「え?」
「いやな、あの娘、最近、どうも天狗になっていてな・・・・・・ローズも知っているだろうが、彼女の属性は『白金』の魔術。もともと素質があったので、私のある限りの知識を与えて修行をさせたのだが・・・・・・」
「師匠を越えてしまった、と?」
ヒルダが渋い顔で頷く。
「私は本業は『剣』なのでな。もちろん一定の心得はあるわけだが、魔法のみで模擬戦をすると彼女のほうがどうも勝率が高くなってきてるのだ。そうなるとあの娘、やはり若いのか、どうも稽古に手を抜くようになってな。正直に言えば、欧州本部にも彼女に比肩する魔力を持つものが何人いるやら……。たまたまここに彼女が来たのもいい機会だ。申し訳ないがローズ、お前に彼女の稽古を見てもらいたいのだが…………どうした、ローズ?」
ヒルダの声に、魂がもとにもどったかのような表情をローズは浮かべる。
「あ、ごめんなさい、少しぼぅっとしていたから・・・・・・」
「少し顔が紅いようだが、大丈夫か?熱でもあるのでは?」
「大丈夫。・・・・・・少し考え事をしていただけ。魔法ね。大丈夫。まだアンティゴネに遅れをとるようなことはないから」
■ ■ ■
「・・・・・・はぁ」
ため息しかでない。
完全に、ヒルダに見惚れてた。
短く切りそろえられたプラチナブロンドの髪、鋼のように鍛え抜かれているにも関わらず女性としての柔らかさを具備した長身の体躯。知性と意思と正義感に溢れる切れ長の眼・・・・・・。
これまでも何度も見てきたその姿に変わりはない。
これまで、そんな凛々しい彼女の姿を見ても、このような感情を抱いたことはなかったのに。
ここ数日、毎晩、眠りが浅い。
何か、得体の知れない夢を見ては、起きたときには何も覚えていない、そんな毎日が続いている。
ただ、起きたときには、必ずと言っていいほど、体が火照っている。
起きたときだけでなく、ヒルダを見たときにも、その火照りは激しくなる。
欲求不満なのだろうか。
そういえば、前に男性とつきあったのがいつだったか、もはや覚えていないほどになっている。
街中を歩けば言い寄ってくる軽薄な男はいくらでもいるが、そんな男にはまったくといっていいほどときめかない。
そういう意味では、品は悪いが、言わば「男日照り」に近い状態ではあるのだろう。
しかし、だからといっても、同性のヒルダにまで……。
「ローズ様、お待たせいたしました!!」
駅前の待ち合わせ場所で、物思いにふけっている私の前に、純白の修道服様式のヴェールとワンピース姿で元気に現れたのは、アンティゴネだった。
「貴女、その恰好で来たの?」
「はい!私のいつもの服です!!」
プラチナブロンドの細く柔らかなウェーブのかかった髪に、碧眼、白い肌。そして人形のような整った顔立ち。それだけで十分人々の注目をひきつけるのに十分なのに、あまりに目立つその衣装のため、遠巻きの中には携帯カメラを向ける人や、「え?今日、コスプレ大会でもあるの?」とささやき声を立てている人までいる。
そんなアンティゴネの腕を引っ張って、人気の少ない裏路地に移動する。
ひそひそと彼女に耳打ちする。
「……アンティゴネ。それは魔法衣でしょう?普段着るものではないでしょう」
「今日は日曜だったので、礼拝を済ませてから直接こちらにきたものですから。それにこの服は、この身を神に捧げている証ですし、私のお気に入りなんです。同じ服、10着あるんですよ?これ、3番なんです」
アンティゴネが、純白のスカートの裾を捲くると、裏地に絹の金糸で"III"と刺繍されている。
「ちょっと、はしたないでしょ!そんなところで捲くらない!!!」
「は〜い、ごめんなさぁ〜い」
ペロッと舌を出すアンティゴネ。
はぁ、と、思わずため息をつく。
うちのクラス一番の元気印(松田朱美)をしても、ここまで爛漫ではない。まるで幼稚園児を相手にした母親か何かになったかのようだ。
ヒルダに言わせると、普段はイスメネが重しになっているので、アンティゴネはかなり自重しているらしいが、ヒルダだけだとかなり緩くなるらしく、一人になると糸が切れた凧のようになってしまうらしい。
ガチャン!!!
そんなとき、私とアンティゴネが通りすぎかかった煤けた雑居ビルのどこかで、ガラスの割れる音と女性の悲鳴が聞こえる。
「……あ」
アンティゴネの表情が一変する。
耳をそば立てるようにあたりを見回したあと、その音がしたビルに向かって、一目散に駆け出す。
「ちょ、ちょっと、アンティゴネ!」
私はあわてて彼女を追った。
■ ■ ■
雑居ビルの6階。
トレーニングしているからもちろん息を切らすことはないが、それでもそれを走りきるのはそんなに簡単ではない。
私がアンティゴネが飛び込んだ雑居ビルのなかの小さな一角は、ワンルーム、いやツールーム、程度だろうか。
そこは、足の踏み場もないような状況。いたるところに割れたガラス、投げつけられた鍋や皿が散らかっている。
そしてその部屋の片方には、眼を血走らせて竹刀を持っている赤ら顔の中年男。そして、やはりその部屋の片隅には、片方の腕に顔を真っ赤にして泣き止まない乳飲み子を抱えている、髪を振り乱した、顔を腫らせた若い女。
家庭内暴力、しかもその常習、といった家庭の修羅場の真っ只中に来てしまった、といったところだろう。
「んだてめえ!!ひとんちに勝手にあがってくんじゃねえ!見せもんじゃねえぞ!!」
酒臭い口臭を漂わせながら、竹刀をアンティゴネに向けて突きつける男。
しかし、そんな竹刀には何も臆することなく、アンティゴネは静かに、
「拝見したところ、お二人はあなたの愛する奥さんとお子さんなのではありませんか?なぜ、夫のあなたが、守るべきか弱い二人に手を上げるんですか?」
「うっせぇ、関係ねえだろ、すっこんでろ!」
男が竹刀をアンティゴネに突き出した瞬間、アンティゴネはその竹刀を交わしながら男の懐に入り、胸元から取り出した金色のロザリオを男のみぞおちにかざし、
"主よ、彼に平穏と感謝の心を与え、悔い改めさせ給え"
短く、ラテン語の詠唱をするアンティゴネ。途端、そのロザリオから金色の光が溢れだし、狭く饐えた臭いの漂う部屋を満たす。
「ぐああ、あ、あ……」
男は一瞬苦悶の表情を浮かべたが、すぐにその顔からその苦悶は消え去り、なにか惚けたような表情になる。
そのまま、体を震わせる女のもとに向かい、
「大丈夫ですか。少し見せてください」
そういうと、アンティゴネはそのまま彼女の腫れた頬――おそらく、男にたたかれたのであろう――に、その白い手をかざす。その手から柔らかな光が女の涙に濡れた頬に降り注がれると、頬の腫れが見る間に引いていく。
「……あ……」
「赤ちゃんも、大丈夫でしたか?」
「は、はい、おかげさまで……」
赤ちゃんはおびえが引かないのか、あいかわらず泣き止む様子を見せない。
アンティゴネは、女性に微笑むと、
「もしよろしければ、少し抱かせてはいただけませんか?」
「あ……はい……」
物腰柔らかだが、それゆえに拒絶する気をそぐアンティゴネの天使のような微笑に、女性が言われるがままに赤ん坊を渡す。
「大丈夫、大丈夫だからね。お母さんとお父さんはすぐ仲直りするからね、怖くないよ?」
そうやってアンティゴネが赤ん坊をゆっくりと抱っこしながら揺らしていくと、あっという間に赤ん坊は泣き止み、やがて、だぁ、だぁ、と小さな手をアンティゴネに伸ばして、微笑み始めた。
アンティゴネが着ている白い修道服のせいもあってか、その様は、まるで聖母マリアが起こす秘蹟をモチーフにした宗教画のような光景だった。
アンティゴネの魔法は「白金」の魔術。
彼女は、その信仰心をもって、邪悪に染まった人間を正道に立ち返らせる能力、そして、人々の心身を癒す力がある。
そして、その魔術の源は、どこまでも透徹した穢れのない彼女の精神と、神と、そして人間の善性への彼女の絶対的な信仰心。
私はヒルダにそう聞いたことがある。
古の聖母の為す秘蹟のような光景を目の当たりにして、改めてそのことを思い知らされる。
そして、私自身が、もはや持ちえぬ、何か輝かしい尊いものを彼女が持っている、ということも。
何か、自分の心の片隅に、蟠(わだかまり)のような、薄黒いものがうずくのを、私はわずかに感じていた。
それは――――――――――――――――――――――――――――――――嫉妬、だったのかもしれない。
続く
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